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8月9日10時 東京都千代田区霞が関一丁目
中央合同庁舎第六号館 公安調査庁
明日からの盆休みに浮かれた職員達を他所に、大和田はある情報に悩まされていた。大和田の持つ霞が関人脈の中でも信頼できる警視庁公安部から共有された中国大使館が出所とするリストである。外事と反りの合わない公安が、外事に絡む情報を横流ししてくるのは珍しいことではなかった。出所は右翼団体を捜査対象とする公安第三課の課長、情報は李が右翼団体幹部に渡したあの資料である。
その資料自体はインフォメーションに過ぎない。情報機関の役目は、それらを総合して評価・分析し、インテリジェンスとして総理大臣の政策判断のために提供することにある。
そもそも、このリストの内容は真実なのか、ディスインフォメーションなのか。
何のために右翼団体に渡したのか。
それが重要だった。
大和田は卓上電話の受話器を手に取り、内線で第二部長を呼び出した。
アポを取り付けて、大和田は直属の上司である第四部門の大宮卓公安調査管理官と共に、第二部長の檜昌美の部屋へ足早に向かった。ドアをノックし、部屋に入った。
「おはようございます。早速ですが、こちらをご覧ください」
大和田は檜部長へと資料のコピーを手渡すと、聞かれる前に説明を始めた。
「調査官時代かかの古い友人の提供です。先日、四季菜店で李が右翼団体幹部に渡した資料のコピーになります」
檜が資料を食い入るように見る。
「間違いないのか?」
檜部長は資料から顔を上げ、ずり下がったメガネの位置を中指で直した。
「はい。資料の出所は中国大使館で間違いありませんが、問題なのはその中身の信憑性と意図です」
「お前はどう見る?」
「中身が本物なら、中国大使館員がダブル。中身が偽物なら、中国の影響工作。そう考えます」
「この出所は公安だろ。公安の情報提供の意図は、外事に対するくだらない僻みじゃないのか? 情報に主観が入り過ぎている。違うか?」
本庁総務部が独自に協力者等の査定を行っている。その人定と査定は正確だった。
「当該協力者の情報は、これまでも正確でした」
反論が弱いことは分かっていたが、檜部長に言い返さずにはいられなかった。
「管理官はどう思う?」
大和田を無視して、資料を持った右手で大宮管理官を乱暴に指した。
「資料を右翼団体に渡した李は、中央軍事委員会情報局の陳のメッセンジャーです。陳がダブルなら、もっと情報を高く売り込むはずです。我々や内調、公安を差し置いて、右翼団体に渡すとは考えにくいかと思います。右翼団体によるデモ、右翼団体からの情報流出による内閣に対する不信感醸成が狙いだと思います。総裁選と衆院選を控えた日本に対する影響工作と考えます」
大宮管理官の言うことは最もだった。中国共産党の協力者が日本にいることが判明した時、その矛先が向かうのは中国共産党ではなく協力者のいる日本政府であることは想像に難くない。そうなれば、政権へのダメージは計り知れない。
「このリストにあるのは、与党幹事長、外務大臣に経産副大臣、外務事務次官、内閣府参事官、文科省研究開発局長、防衛省内局の審議官、防衛装備庁の技監に高高度極超音速飛翔体システム研究室の主任研究官と大物だらけだ。それを真偽不明のまま、合同情報会議にはあげられない。仮に本物なら、それこそ総理や官房長官に直接報告する案件だ」
大宮部長が資料を机の上に手放した。
「しかし、タイミングがタイミングです。総裁選や衆院選に中国が影響力工作をする目的、その先にあるのは台湾有事ではないですか? 複数の協力者から、軍の不穏な動きに関する情報が入っています。これらの動きは繋がっていると考えます」
檜部長に食い下がった。
「そこまでいうのなら、台湾有事を裏付ける情報をあげろ。お前はいつも結論ありきで先走り過ぎる。盆明けまで待つ。それからだ」
お盆に文字通り休むつもりなど毛頭なかったが、それを実質的に命じられて腹が立った。
12時45分 東京都千代田区永田町 国会議事堂
衆議院議員の滝沢は、国会正面での集合写真を撮り終えた地元支援者の乗る観光バスを見送る。真っ青に晴れ渡った空からの強い日差しを避けるように、国会正門前の通り沿いに植えられた銀杏並木の影に隠れながら、両手を振った。通常、国会参観者のバス乗車は国会図書館隣の駐車場となっているが、足腰の悪い高齢者が多いことを理由に近くの警察官に目を瞑ってもらった。階段の登り降りの多い院内を見学するだけでも、一苦労である。
うんざりする程に騒がしい油蝉の鳴き声が、蒸し暑さを助長させている気がした。
参議院側を過ぎて左折してバスが見えなくなったところで、滝沢は政策担当秘書とともに国会正門を潜った。衆議院側の噴水の脇を通り、渡り廊下を横切る。渡り廊下の階段に立つ衛視と挨拶を交わす。新潟県産の錦鯉のいる中庭、さらに参観ロビーの入る建物横の駐車スペースを抜けて、牛丼チェーン店や生花店、写真店が入る国会本館西側付属家内横の西通用門下から地下に降りる。高低差があり、国道246号側から見れば、国会議事堂の地上部は一段低くなっている。
西通用門脇にある国会内郵便局が視界に入り、ふと思い出したことを政策秘書に確認する。
「新盆の葉書は大丈夫?」
「昨日投函したので、三連休空けには届きます」
国会内郵便局では、国会議事堂をあしらった風景印という消印が押される。
「明日からもう回り始めちゃうけど。13日なら、まぁちょうどいい頃だね。新幹線の券取れてる?」
今夜の最終便で地元に帰って、明日からは新盆を迎えた支援者宅を地元秘書達と手分けして一軒一軒回らなくてはならない。滝沢はその中でも党員を優先的に回る計画でいた。自身の推す小山政調会長への投票をお願いするためである。小山政調会長の元で国防部会長を務め、議連や勉強会を共にし、小山政調会長の政策立案能力の高さは身をもって感じていた。総理大臣に相応しい。既に議員や秘書達の間では、総裁選の噂話で持ちきりになっている。昨夜、小山政調会長が滝沢ら近しい議員達に出馬の意向を伝えたことも、近いうちに噂が広がるだろう。
「FAXしてあります。このままチケット受け取りながら戻ります」
赤絨毯の敷かれた階段をリズムよく降りながら、政策担当秘書が腕に抱えたジャケットの内ポケットから申込書の控えを見せて答えた。
国会議員には、特殊乗車券と呼ばれるJRの「無料パス」が支給される。無料パスとは言っても、その料金は国からJRに支払われており、年間約十五億円の予算が計上されている。特急券についてはFAXで申し込み、衆議院第一議員会館地下四階の旅行会社から直接、特急券を受け取らなければならない。国会にはアナログな仕組みがまだまだ多かった。特殊乗車券についても、改札口で駅員に見せるだけで、IC乗車カードのようにはなっていないので利用記録等は残らない。
「代議士はこのまま党本部に行かれますか?」
「あっ、部会か」
「13時からです」
腕時計を見ると十分前を指していた。
国会見学と新盆参りに気を取られて、すっかり忘れていた。
議員会館の地下連絡通路に出たところで、立哨している衛視の敬礼に答えて政策担当秘書と別れた。
通路を行き交う人の数はいつもより少ない。国会が閉会中な上、お盆を前に多くの国会議員は既に地元に帰っている。
滝沢は動く歩道を早歩きで進み、北へ向かう。地下連絡通路は東京メトロ国会議事堂前駅から永田町駅までの南北約三百メートルに渡っており、西側に三棟並ぶ議員会館、東側の国会議事堂を繋いでいる。
国会中央食堂で流し込んだカレーが胃から込み上げてくるのを抑えながら、先を急ぐ。政界にいると早食いという不健康なスキルが身につく。
衆議院側と参議院側を隔てる扉を通る。閉館時以外は開けっぱなしになっているが、衛視が行き来する人の通行証に目を光らせている。偽造の議員バッジによる不法侵入の一件以来、確認が厳しくなった。同じ国会とは言っても、管轄が衆議院と参議院で別れており、三十四種類ある通行証によっては片方への立入しか認められていない。衛視の所属も、衆議院事務局警務部と参議院事務局警務部に分けられている。再び開け放たれた扉を衛視の敬礼を受けながら通り、参議院の敷地外に出た。地下通路の装いに変化はないが、すぐ外ではジュラルミン製の盾を大理石調の壁に立てかけて、警察官が立哨している。立法府である国会内は議院自立権により、行政官である警察官ではなく院内警察である衛視が管轄しているのである。衛視のみで対応できない場合に要求される派出警察官も、衆議院議長や参議院議長の指揮下に入ることとなっている。
地下通路をそのまま進み、永田町駅構内を通り抜けて二番出口の階段を登る。議員会館から保守自由党党本部に向かう近道である。地上に出ると、蒸された熱風と焼けるような日差しが襲いかかって来る。一度引いていた汗が、また吹き出す。
党本部正門とバス停前で警備する機動隊員は汗で顔が輝き、シャツが濡れていた。街路樹の銀杏や塀と垣根が作る日陰で、警杖に体重を預けて体力の消耗を抑えている。機動隊員らが交代で休む日産シビリアンの中型輸送車Ⅱ型の屋根に増設されたルーフエアコンが、路肩で音を立ててフル稼働していた。
滝沢は蝉の声に包まれながら、参議院第二別館の前を通り、早足で党本部へと入った。
東京都千代田区永田町 保守自由党本部
党本部七階の会議室前に置かれためくり台には、手書きで『安全保障調査会・国防部会・外交部会・経済産業部会合同会議』と掲示されている。会議室に入った議員や代理の秘書が受付に名刺を置いていく。秘書らは受付のテーブルに置かれたQRコードをスマートフォンで読み取って、オンライン上で資料を受け取った。議員らは正面に対して横向きで三列に並ぶ席に座り、タブレット端末で資料を確認している。出席者は議員本人が三十名程で、後方に並ぶパイプ椅子と壁際に代理の秘書が詰めていた。滝沢の座る正面の席から見て右、廊下側には関係省庁の職員が、テーブルの上にパソコンや資料を広げて座っている。外務省からは総合外交政策局審議官、アジア大洋州局参事官、中国・モンゴル第一課長、中国・モンゴル第一課企画官(台湾担当)、法務省からは出入国在留管理庁出入国管理課長、経済産業省からは経済安全保障調査課長、資源エネルギー庁石油・天然ガス課長、防衛省からは大臣官房審議官、防衛政策局調査課戦略情報分析室長、統合幕僚監部統括官、統合幕僚監部首席参事官付企画官らが出席しているほか、補佐役の職員が随行している。
滝沢は冷房で汗が冷やされるのを感じながら、正面の席で卓上マイクを持って立ち上がった。
「国防部会長の滝沢です。私の方で進行を務めさせていただきます。閉会中、そしてお盆前の忙しい時期にお集まりいただきありがとうございます。そして、防衛省始めとする関係省庁の皆様も、お集まり頂きありがとうございます。本日の主要な議題は、台湾周辺における中国軍の演習について、そして昨日の台湾軍機の下地島への緊急着陸についてであります。特に軍事演習につきましては、我が国のシーレーンへの影響が大きいという点から、外交、経産部会も含めた合同部会としました。まず初めに、安全保障調査会長の長池先生からご挨拶をお願いします」
隣に座る長池安全保障調査会長に会釈して、座った。前防衛大臣であり、防衛庁時代を含めて三度も大臣を任命されている国防族の重鎮だった。同じ国防族でも、小山政調会長が鷹派で、長池が鳩派とされていた。
安全保障調査会長に続けて、外交部会長、経済産業部会長、経済産業副大臣、防衛副大臣、外務大臣政務官の順で挨拶が終わると、報道陣が退出し、防衛省大臣官房審議官より説明が始まった。
「まず中国軍の演習についてです。お配りしております資料の順通りに進めさせていただきます。中国軍は昨日8日より、台湾を取り囲むようにして、演習を開始しました。設定されている演習区域は資料の図の通り、金門島周辺を含む台湾海峡、馬祖列島周辺を含む台湾北西から北部にかけて、我が国のEEZを含む台湾北東部、台湾東部、バシー海峡を含む台湾南東、台湾南西と六ヶ所になります。台湾国防部は昨日夜までの段階で、中国軍機延べ百四十機の行動を確認したと発表しています。このうち百機余りが中台境界線となる中間線を越え、一部が台湾領空を侵犯したとしています。また、台湾本島と与那国島間、宮古海峡を中国軍の爆撃機や艦艇等が相次いで通過しています。これまであまり見られなかった、日本と台湾を揺さぶるかのように日台の中間を積極的に通過する動きがみられます。また、空母遼寧及び山東を含む艦隊が宮古海峡を通過し、太平洋に向かっている状況でございます。自衛隊の対応につきましては、統括官よりご説明致します」
「今般の軍事演習について、自衛隊では情報収集並びに警戒監視を強化しているところであります。具体的に申し上げますと、航空自衛隊は対領空侵犯措置の態勢を強化するため、早期警戒管制機を展開させるとともにあらかじめ上空に戦闘機を進出させて待機する戦闘空中哨戒――CAPを、海上自衛隊は護衛艦及び固定翼哨戒機を周辺海域に派遣し、警戒・監視態勢を強化しています。また、陸上自衛隊につきましても、与那国島の沿岸監視部隊や電子戦部隊が情報収集の態勢を強化しております」
テーブルには同行している制服組の姿もあるが、発言は背広組が行うことになっていた。滝沢は、制服組も部会や議連で発言できるよう働きかけてはいるが、未だ実現には至っていない。国会においても、一九五九年を最後に自衛官が答弁に立っていなかった。
一通り説明が終わると、出席議員による質疑に移った。当選回数順等ではなく、出席議員が次々と手を挙げて自由に発言する。関係省庁への質問のみならず、要望や意見も次々と上がり、予定時間を三十分オーバーして合同会議は閉じられた。
滝沢は会議室を出たところで、頭撮りを終えて廊下で待機していた記者達の囲み取材に応じる。古い作りの建物のため防音性が低い上、マイクを通して発言するので、記者達は大まかな内容は把握している。聞き耳など立てなくても、廊下にいればそれなりに聞こえてしまうのである。それでも最初と最後で頭撮りと囲み取材を行うのが、慣例となっていた。
「中国軍の演習についてですが、どのような発言がありましたか?」
三百六十度囲む十名程の記者達からスマートフォンが向けられる。ここぞという場面には専門のカメラマンが同行しているが、それ以外は記者が撮影も行っていた。一昔前はハンディカメラを持っていたが、今はビデオ撮影も録音もスマートフォンが用いられている。
「多くの議員から発言がありましたが、集約しますと、政府は『遺憾』ではなく『非難』を表明してより強い姿勢を示すべき、また言葉だけではなく『航行の自由作戦』を実施するなど実際に行動で我が国の意思を示すべきといった具合でした」
外国への批判に使われるフレーズとしては『遺憾』がよく知られているが、弱いニュアンスから順に『懸念』『強く懸念』『憂慮』『深く憂慮』『遺憾』『極めて遺憾』『非難』『断固非難』と八段階の外交表現があり、使い分けられている。
「その中で原油価格、特に国民生活に影響の大きいガソリン価格については何かありましたでしょうか?」
「エネルギー価格についての詳細は、経産部会長に確認していただけたらと思いますが、当面高騰や高止まりが予想される以上、政府が支援策や補助制度を打ち出すべきとの意見が複数ありました。エネ庁も国民生活への影響が大きいことを認識しているようですので、党の方で政府を後押しできたら良いと思っております」
「緊急着陸した台湾軍機については、どのような話し合いがなされましたか?」
「これについては、人道上の観点から、またこれまでの日台の友好関係を踏まえて、しっかり整備・修理して、台湾に送り出すべきというのが出席議員の総意でございました。今後、情勢が緊迫したりすればなおのこと、似たような事例は起こり得るということで、台湾の防衛当局とのホットラインを開設すべきとの意見も出ました。日本と台湾は隣り合っていますし、緊急時や救難活動等の人道上の観点からも必要なものですので、議員外交で台湾との交流を持つ党が主導して、政府を後押しするような形で検討を進めて参りたいと考えています。以前実施した日台与党間の2+2も、定例化できれば良いなと個人的には思っております」
実際には、防空レーダーの情報を共有すべきとの意見も上がっていた。現状のまま台湾有事になれば、空自が台湾軍機にスクランブルしたり、台湾空軍が自衛隊機にスクランブルしたりといった「友軍相撃」のリスクがあった。日台の限られた軍事リソースを効率的に中国に向けるべきというのは、理に適った主張である。さらには、二〇一二年に標高約二千六百メートルの楽山レーダーサイトで運用が開始された米国のレイセオン製AN/FPS-115早期警戒レーダーは、中国内陸まで覗き見ることができる性能であり、日本のレーダーからは死角になっているバシー海峡方面等もカバーしている。
そろそろかと締めようとしたところで、女性記者から質問が上がった。
「総裁選についてお尋ねします。滝沢部会長は、どなたかの推薦人になられたり、現時点で支持する候補はいらっしゃるのでしょうか?」
これまでメモを取っていた記者らも、慌ててスマートフォンを取り出して動画を回し始めた。
「いまは部会長として質問に応じてますから、特定の総裁候補について言及することはこの場では控えさせていただきます。総裁選全般について一言申し上げるなら、こうしたら安全保障問題も含めた自由闊達な政策論争がなされることを期待したいと思います」
滝沢は新幹線で地元に帰る前に、小山政調会長の元に数名の国会議員で集まる予定であった。
14時 東京都港区虎ノ門 ホテルオークラ
小牧は点検を済ませて、米国大使館の隣にそびえるホテルオークラへと入った。公用車のトヨタ・クラウンは、監視の目を欺くために都内をドライブしている。警察官僚としてのキャリアの大半を捧げた警備警察でも北海道警察外事課長を務めて以降、警察庁警備企画課のウラの理事官以外はオモテの存在だった。そうして顔と身分が露見してからは、点検と消毒の機会が増した。常に視線や秘匿尾行を気にし、嫌がらせの強制尾行を撒き、点検と消毒を繰り返すのがもはや習慣だった。
先方から中華レストランを指定されて、小牧はおおよその検討をつけていた。御用達のホテルオークラには中国料理の他に、鉄板焼、フランス料理、日本料理等、多彩なレストランが揃っているが、その指定も意味を持つ。
いま行われている中国の軍事演習絡みだろう。
それ以上の考えを巡らせる間もなく、六階に止まったエレベーターを小牧は降りた。エレベーターホールから廊下、さらにはロビーまで、天井には木の梁が規則正しく並び、その間に無数に取り付けられた和風の照明が淡い光を放っている。その温かみのある色で照らされた木目調の壁の小さな表示の通りに廊下を進みながら、吹き抜けになっている五階のロビーにさりげなく視線を落とす。オークラ・ランターンの照らす平安風のロビーには、客を見送るホテルマン、立ち話をしているスーツ姿の男性三名、四人家族、ベンチでスマートフォンを見ている中年の女性。不審な人物は、今のところ見当たらなかった。
廊下を二周して最終点検を終えた小牧は、レストランへと進んだ。和を意識したモダンな造りの中に突如として現れる玄関口は、異国情緒をより強調していた。龍や花を幾何学模様で刻んだ透かし彫りと、朱色の大きな扉は、中華宮廷を思わせる荘厳さがある。シャンデリアのクリスタルの粒が眩しく輝き、その光を柱や床が反射していた。正面の額には、店名が滑らかな筆致で書かれた書が飾られている。ランチタイムも終わりに迫ったこの時間に、店内から聞こえる客の声はまばらで、この会合のために貸し切っているかと錯覚させた。この静寂は、嵐の前の静けさにも思えた。
店内に足を踏み入れると、小牧の顔を見た従業員が特に確認することもなく、慣れた様子で個室へと案内した。清朝の調度品で飾られた部屋には、カウンターパートであるCIA東京支局のランス・ヤンの姿があった。心臓が一瞬力強く脈打ち、長年の経験からの直感が、重大な話が待っていることを伝えた。
小牧は促されることもなく席につき、ターンテーブルを回して急須を手に取った。
「注いでもらった方が美味しい」
ヤンは流暢な日本語で言った。
別に構わないと流し込んだ中国茶が、冷房で冷やされた体にじんわり染みた。
「部屋の除菌は済んでる。今日は単刀直入に」
ヤンが中国茶で喉を潤して、話を切り出した。
「中国共産党孫指導部は、二ヶ月後に台湾へ軍事侵攻することを決断した」
小牧は、台湾有事に関する図上演習や論文が導いた双方の悲惨な結果を思い出していた。日本も無傷では済まない。
民主主義国家からは想像し難い熾烈な権力闘争を勝ち抜き、着実に権力基盤を築いてきた孫主席が、非合理的な判断をするとは信じがたかった。しかし、強い権威主義体制では正しい情報が指導部に伝わりにくくなるのも事実だった。孫主席に耳障りのいい情報しか上がっていないことは否定できない。
「その根拠は?」
小牧が表情を変えることなく瞬時に切り返すと、ヤンは微かに笑みを浮かべた。
「軍事的な特異兆候があることは、既にMilitaryto Militaryで共有されている。NSSにもNSAから同様のインテリジェンスを共有する。我々のアセットが、より確定的な情報を掴んだ。日本の優秀な情報機関がより奥深くに獲得している協力者が、既に掴んでいるはずだが・・・・・・」
ヤンが日本の情報機関の問題を皮肉っているように聞こえた。
「裏付けを行いたいと?」
法規制がないことから「スパイ天国」と揶揄される日本だが、最大の問題はそこではない。中国や朝鮮半島の情報については西側諸国から重宝されており、裏どりの依頼も多い。尾行技術もFBIが見習うほどだ。問題は情報機関の縦割りで、内閣情報官の小牧が知らないインテリジェンスがあることだった。それを見透かしているかのように、ヤンは答える。
「その必要はない。この後、大統領から直接お宅のボスにも連絡が入る。今必要なのは、孫主席にその決断を改めさせることだ。ついては長官が、極秘裏に来日したいのでその調整をしたい」
16時 東京都大田区羽田空港 東京国際空港
航空自衛隊特別航空輸送隊の運用する政府専用機B777-300ERは、芝浦を乗せて長崎空港を離陸し、羽田空港へのアプローチに入ろうとしていた。これまで政府専用機が国内での移動に用いられたことは両手で数えられるほどしかなかったが、急な電話会談の都合からアサインされた。
「Tokyo tower, Japanese Air Force01. Spot VN」
『Japanese Air Force01, Tokyo tower. Runway16L, continue approach. Wind 190 at 10. Traffic A320, 4miles on final』
「Runway 16L, continue approach. Japanese Air Force01」
コックピット後方にある貴賓室の執務机で、衛星電話を片手に芝浦はオフホワイトのレザー製VIP SEATに身を委ねていた。シェードを半開きにした窓から西日に照らされるお台場と東京湾を眺めつつ、受話器の向こうの通信員が繋ぐのを待つ。
「はい。浜松です」
程なくして、昼過ぎに長崎市内のホテルで別れた浜松外務大臣と繋がった。
長崎空港を離陸した直後、ベネット大統領と芝浦は電話会談を行なった。内容は台湾有事のリスクが高まっているとの警告の一点のみだった。ただ、そこには昨日緊急着陸した台湾軍機について、台湾側の整備チームを受け入れるよう強い要請が含まれていた。そのことを端的に伝えた。
「米軍の手に負えないようなので、ここはやむを得ず台湾側を受け入れたいと思います。先程、桜木大臣にもお願いしましたが、外務省の方でも必要な対応を頼みます」
昨日夕方から下地島空港には、第5空軍第35戦闘航空団の整備員と機材と、それらを乗せた第374空輸航空団のC-130Jが展開していた。台湾空軍のF-16Vと米空軍のC-130Jが並ぶ画が仕切りにテレビに映され、朝刊の一面も飾った。論調は『米中、中台の対立の狭間で翻弄される沖縄』と、どこか他人事だった。
『飛べないのなら、仕方ないですね。承知しました』
溜め息混じりに浜松外務大臣が答えた。
『先程、私のところに米国大使から会談の要請がありました。大使もまだ長崎にいるようで。おそらく、同じ件でしょう』
「わかりました。ロジを詰めておいてください」
『はい。ですが、米国の動きが性急ではありませんか。わざわざ大統領から総理に連絡するような話でもないでしょう』
芝浦は浜松外務大臣に同意しつつ、羽田に着陸すると断って受話器を卓上の衛星電話機に置いた。
自然と溜息が漏れた。
ベネット大統領の警告は『早ければ二ヶ月後に中国が台湾に侵攻する可能性が高い』という信じがたい情報だった。そして、台湾有事を抑止するため、台湾軍を下地島に受け入れて日米台の連携を示したいということだった。浜松外務大臣に伝えられるほど、台湾有事の生起という事態を、まだ飲み込めていなかった。
政府専用機は滑走路16Lに着陸すると、第一旅客ターミナルの北端にある駐機場VNまで地上滑走し、機種を真西に向けて停止した。常装姿の機上整備員に敬礼で見送られながら、パッセンジャーステップを降りる。照りつける日差しで右頬が暑い。
規制線沿いに並ぶメディアにカメラを向けられながら、パッセンジャーステップの傍につけられたセンチュリーUWG60型総理大臣専用車に乗り込んだ。扉を閉めたSPが助手席に乗り、鞄とバインダーを抱えた船越首席秘書官が右隣に座った。先行して出発した警戒車からの異常なしの報告を受けて、総理大臣専用車を三台のレクサス・LS特別警護車が囲み出発した。その後ろには、随行員を乗せたハイヤーと公用車、さらに車列に加わることを認められている時事通信と共同通信の「番車」のクラウン220系が追走し、最後尾にLS特別警護車一台が続く。車列は東京空港警察署の北側から出ると、一方通行の道路を赤上げで逆走し、箱乗りしたSPの一般車規制で首都高速湾岸線に合流した。
芝浦は、後部座席天井のフリップダウンモニターを展開して、地上波を映した。夕方のニュース番組では、中国軍の軍事演習と台湾軍機の下地島への緊急着陸を絡めた「台湾有事」特集が組まれていた。
『多くの専門家達が二〇二七年に警鐘を鳴らしていますが、実際にアメリカ軍はこう分析しています。司令官が連邦議会において、次のように証言しています。中国軍が二〇二七年までに台湾に侵攻する準備を整える』
解説員がモニターを指しながら説明し、アナウンサーが質問する。
『僅か数年後ですが、なぜ二〇二七年までに台湾有事が起こる可能性が高いと言われてるのですか?』
『はい。それは中国の孫天明国家主席が、中国共産党総書記の四期目を迎える年だからです。中国は国家主席の任期を撤廃する憲法改正を行いました。祖国統一というレガシーを成し遂げ、四期目を迎えたい、そう考えるのではないかということです』
『なるほど。もし本当に台湾有事が起こったら、私達の生活には影響が出るのでしょうか?』
『実は既に影響が出ています。先程映像でもありましたが、中国軍はいま台湾を取り囲む、封鎖するような形で軍事演習を行なっています。台湾に原油や物資等が入らないようにする、軍事的だけでなく経済的圧力の意味合いも同時にあると見られますが、この海域は台湾だけでなく日本にとっても重要なんです。日本向けの原油の九十五パーセントが、この海域を通って日本に入って来ています。今回の軍事演習を受けて、原油を運ぶタンカーは大きくて迂回しなければなりません。この影響で、原油価格の上昇が続いています。今週のレギュラーガソリン価格は全国平均で一リッターあたり百八十六円でした。この価格上昇は今後も続く見通しとなっています。さらにはSNS上で、トイレットペーパーやティッシュが不足するというデマが拡散され、全国的に品薄状態となりました。こちら、取材した都内のスーパーでは、このようにティッシュとトイレットペーパーの棚が』
『空になっていますね』
『そうなんです。店長さんに伺ったところ、買い占めがなければ売り切れ状態にはならないとのことで、急遽個数制限を設けたそうです。業界団体の日本家庭紙工業協会も十分な供給量と在庫を確保していると発表するなど、事態の沈静化に追われています』
東京都千代田区永田町 内閣総理大臣官邸
総理執務室に入るや否や、待たせていた豊平統合幕僚長と松茂防衛政策局長を招き入れた。続いて来た船越首席秘書官に松茂防衛政策局長が耳打ちしている。同席を断ったのか、船越首席秘書官は秘書官室に戻り扉を閉めた。
機密に触れる話だと確信した。
芝浦は応接席に向かう二人を見て、自身もソファに座り、「どうぞ」と声を掛ける慣例儀式をこなした。一言断って二人がソファに腰掛ける。
「お待たせして申し訳ない。会見が長引いてしまって」
僅かに遅れて来た豊島官房長官も、遅刻を詫びながらソファに座った。
それを合図に松茂防衛政策局長が膝の上に乗せたアタッシュケースのダイヤルキーを回し、中から資料を取り出した。各人の前に資料が配られた。
芝浦はメガネをかけて、テーブルに置かれたホチキス留めの資料を手に取ると、表紙には『陸上自衛隊の機動師団及び機動旅団等の南西諸島への機動展開案』とあった。右上には『特定秘密』と『取扱厳重注意』と赤字で印字されているが、無機質な表紙だった。
「陸? 中国軍の演習の件じゃないのか?」
嫌な予感がした。
松茂防衛政策局長が真っ直ぐな眼差しで、こちらを向いた。豊平統幕長もソファにかけたまま、斜めに座り直してこちらに正対する。
二人の神妙な面持ちを察した豊島官房長官が、資料から顔を上げてソファに浅く座り直した。僅かに前屈みの姿勢で、テーブルを挟んだ二人に向かう。
「結論から申し上げます。早ければ二ヶ月後に人民解放軍が台湾へ全面侵攻する可能性があります」
豊島官房長官が何かを言いかけたが、驚きのあまり声にならない一種の唸り声を上げた。
驚きの薄かった芝浦の様子を見てか、松茂防衛政策局長が数度瞬きした。
「実は先程、長崎からの帰りの機内でベネット大統領から同じ話がありました」
「そうでしたか」
腑に落ちたような表情を浮かべた松茂防衛政策局長が、説明を続ける。
「インド太平洋軍からもたらされた情報では、人民解放軍の台湾正面を担当する部隊に二級戦闘準備態勢が発令されました。予備役の動員が行われる態勢で、発令は二〇一三年の朝鮮半島危機で北部戦区に発令されて以来のことです。しかも今回は北部・東部・南部の三戦区に及んでいます。さらに情報本部では特異な指揮命令系、要するに実戦でのみ用いられるであろう無線の出現を確認しました。これらのインテリジェンスは、今般の台湾を封鎖する軍事演習が軍事作戦に発展することを示しているものと考えます」
芝浦は急に息苦しさを感じ、黒の弔事用ネクタイを外した。
「やはり、本当なのか・・・・・・」
ベネット大統領の警告には疑いの気持ちもあった。というより、疑いたかった。だが、自衛隊も同じ兆候を掴み、具体的な根拠を突きつけられ、その望みは潰えた。
「我々はそう考えています。自衛隊が実施した図上演習では、日米と台湾が中国に勝利するには在日米軍基地の利用と自衛隊の後方支援が必須との結論を得ています。先島諸島が地理的に台湾と極めて近いことは当然ながら、米軍にとっては台湾救援のための前進基地や中国を封じ込めるための防衛ラインとなり、逆に中国にとっては米軍の介入を拒否するための攻撃目標や前進基地となります。加えて、人民解放軍が台湾東部から攻撃するためには、先島諸島を抜けて太平洋に出なければなりません。つまり、中国は先島諸島の占領ないし無力化を台湾攻略の助攻とするでしょう。その企図を挫き、我が国の台湾有事への介入の意思を伝えるため、そして万が一抑止が破綻した場合に我が国を防衛するために、南西諸島への陸上自衛隊の事前配置が必要です」
豊平統合幕僚長に促され、資料をめくった。
地図上の南西諸島の島々に部隊符号が並び、その横に配置規模(基準)として車両数や人数が記されている。
「統合防衛警備計画では、奄美大島を第6師団、宮古島を第8師団、石垣島を第2師団、与那国島を第14旅団が担任することになっています。今回の計画では、これら各機動師団・旅団隷下の即応機動連隊の増強普通科中隊を、各島の駐屯地に配置します。あくまでも機動展開訓練の名目です。増強普通科中隊は、普通科中隊に連隊内の機動戦闘車小隊、重迫撃砲小隊、対戦車小隊、高射小隊、施設小隊、その他支援部隊を配属したものです。人員は各三百名規模で、16式機動戦闘車四両や96式装輪装甲車十両を含みます」
豊平統合幕僚長の説明に耳を傾けながら、さらに一枚めくると、編成表と写真付きで主要装備が掲載されていた。
「輸送については、海上自衛隊の輸送艦、航空自衛隊の輸送機、チャーター船を使用します。早速調整と準備を進めて、盆明けには配置を開始したいと考えております。これら計画の承認をお願いします」
二人が頭を下げた。
「承認したいと思います。台湾有事は何としても防がなければならない」
続けて、豊島官房長官も同意した。
「私ももちろん賛成です。進めるべきと思います。台湾有事が起こるというインテリジェンスがもたらされたことから、併せて国家安全保障会議や合同情報会議を開き、内閣として対応を進めなければなりません」
総裁選挙や衆議院議員総選挙どころの話ではない。
17時 熊本県熊本市 陸上自衛隊北熊本駐屯地
駐屯地内に気をつけ、続けて国旗降下のラッパの音が鳴り響く。作業中の者も、缶コーヒー片手に詰所で談笑中の者も手を止め、国旗の掲揚されている第8師団司令部庁舎正面の方向へと正対する。国旗降下が終わると再び動き出し、事務室の電話が鳴り始める。
北熊本駐屯地は、熊本県・宮崎県・鹿児島県を警備隊区とし、さらには機動師団として全国に展開する第8師団の司令部、第42即応機動連隊を始めとする師団隷下部隊、西部方面特科連隊や西部方面移動監視隊が所在する南九州の中核駐屯地である。
第42即応機動連隊第1普通科中隊の隊員達は、17時15分からの終礼のために南端にあるグラウンドに向かう。多くの者は額に汗を輝かせ、特別休暇に代休と年次休暇を組み合わせた明日からの夏休みに胸を踊らせている。
「中隊長臨場。部隊気をつけ」
「気をつけー!」
司会者に続けて、各小隊長が号令をかける。
「中隊長に対し敬礼」
「かしらー中!」
「中隊長訓示」
隠しきれていない浮かれた表情の一同を見て心苦しくなりながら、中隊長の串本克也は正面に立った。
「連隊は速やかに第三種非常勤務態勢に移行する。休暇等で外出中の営内居住者については直ちに部隊に復帰し、所属部隊長の指揮下に入り速やかに出動準備を実施するものとする」
中隊員に動揺が走り、顔を見合わせ始めた。予告なしの訓練はあるが、幹部の動きや週間予定表でおおよそ予想がつく。しかも多くの隊員が休暇を予定しているこの時期に実施するのは、異例も異例だった。
応急出動準備訓練――防衛出動を想定し、装備品や補給品を受領し、武器を搬出。初度携行品・追送品、残地物品に分類し、初度携行品を車輌に積載。私物類は段ボールに梱包して自宅や実家へ送れるようにし、官品も追送品と返納品に分ける。要するに戻ってこないことを想定して、駐屯地を空にするのである。海空自衛隊の基地と異なり、駐屯地はあくまでも出動するまで屯する場所なのだ。しかも、これらの準備は灯火管制のもとで行われる。
「各隊員は迷彩服、鉄帽、装具を着装。背のう、その他必要物品についても準備し、あわせて身辺の整理を実施するものとする。武器、化学装備品、防弾チョッキ、通信機、その他資機材を中隊倉庫より搬出し、各隊員への配当及び車両等への積載を実施。弾薬については駐屯地弾薬庫より搬出、各小隊ごと受領するものとする。これに伴い各小隊は必要人員を差出せ。明1600までに、中隊はこれら応急出動準備を完了せよ。爾後、師団一般命令に基づき機動展開訓練に移行。中隊は海上機動により、訓練地へ前進する」
十分前。
連隊長室に呼ばれた串本は、多田連隊長の表情からただ事ではないと察した。連隊本部の事務室も、災害派遣の時のように慌ただしい。
官姓名を名乗りドアを明け、執務机に座る多田連隊長の前で姿勢を正すと、無言でA4のコピー用紙が手渡された。
「これから応急出動準備訓練に、機動展開訓練ですか!?」
驚きのあまり、声が喉を突き破った。
一般に普通科連隊は、作戦行動に際して機甲科や特科、後方支援部隊等の諸職種の配属を受けて戦闘団を編成する。即応性を高めるために、その戦闘団を常設化したのが、即応機動連隊であった。装備品も路上機動性に優れた16式機動戦闘車や96式装輪装甲車が配備されており、全国各地への即応展開が可能となっていた。有事になれば、真っ先に出動する部隊ではあるが、それにしても急だった。
「そうだ」
「てっきり災派かと」
沖縄県で豚コレラが発生したとネットニュースで読んだ記憶から、九州でも発生したのかと勘繰っていたが、違かった。
多田連隊長が続ける。
「MCV小隊等を配属し、第1中隊を増強普通科中隊として、機動展開させる。現在、師団は師団一般命令を起草中。だが、終礼を逃すと、しかも明日にでもなったら面倒だろう」
部隊が作戦を開始するには、それなりの時間を要する。動員や展開、装備品や物資の準備に時間が掛かるのは当然ながら、師団命令の作成に三時間と、その下達に一時間はかかる。これらを飛ばして、まずは口頭で伝達するのは、走りながら考える組織故に珍しいことではないが、それは災害派遣といった緊急時のことだ。
「それはそうですが。そんな訓練がありますか。 ・・・・・・まさか、Qですか?」
訓練を名目にして実戦に備えるのは、自衛隊のみならず諸外国軍でも珍しくない。演習として軍事力を集結させるのである。日本でも、ベレンコ中尉亡命事件では函館駐屯地や津軽海峡に戦車や無反動砲が配置され、オウム真理教の施設への強制捜査では第1師団隷下の普通科連隊、第1空挺団、高射機関砲、対戦車ヘリ等が待機していたが、全て訓練と称して行われた。
多田連隊長は腕を組んで、椅子にどっしり体重を預けた。
「俺もさっき師団長から呼び出されたところでな、正直なところよくわからんのだ。師団長も総監から電話をもらったばかりのようで、混乱していた。それより上で決まったようだ。少なくとも、お前の言うようにただの訓練でないことは確かだ」
「上というと朝霞ですか、それとも陸幕」
「その上、統幕主導らしい。俺のところに、統幕の運用部から直接電話で指示があった」
なぜ、たった一個中隊の訓練を統幕が起案し、命令する必要があるのか。単なる訓練ではないことは、間違いなかった。
「それで機動展開の目的地はどこですか?」
「まだ言えん」
「台湾周辺での軍事演習絡みですか? 那覇ですか? 宮古ですか?」
多田連隊長の顔に変化はない。おそらく連隊長も知らされていないのだ。