第1話:鳴神隼という男に好かれるとどうなるか
入学シーズンを終え、大型連休を乗り越えた五月上旬。南八雲大学のカフェスペースでは学生たちが勉強や談笑に花を咲かせている。
賑やかなカフェスペースの窓際のテーブルで、緑川琉唯は襟足の長い栗毛を耳にかけて、目立つ紫のメッシュを揺らしながら腰を掴む腕を叩いていた。
「隼、頼むから離れてくれないか?」
「何故?」
何故と不思議そうに顔を向ける彼の猛禽類のような眼が細まる。ウルフカットに切り揃えられた黒髪が彫刻のように整った顔に映えていて、女性だけでなく男性も見惚れてしまう。
そんな青年が大学のカフェスペースで男の腰を抱いていた。
「隼。おれは別に逃げないから」
「逃げるとは別に思っていない。ただ、俺がこうしていたいだけだ。何か問題でもあるのか?」
「人目を気にしてくれないか」
カフェスペースのテーブルの椅子に座っているとはいえ、角度によっては腰を抱いているのが見える。それを他に利用している学生の目に留まるわけで。ちらちらと女子の視線がこちらに向けられていた。
鳴神隼という男に琉唯は懐かれた。いや、好意を寄せられてしまっている。
どうして、このイケメン男子に男の自分が好かれてしまったのだと、琉唯は出逢った時の事を思い出すように溜息を吐いた。
琉唯は二年生に上がった今ではそこまで利用はしなくなったが、一年生の時は講義の空いた時間や、友人との待ち合わせのために南八雲大学附属図書館を利用していた。
鳴神隼はその図書館の常連であり、通っていれば知らない人はいない。琉唯は視界の端に彼を見止めるぐらいでそれほど興味はなかった。
同じ学科であるのだから噂を聞いたことがなかったわけではない。現に彼目当てで図書館にやってきては話しかけている女子大生というのは多かった。
そんな女子大生と隼が言い争っていた光景があまりにも酷く、女性側がテーブルを叩くなどの迷惑行為をしていたことに我慢がならず、琉唯が注意に入ったのだ。
これがきっかけで隼と話すようになったわけだが、琉唯自身からというよりは彼から声をかけられるようになった。懐かれたかなぐらいで軽く考えていた琉唯はそれが甘いのだと知る。
明らかな好意にどこに惹かれる要素があったのだという琉唯の問いに隼は言うのだ。
『君の言動が好みだった』
この一点張りなので、琉唯はそうかと問うのも止めて受け止めてしまった。これがいけなかったのだと後に気づくのが時にすでに遅い。
(仕方ないじゃないか。別に隼のことは嫌いじゃなかったし)
隼を嫌いになる要素はなかった。距離の近い感じはあれど、琉唯自身が嫌だと拒絶したことに関しては大人しく従ってくれる。勉強だって分からないところは教えてくれるし、本の趣味も合うのだから嫌いになる要素がない。
少々、はっきりと物を言ってしまうのが悪いところではあるが、それは彼が嘘をつかないという性格の表れでもあった。だから、好きか嫌いかならば、好きとなる。
とはいえ、その好きが恋愛感情かと問われると分からない。琉唯は答えが出せず、こうして隼のすることを許していた。
「相変わらずの前方彼氏面だね、鳴神くん」
「あ、時宮ちゃん」
ふわりとウェーブがかった明るい茶毛を揺らして、手に持ったカフェオレを飲みながら女子大生が一人、声をかけてきた。
彼女は時宮千鶴という大学の同級生。同じ学科であり、彼女の持ち前のコミュニケーション能力によってこうやって話す仲になった。
琉唯に紹介された先輩と恋人になったというのもあるのか、今では遠慮なく愚痴を言い合っている。
「器広いよね、緑川くん」
慣れたように二人の前の席に座って千鶴はカフェオレをテーブルに置きながら話す。
隼はあまりに彼氏面をしている。後方彼氏面といった一歩、後ろでやっているならばまだしも、隠す気もなく前面に出る前方彼氏面をされては嫌だと感じることもあるはずだ。
千鶴は「器が広くて優しい。だから、離れないんだよねぇ」と隼を見遣った。彼は黙って眉を寄せるが、それだけで図星を突かれているのは察することができる。
「時宮ちゃんって怖いもの知らずだよな。本人の前でそれ言えないよ、普通」
「私だって誰彼構わず言う訳じゃないよ。私は敵対視されてないからね」
千鶴は恋人以外の男性に興味がない。琉唯や隼のことも同級生の友人として接している。恋愛感情が一切なく、嘘をつくこともなれければ、二人に迷惑をかけることもしていなかった。
隼目当てで話しかけてくる女子を千鶴は「無理無理」と相手にしていないし、琉唯にちょっかいをかけることもしない。なので、隼からは敵対視されていない数少ない人間の一人だ。
それを千鶴は理解している。二人を揶揄うことは絶対にしないので、はっきりと物を言っても許されるのだと彼女は笑ってカフェオレを飲む。
「そもそも、本当のことしか私は言ってないし。まぁ、私はどっちかというと鳴神くん応援してるんだよねぇ」
緑川くんは一人にしておくと心配だしと言う千鶴に、そこまでかと琉唯はむっと頬を膨らませる。
不満そうな顔を向ければ、「変な女子に捕まりそうだもん」と追い打ちをかけられてしまった。
「まぁ、前方彼氏面な鳴神くんを受け入れてさ、好きにさせてる緑川くんも悪いし」
「それに関しては否定ができない」
「鳴神くんなら襲ってくることはないだろうからゆっくり考えな」
「おれ女側じゃん、それ。いや、それより時宮ちゃん、言い方」
本人の前で何を言ってるんだと琉唯が突っ込みを入れれば、千鶴はてへっと舌を出す。
全く悪気の無い様子に琉唯はちらりと隼を見遣れば、彼は「同意なしにそういったことをするわけがないだろう」と当然のように返していた。
なんだか突っ込むのも疲れてきた琉唯の耳に「あ、いたいた」という声が聞こえる。
「ひろくん!」
振り向けば丁度、話していた相手である千鶴の恋人、花菱浩也がやってきた。焦げ茶の短い髪をワックスでセットした浩也は今日も男前に磨きがかかっている。
「ひろくん、おっそい!」
「悪かったって。友人に呼び止められて遅くなったんだ。その、緑川……。ちょっといいか?」
「どうしたんですか、先輩?」
なんとも申し訳なさげにしている浩也に琉唯が問い返せば、彼はちらりと隼を見てから「ちょっとお前に話があるんだわ」と言われた。
その視線に自分一人でということを察した琉唯は隼に「ちょっと待ってろ」と指示をだして立ち上がる。
隼はなんとも不満げであったが琉唯に「時宮ちゃん見張っといて」と千鶴に頼んでいるのを聞いて、しぶしぶといったふうに頷いていた。
浩也に連れられてカフェスペースから離れると一人の女子が腕を組んで立っていた。琉唯が来たのを見て彼女は「花菱君、遅い」と文句を言う。
藍色交じりのショートヘアーが整った顔立ちによく映え、男女ともに格好いいと思える佐藤結と名乗った彼女は、切れ長な眼を向けて琉唯を逃がすまいと仁王立ちした。
「単刀直入に言うわ。緑川君、ミステリー研究会に入りなさい!」
「はぁ?」
どういうことだと琉唯は首を傾げる。今は大型連休も明けたばかりの五月上旬で、サークル勧誘が激しい四月は過ぎている。
サークル勧誘は常に行われているとはいえ、唐突だなと話を聞けば、ミステリー研究会は人数が少なく、部員を常時募集しているのだという。人数が増えれば盛り上がり、部としての評判にも繋がるのだと言うが、どうも様子がおかしい。
「アナタが入れば鳴神君もついてくるし、彼と話してみたいと前から思っていたのよ!」
琉唯はその一言で「あぁ、隼目当てか」と納得した。琉唯を気に入っているというのは噂として広まっているので仲介役を頼む女子は多い。
もちろん、琉唯は断っている。面倒くさいというのもあるが、彼女たちの為でもあった。何せ、隼は琉唯を利用しようとする相手に厳しい。
琉唯を使って近づこうとした女子たちは皆、容赦なく冷たく隼に振られているのだ。それはもう見るに堪えないので彼女たちの心の為にも琉唯は断っていた。
「隼が目当てなんだろ。経験則から言うけど無理だよ。おれには手伝えない」
「なんでよ!」
なんでよと言われてもと、琉唯は「あいつは他人に興味がないから諦めたほうがいい」と返すが、「あんたが仲を取り持ってくれればいいじゃない」と引いてはくれない。
「おれには無理なんだって。おれに頼んだ女子たちは悉く散っていったぞ」
「あんたが仲介してくれればいいでしょ! とにかく、サークル見学に来なさい。場所は東棟二階の奥の部屋」
「嫌なんだけど」
「来なかったらあることないこと広めてやるからね」
なんだそれはと琉唯は眉を寄せて「自己中心的すぎる」と口に出していた。それに対して結はそれがどうしたといったふうだ。どんな手を使ってでも隼の恋人になりたいのだと主張する。
「いいから来なさい。拒否権はないわ!」
じゃあ、そういうことだからと結はそれだけ言ってさっさと行ってしまった。なんと、理不尽か。あまりにも自己中心的すぎて酷いと琉唯はむすっとする。
隼があんな女のことを選ぶとは思えないので無視をしてもいいのだが、サークル見学に行かなければよからぬ噂を広められてしまう。
「先輩」
「本当に、すまん」
ぱんっと手を合わせて浩也は謝罪した。どうやら彼女は三年生で同じ学科の同級生らしく、自分が隼に気に入られている琉唯と親しいのを知って頼み込んできたのだという。
無理だと断っていたのだが、あまりにもしつこく粘着してくるものだから渋々、琉唯に会わせたのだと。まさかあそこまで自己中心的な人間だとは思っていなかったらしく、「本当に申し訳ない」と頭を下げていた。
「それはいいんですけど、勧誘を断りに行く時に隼も着いてくるやつですよ」
「鳴神の冷めた言動に佐藤がキレる未来が見える……」
「先輩、着いてきてくれますよね?」
「……すまん、用事があるんだ」
「おいこら」
「千鶴に事情を話しておくから!」
千鶴ならついていってくれるはずだと浩也はすまんとまた謝る。女子には女子が良いとも言うと、もっともらしい言葉をつけて。確かに女子のことは女子のほうが理解しているだろう。
これは千鶴に頼るしかないかと琉唯は「分かりましたよ」と諦めるしかなかった。隼になんて説明しようかと考えながら。