母
慧は22歳。大学4年生。
そろそろ就職活動が本格的に始まる時期だった。
慧「どこに就職しようかな……」
そんなタイミングで、長い夏休みが訪れた。
久しぶりに実家へ帰ることにした。
慧「ただいまー」
母「おかえりー」
家の匂いが懐かしく、夕飯を囲む団らんは心がほどけるひとときだった。
父と母と、三人だけの食卓。
何気ない会話の中、母が言った。
母「そういえばさ、まどかちゃん、子ども産んだらしいよ!」
慧は、思わず箸を止めた。
慧「えっ……ああ、そうなんだ」
遠い話のように聞こえた。
就職先も彼女も決まってない自分にとって、
“子ども”や“出産”はまるで異世界のことだった。
母は続ける。
母「それがさ……お父さんいないんだって。妊娠わかったら逃げちゃったみたいで……」
慧は言葉が出なかった。
“シングルマザー”“未婚の母”“出産”――
一度に押し寄せる現実の重さに、脳が処理を拒んでいた。
慧「そっか……それは、大変そうだね……」
それだけ言って、風呂に入り、その夜は静かに眠った。
翌朝。
やることもなく、実家の犬を連れて散歩に出た。
空は夏らしくまぶしかった。
ふと、向かいの家の扉が開く。
出てきたのは、まどかだった。
黒の長袖にタイトスカート、足元はヒール。
長い髪を束ねず、赤いストールが風に揺れていた。
ベビーカーを押している。
その姿には、“祝福”の代わりに、
どこか哀しげな静けさが宿っていた。
慧
すれ違いざま、慧が声をかける。
慧「……こんにちは」
まどかは小さく頷き、微笑んだ。
その笑顔は、とても美しかった。
だけど――本当の笑顔ではなかった。
そこには、笑顔の形をした
哀しみと、やさしさと、受け入れた運命が重なっていた。
赤ちゃんの泣き声が、夏の空に響く。
「おぎゃあ、おぎゃあ」
まどかは黙ってあやし、
その瞳に何かを映すように、言った。
まどか「ほらほら、かわいいね……翔人」
それは、母性と悲しみ、そして
――一人の女性の“強さ”を帯びた、確かな輝きだった。