09.アニス、やらかす
(大変なことになってしまった……)
ハロルドの運ぶ籠の中で揺られながら、アニスはため息をついた。
魔法士団本部を出たハロルドは、その足で王宮の医務室に向かった。
治療師にアニスを見せ、問題ないか確かめる。
その際、治療師から
「これは猫ではなくケットシーですね」
と言われたことにより、アニスが猫ではなくケットシーであることが判明した。
(猫よりは多少マシかな……)
ケットシーは猫より数倍強いし、魔法も使える。
いざとなれば戦えるというのは、とても心強い。
(まあ、だからといって問題は何も解決していないわけだけどね……)
そんなアニスを籠に入れて、ハロルドは王宮の廊下を早足で歩いた。
寮に戻って自分の部屋に入ると、机の上に籠をそっと下ろした。
アニスが外に出ると、しゃがみ込んでその瞳を見つめる。
「お腹は空いていないか?」
アニスはちょこんと座ると、ハロルドの目を見返した。
お腹が空いていない、という意思を込めながら「にゃあ」と鳴く。
どうやらハロルドは理解したようで、「そうか」とうなずいた。
部屋の隅に、水を張った皿と、小さなビスケットを何枚か乗せた皿を置くと、アニスを振り向いた。
「私はこれから仕事に行くから、ここにいてくれるか。時間が空いたら見にくる」
(そうよね、邪魔しないようにしないと)
アニスが、分かったわ、という風に「にゃあ」と鳴くと、ハロルドが心配そうな顔をした。
「1匹で大丈夫か?」
アニスは、にゃあ、と鳴いた。
元は人間だから留守番くらい問題ないわよ、と心の中で思う。
そんなアニスに、ハロルドがそっと手を伸ばした。
撫でてきそうな気配に、アニスがさっと身を引く。
助けてくれたことに感謝しているが、それとこれとは話が別だ。
ハロルドが手を引っ込めながら苦笑した。
「この懐かない感じ、お前の主人にそっくりだな」
そうつぶやくと、「行ってくる」と言い残して部屋を出て行く。
バタン
扉が閉まり、鍵がかかる音がする。
ハロルドの足音が遠ざかるのを聞きながら、アニスはググーッと伸びをした。
トコトコ歩くと、水に近づいてぺろぺろと舐める。
(猫の舌ってすごいわね、これでちゃんと水が飲めるんだから)
横に置いてある小さなクッキーの匂いを嗅いでみるが、食欲がないせいか、あまり食べる気がしない。
彼女はちょこんと座ると、部屋を見回した。
この姿だと、寮の部屋が大講堂より広く見えるわね、と思いながら大きなため息をつく。
(は~……、信じられないことが起きてしまった……)
今の状況を整理すると、
・古代迷宮で行方不明になったアニスを、みんな必死に探している
・当のアニスは、どういう訳か猫になってハロルドの部屋にいる
ということだ。
(なんでこんなことになったんだろう……)
思わずため息が出るものの、元の姿に戻らなければ、と思う。
みんなを心配させる訳にはいかないし、やらなければならない仕事もまだいっぱい残っている。まだ家に仕送りもできていない。
ちゃんとやらないと、みんなに迷惑をかけてしまう。それだけは避けたい。
彼女はソファに寝そべると、思案を巡らせ始めた。
(多分、これって魔法の類よね)
動物に姿を変える魔法など聞いたことがないが、魔法以外ありえない。
そうなると、魔法を掛けられた時の状況が大切になるのだが……
(寝ていたせいで、よく覚えていないのよね)
眠りについた時は、確かに人間だった。
ということは、寝ている間に何か起きたと考えるべきだろう。
――と、ここまで考えて、彼女はふと、ハロルドが魔法士団本部から報告書をもらってきたことを思い出した。
確か、ヘクトールはが「これまでの状況を整理した資料」と言っていた気がする。
(もしかすると、何かヒントになるようなことが書かれているかもしれない)
彼女はソファから飛び降りると、執務机に向かった。
椅子に飛び乗って机の上を見ると、紙入れが置いてあった。
丸い手と鼻を駆使して中をのぞくと、先ほどもらってきた報告書の紙束が入っている。
(あった!)
アニスは、紙束を束ねてある紐をくわえて引っ張った。
ずるずるっと封筒から引っ張り出す。
しかし。
「にゃ!」
勢いあまって、アニスは紙束ごと下に落ちてしまった。
彼女の方は、自然と体が動いて無事に着地するが、紙束はバラバラになって床に散乱してしまう。
(し、しまった!)
アニスは慌てた。
何とか元に戻そうとするが、がんばればがんばるほど、どんどん紙がぐしゃぐしゃになっていく。
(……これは、何もしない方がいいかもしれない)
アニスは、ガックリと肩を落とした。
どうやら思った以上に猫の手は不便なものらしい。
そして、諦めてこのまま報告書を読もうと、床に座り込んで文字をながめ、彼女はふと気が付いた。
もしかして、しゃべれなくても文字なら書けるのではないだろうか、と。
(そうよ! 文字が書ければ、わたしがアニスだって伝えられるわ!)
試してみようと、彼女は再び執務机に飛び乗った。
机に置いてあるインク瓶を近寄り、両方の肉球でペンをゆっくりと引き抜こうとする。
しかし、
(うーん、すべるわね)
手にも毛が生えているせいか、つるつるすべって上手く掴めない。
そして、仕方ないと口で加えて思い切り引き抜くと、ペンが勢いよくスポンと抜けた。
ピシャッ! と周囲にインクが飛び散る。
(わっ!)
焦って飛びのくと、今度は反対側に置いてあったインク瓶にぶつかった。
瓶が絨毯の上に落ちて、青いインクが、ゆっくりと絨毯の上に広がる。
(ま、まずい!)
アニスは青くなった。
どうしよう、と机の上をウロウロと歩くと、足にインクがついてしまったらしく、そこら中が小さな肉球の足跡だらけになる。
とんでもない惨状に、彼女は途方に暮れた。
何とかしなければ、と必死に考える。
そして、
(そうだ、魔法があるじゃない!)
彼女は、魔法で何とかすることを思いついた。
水を出して、とりあえず机の上だけでも綺麗にしようと思う。
しかし。
(ぎゃー!!!!)
結果は大失敗。
加減が分からず水を大量にぶちまけてしまい、部屋がまるで嵐に襲われたかのようになってしまった。
しかも自身もずぶぬれになってしまう始末だ。
(ど、どうしよう……)
あまりにひどい状態に、彼女は絶句した。
何かマシにする方法はないかと必死に頭を巡らせる。
しかし。
ガチャガチャガチャッ
不意に、鍵穴に鍵を差し込む音が聞こえて来た。
カチャリ、と鍵が開き、ドアがゆっくりと開く。
(か、帰って来た!)
アニスは脱兎のごとく執務机の上から飛び降りると、机の下に隠れた。
身を小さくしながら伺うと、扉を開けてハロルドが入ってきた。
部屋を一目見て、雷に打たれたように立ち尽くす。
「こ、これは……」
怒られる! と観念しながら、アニスはギュッと目をつぶった。
猫飼いあるある……