王国
王国には、ある伝説が語り継がれている。
空に浮かぶ二つの月が重なり合う時、魔の力が強まり、聖なる封印が破られる。
真の魔の力に、王国は必ず滅亡するであろう。
聖なる封印は、異世界の清らかなる乙女しか成し遂げられない。
魔が解き放たれる前に。
探せ。
王国の守り手、選ばれし魔道士たちよ。
古の魔術により、聖なる乙女を召喚せよ。
第一王子は空を見上げた。
伝説に語られるように、空に浮かぶ二つの月が、寄り添うように近づきつつある。今は横並びのこれが、ぴったり重なるまで、あと半年とも、一年とも言われている。いずれにしろ、伝説の聖なる乙女を召喚するには、ギリギリのタイミングだ。
第一王子が儀式を行う魔術塔の最上階に向かうと、既に国王王妃夫妻、それから弟妹も勢揃いで、儀式を見届けるべく、設けられた特別席に着席していた。
「遅いぞ」
「申し訳ありません」
遅れたのは、聖女を迎える者の礼儀として、身なりを整えるのに時間がかかったからだが、第一王子は口をつぐんで空いている席に座った。
聖なる乙女を迎えた後は、国をあげて彼女を保護する。その際、与えられるのは王国の第一王子。
表向き、未来の国王の妃という破格の待遇と栄誉を与えられる。しかし、召喚された乙女がそれを享受し、幸せな余生を送ることはない。おしなべて、乙女の命は聖なる封印の源にされる。人柱として。
魔導師たちが床に召喚の魔法陣を書き終えた。魔道士たちはそれぞれ、その円周に沿って均等な間隔で立ち、一人が古ぼけた書物を片手に呪文を唱えはじめた。
床の文様が輝き出す。
数百年ぶりに行われるこの儀式の、詳細を知るものはいない。
家族たちは、まるで城に呼んだ旅芸人らのパフォーマンスを眺めるのように、期待に胸を躍らせている。
――勝手なことだ。
第一王子以外の王族にとって、聖女の召喚は王国存亡の鍵となる、重大な物。
ただし、彼らは何一つ犠牲を払うことはない。ただの傍観者だ。
召喚の儀式に命懸けで挑むのは、国家魔道士の中でも特に優秀なもの達。召喚した聖女を使えるように仕込むのも魔道士。聖女がこの国に滞在する間、聖女のご機嫌を伺い、接待し続けるのは第一王子の役目だ。
それ以外の王族など、何もしないくせに、態度と見栄だけはご立派だ。命令だけして何もしないくせに、歴史に名を残すのはたいてい王族なのだから。
魔法陣の光が、静かに燃え広がる炎のように、ゆらゆらと立ち上った。
「おお……!」
父の歓喜の声に、第一王子はシラケた目を向ける。
――なんだ、あれは。まるで、旅芸人の火の輪くぐりのようではないか。
魔道士たちがフラフラになりながら必死に魔力を注ぎ、ようやく生みだした奇跡の光は、たかだか大人のくるぶし程度の高さしかなく、爆発もしなければ、荒ぶることもなく、穏やかに揺らめく。なんなら、火の輪くぐりの炎の方が、轟々と燃え盛り、熱気まで感じる勢いがあった。
弟妹たちも、儀式のショボさに気づいてしまったのだろう。
数日前から、どんな珍しいものが見られるかと、期待に瞳を輝かせていたのに、あからさまにガッカリした様子で、儀式を眺めていた。
突如、呪文を唱えていた筆頭魔術士が、ブルブルと身体を激しく痙攣させ、泡を吹いて倒れた。魔力切れだ。倒れた先が王妃の足元だったのが良くなかった。王妃は、足元に転がった筆頭魔術士の体を遠ざけようと、足蹴にした。
「ヒ……ッ! 粗忽者めが! はようこの者をどかさぬか!!」
「儀式を続けい!!」
魔術書が隣の魔道士に手渡された。受け取った手が震えている。当然だ。術者の魔力消費は想像を絶する。自分の限界まで魔力を搾り取られたあとは――今さっき、目にしたばかりだ。
筆頭魔術士だった男は、床を引きずられて、部屋の隅に移動させられた。魔力切れなら、速やかに魔力を注入しなければ命に関わるというのに、今は誰もそれに気づかない。
若い魔道士が、泣きながら呪文を唱え始める。
しかし、一人欠けた穴は大きいようだ。魔法陣の光は少しずつ勢いを失っている。
第一王子は立ち上がり、筆頭魔術士がたっていた場所に立った。
「そなた、何をしておる!」
「魔力注入の手伝いを」
「戻れ! そなたには聖女を迎えるという大事な役目があるであろう!」
国王と王妃が騒ぐのを振り返り、
「しかし、聖女を召喚できなければ、その役目にはなんの意味もありません。もしわたしが倒れたら、わたしの役目を担うスペアはいるでしょう? なにもしない人は、そこで見ていればいい」
奪われていく魔力の多さに、第一王子の額に脂汗が滲んだ。
手をかざしたそこから、ズルズルと体の芯を抜かれていくような感覚。胃がせり上がり、吐き気が込み上げてくる。内臓が丸ごと持っていかれそうだ。
この苦行を、魔道士たちは自分の限界ギリギリまで、顔色一つ変えず、使命に没頭しているのだ。
所詮、魔力が多いだけの王族では、務まる役ではなかったか。
第一王子はふらつく身体を、必死に立たせる。無様な姿を晒すことはできない。月の運命を背負って生まれた第一王子は、この王国の未来を守る責務があるのだから。
術者の祈りは慟哭に混じり、鼻水と涙に汚れた絶叫だった。体からは無遠慮に魔力が失われていく。
第一王子王子以外の魔道士たちが、身体を震わせはじめる。白目を向きながら、何とか立ち姿を維持している者もいる。
明らかに皆が限界だった。
彼らが倒れたら、儀式は失敗する。
――早く……来い!なんでもいいから!!
第一王子の祈りも虚しく、魔道士たちはバタバタと泡をふいて倒れ始めた。第一王子も片足をつき、項垂れた。何とか魔力切れは逃れたが、もう指一本、動かす力が残っていない。
「儀式は……」
――失敗したか。
肩で息を吸う。その第一王子の横を、国王がぶよぶよと太った原を揺らしながら、駆け抜けた。
「儀式は成功じゃ! そなたら、よくやったぞ! 褒めてつかわす!」
見れば、魔法陣の真中で立ち尽くす少女の手を取り、国王が高々と掲げていた。
「伝説の聖女は召喚された! これで、我が王国は安泰じゃ!」
喝采と歓喜の叫びを聴きながら、第一王子は意識を手放した。
聖女降臨の知らせは、瞬く間に国中を駆け巡った。その陰で、五人の優秀な魔道士の尊い命が失われたことは、伏せられた。
「ねえ、お兄様。聖女召喚の儀式と勿体つけていたくせに、随分と質素だったとは思いません?」
「わかるー。降臨するってくらいだから、なんかこう…目が眩むほどの光がパアッと広がったり、天界の鐘がなったり、羽や鳥が飛び回ったりするかと思っていました」
幼い弟と妹は、あの命懸けの儀式の重みを分かっていなかった。何か特別な催し物を見物する、そんな軽い気持ちと、事前の期待を裏切られたことへの不満しかなかった。
「お前たち、伝説を美化しすぎだぞ…」
儀式の後、第一王子は丸一日、目覚めなかった。
彼が目覚めた時には、既に殉職した魔道士の件は片付けられており、国中が聖女召喚の喜びに沸き立っていた。
魔力は半分しか回復しなかった。王族としては痛手だが、王族が魔術をふるう機会もそうそうないから、実害はない。
そして今日から、第一王子は聖女の仮初の婚約者となる。
第一王子は、じゃれついてくる弟妹を従者に預け、聖女の元に向かった。
「第一王子殿下。ごきげんよう」
戸口でそうお辞儀するのは、公爵令嬢。儀式までの間、聖女の世話を任された令嬢で、元は第一王子の婚約者だ。
「そうか。君が…」
「はい。儀式までの間……聖女様のお側に」
「よろしく頼むよ」
第一王子は、胸に熱いものが込み上げるのをひた隠しにして、公爵令嬢に問いかけた。
「聖女様のご機嫌はいかがかな?」
公爵令嬢に導かれるまま入室した第一王子は、部屋の片隅にちんまりと立っている聖女をみて、落胆した。
その容姿は、お世辞にも美しいとは言えず、目と鼻と口が顔の表面にチョンチョンと配置されているだけの娘だった。
服装は仕立て屋に整えさせていたが、まるで着こなせていない。
痩せぎすで、上品さの欠片もなく、警戒心むき出しで、訳の分からない言葉を喚き散らしている。
「!!! !!!!!!!」
第一王子王子には、全く理解できない言語だった。
「あれは……何と言っているのだろうか」
「さあ……わたくしにも解りかねます。ただ、聖女様は酷く怯えていらっしゃいますわ。おかわいそうに。わたくしでお力になれれば良いのですが」
公爵令嬢は身分に驕らず、純真無垢で優しい人物だ。心の底から、突然異世界に召喚され、混乱している聖女を哀れみ、心配しているのだろう。
第一王子は耐えきれずに公爵令嬢の肩を抱く。
「殿下……いけません。わたくしは婚約破棄された身でございます」
「これくらいは許してくれ。……愛しているのは君だけだ。それに、婚約は破棄ではない。保留だ。儀式が無事に済んだら……必ず君を迎えに行く。待っていて欲しい」
「……殿下」
公爵令嬢の腕が、躊躇いがちに第一王子の背に回った。
召喚した聖女と言葉が通じないのは、かなりの痛手だった。
第一王子は聖女の言葉を理解すべく、様々な文献に目を通したが、なんの手がかりもなかった。しかたなく、コミュニケーションを取るために、聖女に筆記用具を与えた。公爵令嬢との日常生活では、絵を介して意思疎通ができるようになった。なんだかんだ言って、若い女性同士、気の合う部分もあったようだ。
ひとつ発見もあった。
聖女は食文化が全く違うらしい。どんな料理を出して泣くばかりで手をつけなかった聖女が、果物や穀物は好んで食べるということもわかった。
何も食べなければ、死なせてしまうところだった。
そんな馬鹿な話があるか。
こちらは優秀な魔道士を五人も犠牲にしたのだ。彼らの中には、今年成人したばかりの天才と呼ばれた、前途有望の若者もいた。むざむざ死なせてしまえば、彼等は犬死も同然ではないか。
飢え死にさせずに済んだのは、公爵令嬢の粘り強い対話のおかげだ。
しかし、聖女に儀式を教えなければならない魔道士たちは、それでは事足りない。
彼らだけは、必死に聖女に言葉を教えようと必死だった。儀式の際には聖女が唱える呪文こそ、魔を封印する鍵となるのだから。
聖女が魔道士の教育を受けている間、第一王子は公爵令嬢を労った。
王宮の庭を散策し、四阿で語らい、図書館で共に読書に耽り、時折内緒で楽士や大道芸人を呼び、驚かせる。
まるで恋人同士に戻ったかのような、穏やかな時間。
いつしか、一日のほとんどを聖女は勉強に費やすようになり。『言葉の通じない聖女の相手をする公爵令嬢を労う』という言い訳が立たなくなり。
見かねた両親に「聖女が逃げ出したらどうするのだ」と叱られもしたが、第一王子は聖女が自分に微塵も興味を見せないことをいいことに、その態度を改めはしなかった。
第一王子には、聖女が逃走しない自信があった。
聖女は見た目通りのただの少女でしかない。全王国民が期待したような、巨大な聖なる力もなければ、王国に生まれたものならば、誰しも等しく持って生まれる魔力さえない。腕力もないから、城の護衛を振り切って逃走することなど、不可能。
聖女には、このまま儀式で人柱になる以外の未来はないのだ。
第一王子との交流によって、そこまでの道筋にわずかばかりの華やかさが加わったとして、無意味――第一王子はそう結論づけた。
そもそも聖女は、部屋を訪れても第一王子とは目も合わせようとはしない。
初めから距離を取られているし、態度で匂わせていたせいか、第一王子と公爵令嬢の関係をそれとなく察したようで、今では第一王子と入れ替わりに退出するくらいだ。その時間も、図書館で儀式の勉強をしているというのだから、良いことではないか。
第一王子は、ただ儀式の時を待った。
いつか見上げた月は、今は半分ほど重なっている。
聖女は召喚された。
あとはあの月が重なるまでに、聖女が儀式を会得し、魔道士が儀式を行いさえすればいい。
それが済めば。あとは何もかもが元通りだ。
王国を覆う暗雲は消え去り、第一王子と公爵令嬢の婚約は保留が解除され、堂々と恋人と名乗れる。
無責任と言われるかもしれないが、第一王子にとって、聖女は儀式で必ず消費されるであろう命にすぎないし、魔術士ではない第一王子にとって、儀式そのものは自分の範疇外のものだった。
自分の役目は、あくまでも聖女が気分よく生贄になるべく努力すること。
しかし、言葉も通じない、はなから避けられている自分ならば、聖女の側にいない方が良いのだ。
聖女がひとりで何をしているのかも知らず、第一王子は公爵令嬢とひと時の甘い時間を楽しんだ。
二つの月がほとんど重なりそうな夜。
とうとう、その日がやってきた。
公爵令嬢の手によって美しく飾られた聖女は、神輿に乗せられて封印の像の前に運ばれた。
夜空には星もなく、二つの月だけが鮮血のように赤い。風もなく、生ぬるい空気が不気味に体にまとわりつく。
封印の像があるのは、王宮の庭園の奥だ。花も緑もなく、周囲は石畳を敷かれただけで、明らかにそこだけは他とは異質の雰囲気を醸し出している。
この日のために、新たに選出された優秀な魔道士が五人。像の前に立ち、聖女を出迎えた。
召喚の儀式と同じように、王族の席が設けられており、王族は勢揃いで儀式を見届ける。ひとつ違うのは、そこに公爵令嬢の姿があることだ。
「上手くいくといいのですが……」
不安そうな公爵令嬢の手に、第一王子が手を重ねる。
「大丈夫だ。きっと上手くいく」
「殿下……」
上手くいってもらわねばならない。第一王子には、成功した先の未来しかないのだから。魔を封印し、何もかもが元通りになった未来。公爵令嬢を婚約者としてとりもどし、やがて結婚し、この国をともに反映に導く未来。
聖女が像の前に立った。その周りをぐるりと魔道士が囲んだ。まるで逃がすまいとでもいうかのように。
聖女が魔導書を開く。そこから紙のような物を取り出すのが見えた。王族の席からは、聖女が何をしているのか、よく見えない。
魔道士たちが慌てている。トラブルだろうか?確認しようと、第一王子が腰を上げたその時。
「王国の守護者清浄の女神の名において命じる。異世界への扉を開き、聖女を元の世界に送還せよ!」
聖女が叫び声を上げた。
彼女を囲う魔道士たちは、額に紙をはられて棒立ちになっている。聖女が繰り返し呪文を唱える度に、魔道士の額の紙に描かれた魔法陣が発光し、大きな光となって聖女を包んだ。
何が何だか、訳が分からない。
とにかく、聖女を止めなければ。
その一心で第一王子は飛び出す。
――あの女。
なにをした。
なにをした。
素直に生贄になればいいものを……!
「まさか……!」
それに気づいた第一王子は、眩しさに目を凝らしながら、必死に聖女に手を伸ばす。
――逃がすものか。お前は大事な、人柱だ!!!
魔道士たちがバタバタと倒れ始めた。
聖女の姿は圧倒的な光に埋没し、もうほとんど第一王子には見えない。おそらくそこにいるであろう場所に、必死で手をのばすが、その手は虚しく空をきった。
光が掻き消えたそこに、聖女の姿はない。
「逃げられた……」
第一王子は力無く膝をつき、宙を見上げた。
何も知らなかった。
いつの間に、聖女はあんなにも流暢に言葉が話せるようになっていたのか。
第一王子は、異世界の言葉をヒステリックに叫ぶ聖女しか知らない。
どれほどの努力で、言葉を習得したのだろうと、今更ながらに聖女に同情した。
「一体どうしたのだ、何があった?」
大きな腹を揺らし、国王が駆けつけた。
「聖女に逃げられました」
「な、なんだと!?」
「もう、この国はおしまいです」
「何を言うておる! すぐに別の聖女を召喚するのじゃ!」
第一王子はわらった。
召喚の儀式で、最も優秀な五人の魔道士を失い。
今、聖女に出し抜かれ、聖女を送還するために五人の魔道士の魔力が根こそぎ使われた。今かろうじて生きている彼ら以外に、もはや優秀な魔道士はいない。他の現役の魔道士は誰もがどんぐりの背比べで、召喚の儀式を行えるほどの人物はいないのだ。質より量で儀式を押し切ったとして、まともに聖女が召喚できるかどうか。
そんな簡単な計算が、この王国を統べる国王が理解できないとは。
国王は倒れている魔道士を必死に起き上がらせようとしている。
――全く。人の命をなんだと……。
第一王子はそこではたと気づく。
それは聖女も同じだ。
突然異世界から召喚されて、この国のために命を投げ出せと。言われて納得できようか。
逃げられて当然だ。
努力などという言葉では足りない。生への執念と、理不尽な死への必死の抵抗、それから土壇場で賭けに出捨て身の覚悟。その全てが、周りが敵だらけの彼女を腐らせず、行動させ、勝利に導いたのだ。
第一王子はわらった。
己の傲慢を。
この世に、死んで当然の命などないのに。
なぜ、聖女の命を踏み台にしても良いと思っていたのか。聖女が王国にやってきたのは、王国による誘拐であって、聖女自ら役目を果たしてきたのではないのに。
第一王子は公爵令嬢を見上げた。その潤んだ瞳は不安げに揺れている。
その後ろに、二つの月がぴったりと重なり、赤く輝いていた。
.