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10.ゴミじゃない食べ物(2)

 ゴミ箱のない静かな路地に入り、表通りのすぐ近くでそっと腰を下ろす。この辺りなら、スラムの住人に絡まれる心配もないし、路地の奥まった場所だから、通りを歩く人たちの目にもつかない。誰にも邪魔されず、安心して食べられそうだ。


 胸の奥にある高鳴りを抑えながら、そっと手元を見る。左手には湯気を立てる肉の串焼き、右手にはずっしりと重みのある黒パン。どちらも、私が今日一日働いて、得たお金で買ったものだ。


「本当に……買えたんだ」


 思わず、独り言が漏れる。


 汚い格好でも、誰も追い払わなかった。働いた分だけ、ちゃんとお金をもらえて。そのお金で、こんなに温かくて、こんなにおいしそうな物を、自分の手で買うことができた。


 ただそれだけのこと。でも、私にとっては、ずっと夢みたいだった普通のこと。


 手の中の食べ物が、まるで宝物のように感じる。ああ、頑張ってよかった。異世界で生まれて初めて、自分の力で掴んだ小さな幸せ。


 自然と顔が綻び、飛び上がりたい喜びが体中を駆け巡る。その時、お腹の虫が盛大に鳴った。どうやら、体は目の前の食べ物を早く食べたそうだ。


「いただきます」


 もう我慢しなくていい。これは、自分が働いて手に入れた、大切な成果だ。どっちを先に食べようか、そんな贅沢な悩みすら嬉しくて、自然と口元が緩む。


 少し迷ってから、右手の黒パンを口元に運ぶ。そっと大きく口を開いて、思いきり噛みついた。


 ──その瞬間、思わず目を見開いた。


 いつも食べていたパンくずや、カビの生えたパンとはまるで違う。表面は少し硬いけれど、中はふっくらと柔らかい。噛むたびに、小麦の香ばしさがふわっと広がって、鼻をくすぐる。


 たったひと口。それだけで、胸がいっぱいになった。


 ちゃんと働いて、自分の力で買ったんだ。誰にも恵んでもらったんじゃない、ゴミを漁って得たものじゃない。自分の足で立って、手に入れた食べ物なんだ。


 素朴な味なのに、なんでこんなに美味しいんだろう。


 口の中でじっくりと噛みしめる黒パンは、ただの食事じゃない。体も心も、あたたかく満たしてくれる――それは、まさにしあわせの味だった。


 五十セルトの黒パンだけで、あれほど幸せになれたのに──百五十セルトもした肉の串焼きは、一体どれほどの味なんだろう?


 そんな期待で胸が高鳴る中、左手に持っていた串焼きをそっと口に近づけ、大きくかぶりついた。


 ジュワッ──。


 噛んだ瞬間、溢れ出した肉汁が舌を覆い、熱と旨味が一気に広がる。驚きとともに体がビクッと反応し、思わず目を見開いた。


「……っ、おいし……!」


 言葉にならない感動が喉の奥で震える。


 口いっぱいに広がる濃厚な旨味。しっかりと焼かれた外側の香ばしさと、内側の柔らかくてジューシーな肉質がたまらない。塩加減も絶妙で、噛めば噛むほど肉の味が深くなっていく。


 一口ごとに、幸せがどんどん積み重なっていくようで──気づけば、胸の奥からじんわりと嬉しさがこみ上げてきた。


 これが……働いて、自分で稼いで、手に入れたご褒美の味なんだ。


 胸に広がる満足感が、じんわりと染み込んでいく。


 もう一口、そっとかぶりつく。今度はさっきよりもゆっくりと、じっくりと噛んだ。じわじわとあふれる肉の旨味を、舌の上で転がすように味わう。熱が口の中に広がって、塩味がそれを引き立てて、噛むたびに幸せが染みこんでくるようだった。


 その一切れ、その一噛みに、感動が詰まっている。思わず目を閉じて、じっくりと味わいながら飲み込んだ。


 「美味しい……」


 誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。


 口の中が空になると、次の一口がもったいなく感じた。黒パンと串焼きの肉をそっと見つめる。一口、一口がとても貴重で、手放したくないほどに愛おしい。


 もう急いで食べる必要なんてない。誰も奪わない。私だけのご飯。私だけのご褒美。だから、心の中でありがとうと言いながら、ひとつひとつ丁寧に食べていく。


 噛むたびにあふれる温かさが、喉を、胸を、心を、優しく満たしていった。その途中――それは静かに起きた。


 ぽたり、と。


 左手に落ちた一滴のぬくもりに気づいて、私ははっとした。涙だった。


 知らないうちに、頬を伝っていた。何の前触れもなく、込み上げてきたものがあふれた。慌てて拭おうとしても、次から次へと涙がこぼれてくる。


 「……なんで、泣いてるんだろ……」


 問いかけながら、自分でも答えが分かっていた。悔しかった過去。苦しかった日々。惨めだった時間。それらが、この一食にすべて溶けていくようで、たまらなかった。


 ──やっと、報われたんだ。


 拾い食いしていたあの頃。パンのカビを指で削って、冷たい水で流し込んだ日々。怒鳴られて、蹴られて、汚いもののように扱われて、それでも生きるしかなかった。泣いても、誰も助けてくれなかった。泣くことさえ、いつの間にかやめていた。


 そんな日々を、生き抜いてきた自分が今、こうして温かい食べ物を前に、心から美味しいと感じて、涙を流している。


 それが、たまらなく嬉しかった。


 ようやく、ほんの少しだけど自分で生きていけるかもしれないと思えた。ひとつの小さな成功だけど、それは私にとって、あまりに大きくて、眩しい一歩だった。


「……がんばって、よかった……」


 声が震える。でも、言葉にしなきゃ、胸がいっぱいで苦しくなりそうだった。


 誰も褒めてくれない。誰も祝ってくれない。でも、それでもいい。私は知ってる。これは、ちゃんと私が自分でつかんだ幸せだ。


 こぼれる涙は、止まらなかった。でももう、恥ずかしくなんてなかった。


 だってこの涙は、あの日々を生き抜いた証。過去の私がくれたご褒美なんだから。


 しばらくして、私は涙を拭う。もう冷めかけているけど、その温もりは、心の中でずっと消えない気がした。


 ──明日も働いたら、食べられる。


 小さな笑みが浮かべると、希望が生まれる。そんな未来を考えられる自分が、今ここにいる。


 路地の静けさの中、私は最後のひと口をゆっくりと噛みしめた。それは、世界でいちばん優しい味だった。

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