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エンドステート ーシミュレーション台湾有事ー  作者: 益子侑也
第一章 インテリジェンス
4/16

3.縦割り

同日17時 

東京都港区元麻布 中華人民共和国駐日本国大使館前


 夕方になるにつれて気温は徐々に下がり始めているが、それがむしろ蒸された不快な空気を感じさせる。アスファルトは日中に蓄えた熱を放出し、強烈な西日が横から肌を刺す。猛暑で鳴りを潜めていた蝉たちが、やっと鳴き始めていた。正門にはトヨタハイエースベースのゲリラ対策車とパイプ柵が設置され、制服姿の機動隊員が立哨している。腕まくりした水色の夏服シャツに汗が染み込んでるのが、遠くからでも見て取れた。とはいっても、高い建物と敷地内の樹木のおかげで日陰だから、まだマシだろう。

 警視庁公安部外事第二課第四係特命班班長の益城治樹ましきはるきは、第二ボタンまでだらしなく開けた胸元を煽り、新鮮な空気を送り込む。

 外交官、大使館スタッフ、大使館に出入りする人間や業者をチェックし、リスト化する面割りと呼ばれる作業。大使館スタッフはもとより、料理人から出入り業者まで、秘撮した顔写真のリストと車両ナンバーはリスト化され、捜査官はそれを頭に叩き込む。その中から特定の人物を秘匿尾行し、身辺を調査する面取りは、その何倍もしんどい。対象が動くまで、何時間も何日、何週間も待たされる。警戒されないように尾行も途中で打ち切り、続きから何度も何度も積み重ねていく。調査の結果によっては、協力者として獲得することもあるが、そこからの獲得作業はさらに時間を要する。洗いざらいにした趣味嗜好や交友関係といった情報を頼りに、偶然を装って接触。交友を深め、信頼関係を気付き、場合によっては弱みに付け入り、最終的には寝返らせて、「協力者」として自らの駒にするのだ。極左・極右・過激派・テロ組織・カルト教団・外国の大使館関係者といった組織内の公安の協力者は警察庁警備企画課の組織図に一切乗らない「ウラ理事官」が仕切る係(かつてはチヨダやゼロ、サクラと呼ばれていた)によって、登録番号を振られて極秘に一元管理される。或いは調査の過程で対日有害活動の懸念が確認されれば、事件化し、その工作を潰す。

 捜査官らが「麻布」という符牒で呼ぶ中国大使館の通用口(ロシア大使館は「狸穴」、米国大使館は「赤坂」)。深緑色の鋼鉄製の門に設けられた暗証番号式ドアロック付き扉が開いた。一時間ほど前に大使館に入った男が出てきたのだ。向かい側で中国共産党に抗議活動中の気功学習者四名には目もくれない。

『視察(イチ)から視察(ゼロ)。通用門、客人を確認。人着は白のTシャツに茶色短パン、トートバッグを所持。入門時と変わらず。どうぞ』

 向かいのビルの一室で秘匿視察中の捜査官から無線が入った。同じ部屋では、警察庁外事技術調査室――陸軍省兵務局兵務課諜報班の秘匿名称を引き継ぐ通称「ヤマ」――が日本国憲法で保証された「通信の秘密」に反して中国大使館の通信を傍受している。諜報活動に関する法律がない日本において、当局は捜査官を守れない。あくまで、捜査官が自らの責任として引き受け、不法侵入・盗聴・身分偽装といった非合法な工作活動も行っている。発覚した場合、捜査官個人の独断行為として、潔く職を辞すこととなっていた。米国等が非合法(・・・)活動を法律で認めている(・・・・・・・・)のとは対照的だ。

 益城はワイシャツの胸元に仕込んだ公安特性の小型マイクのPTTスイッチを押す。

「視察零、こちらも確認した」「視察零から全視察宛。客人が麻布を出た。テレ朝通りを六本木通り方向へ北進中。視察二は追尾を開始されたし。視察一にあっては、引き続き砦の視察を継続。以上」

 ザッザッというノイズが、右耳の超小型ワイヤレスイヤホン(オモテ班等が使うアシダ音響のPチャンイヤホンではない)から聴こえた。PTTスイッチを二回押すことで「了解」を示す返事である。益城は視察二の後方で全体を指揮しながら追う。

 面割りの過程で浮上した中国人留学生――李浩然リ・ハオラン(リ・コウゼン)。公益財団法人日中親善協会を中心とした在日中国人コミュニティで積極的に活動し、留学生グループの中心的な存在となっていた。当初は理工学系の学部に通っていたことから、政府が力を入れる経済安全保障上の懸念として身辺調査を始めたが、興味深いことが判明した。複数の右翼団体の幹部と接触していたのである。

 こうして、週に二回大使館を訪れ、月に一度程度はその足で右翼団体幹部と会合する。中国大使館が中国人留学生を諜報活動に利用しているのは、西側情報機関では広く共有されている事実だった。中国に限らず、大使館には情報機関の人間がアンダーカバーで配置され、ケースオフィサーとして当該国内の協力者を使って情報収集や工作活動を行っている。彼らは俗に「リーガル(合法な)・スパイ」と呼ばれる。日本大使館も「在外公館警備対策官」というポストに、警察庁・防衛省・海上保安庁・公安調査庁から外務省に出向したインテリジェンス・コミュニティの人間を配置している。ウィーン条約に守られた大使館は公然秘のスパイ拠点であり、だからこそ各国の防諜機関は大使館に張り付いて面割りを行う。エスピオナージ(諜報)の世界だけでの常識になっているのは、情報機関の紳士協定や同業者意識とも言えるだろう。そのケースオフィサーを中心に、中国当局は在日中国人や日本人の協力者ネットワークを構築しているが、主要なものでも中国共産党系・人民解放軍系・国家安全部系の三系統のスパイ網があり、その全容解明だけでも困難を極めていた。協力者の日本人も政治家、官僚、自衛官、大企業の役員、著名人、メディア関係者、左翼と多様で、理由も確信犯からデュープス、所属組織への不満、金銭や女性関係をネタにされているものまで様々であった。反中国的な主張を繰り返す右翼団体に、わざわざ接触する中国大使館の意図解明は急務であった。

 この即報を受けた警察庁外事課は、警察庁指定の作業として、益城を班長とした警視庁公安部外事二課、麻布警察署と赤坂警察署の警備課外事係の捜査官十名からなる作業班を編成。警察庁の指定作業は国家予算で賄われ、警視庁のトップである警視総監や警察署長を飛び越えて警察庁外事課直轄で運用される。警視総監や警察署長に、署員が作業班で何をしているかも知らされることはない。日本の警察行政は、警視庁・道府県警が各都道府県公安委員会の管理下にある自治体警察のような装いをしながら、警察庁が指揮監督権を有する事実上の国家警察体制となっている。その中でも公安を含む警備警察は、予算の多くが国庫支出で、警察庁が個別事案も『調整役』の名の下で直接指揮するより強力な国家警察体制となっていた。

『視察六から視察二。三十メートル先のT字路で引き継ぐ』

『ザッザッ』

『視察三は反対側の通りより、バイクにてバックアップする』

 李に気がつかれないように、スーツ姿や私服姿で街に完璧に溶け込んだ捜査員が不規則に入れ替わり、道の反対側や、時には李の()を歩いて「尾行」する。乗用車やオートバイも尾行をバックアップし、偽変用の衣装や小道具を詰んだミニバンも捜査員を支える。こうして警視庁外事警察のウラ班が行う秘匿尾行は、FBIが賞賛するほどだ。この秘匿尾行に対して、あえてバレるように尾ける強制尾行もある。諜報活動を封じたり、スパイとしての価値を潰して追放したりするためである。頻繁に尾行されるスパイは、仕事ができないために本国に呼び戻されて、二度とスパイとして国外で活動することはできない。日本にはスパイ行為そのものを禁じる法律がない上に、外交官という地位のリーガル・スパイは日本に限らず外交特権に守られている。前者の場合は軽犯罪法や外為法違反といった罪状で間接的に逮捕し、後者の場合は執拗な強制尾行や自宅への怪文書送付によって、スパイとしての面子を潰して本国に帰還させるという手法が取られる。或いは国家の意思として、|ペルソナ・ノン・グラータ《好ましからざる人物》を通告する。身分がバレた以上、本国としてもそんな人間を留めておくわけにもいかないのだ。もちろん闇雲に摘発したりはしない。実態解明のために泳がせたり、協力者として寝返らせたり、外交交渉の材料が必要なタイミングまでマークし続けたりする。もちろん、相手が同業者なら逃げられることもあるし、政治力が働くこともある。

『視察六。マルタイはけやき坂を右折し、東進』

 指揮用車と支援車を兼ねる日産セレナに乗り込んだ益城は、無線に告げる。

「視察零、了解。六本木ヒルズでの点検に備え、視察六はマルタイが建物に入ったら位置を即報し、けやき坂をそのまま直進。視察五はヒルズ内で待機し、引き継げ。フラッシュコンタクト及びデッドドロップに備え、視察三及び四もヒルズに向かわれたし」

 途中、李は六本木ヒルズ内の店舗に入って点検と呼ばれる尾行の確認行為を行ったが、こちらに気が付いている様子はない。動きは素人のそれだった。東京メトロ日比谷線の六本木駅で一度乗った地下鉄をやり過ごすのも、降りるタイミングが早くバレバレだった。尾行していた視察三は素直に列車に揺られ、怪しまれないように視察五が反対ホームから監視しつつ、タイミングを見て視察四を李の近くに送った。点検は、おそらく陳からやり方だけ教わったのだろう。李は日比谷線虎ノ門ヒルズ駅で下車し、銀座線虎ノ門駅に向かう地下歩行者通路途中の出口から地上に出た。そこで、待機させておいた視察八に視察七の後をつけているものがいないか点検させた。

『まもなくB7出口』

『視察八、了解。待機中』

『視察八から視察零。視察七の後方に追尾者無し。しかし、付近にて公調らしき人物を確認。マルタイを監視している可能性あり。どうぞ』

 消毒の必要はなかったが、公安調査庁の人間が確認された。

「視察零、了解。視察八は周囲を捜索し、公調の動きを探れ。以上、視察零」

 公調の下手くそな尾行のせいでバレたらどうしてくれるんだ。逮捕権もないのにちょろちょろしやがって――

 公安調査庁には司法捜査権が与えられていない。国をスパイから守っているのは自分たち(外事警察)だ。その自負があったし、であるからして内閣情報官、国家安全保障局情報班長、情報本部電波部長、公安調査庁調査第一部長といった情報機関の主要ポストは警察官僚が出向ポストとして押さえている。

『17時46分。マルタイは店に入った。場所は虎ノ門一丁目あづまビル二階の中華料理店。店名は四季菜店。屋外からの視察は困難。どうぞ』

「視察零、了解。視察六、現在地を報告せよ」

『虎ノ門ヒルズ付近。間も無く現着。どうぞ』

「了解。視察六は、四季菜店に入店し、秘聴を実施せよ。以上、視察零」

 


東京都港区虎ノ門一丁目 四季菜店


 裏路地に佇む寂れた四階建の雑居ビル。幅の狭い入り口には、消防法違反を疑わせるようにダンボールが置かれていた。何気なく登れば転びそうな急な階段を登った二階に店はあった。

 カウンターに六席、その後ろにテーブル席と奥に小上がりが二つずつあり、窮屈だが二十名ほどが入れる店構えだった。経営者は在日中国人の汪杰(ワン・ジエ)(オウ・ケツ)。この店自体は汪の妻が主体的に切り盛りしており、汪の最大のビジネスは中国人向けの違法風俗店の経営だった。日本より規制の厳しい中国から訪れる観光客の密かな楽しみによって、汪は大きな利益を得ていた。中国人が経営しているというお墨付きで、中国大使館関係者や来日する中国共産党関係者も足繁く通うまでになった。そこに目をつけたのが、公安調査庁関東公安調査局の池田滋いけだしげる調査官だった。池田は汪と交友を深め、最終的には警察の摘発を防ぐということで合意し、汪は本庁工作推進室に協力者として登録された。汪は中国大使館や中国共産党の幹部がキャストに漏らす本音という貴重な情報をもたらしてくれていた。

 公安調査庁は破壊活動防止法や団体規制法に基づき、公共の秩序を守るための組織として設立された。オウム真理教の後継団体への立入検査が報じられることで有名だが、それは表の顔に過ぎない。調査第二部は中国、北朝鮮、ロシア等の周辺国を調査対象とし、国内外で獲得した協力者を運営して情報収集にあたっている。各国の情報機関と情報共有を行なっているほか、CIAに職員を派遣したり、台湾から研修生を受け入れたりもしている。とりわけ、中朝に関するインテリジェンスは欧米よりも文化的・地理的に近いということから精度が高いとして、西側情報機関から重宝されている。その特性を生かして、在日中国人はもとより、本土の中国人や中国共産党内部にも複数の協力者を獲得している。公安警察との重複が指摘され、度々廃止の危機に晒されてきた。司法捜査権こそ持たないが、だからこそ純粋な情報機関として、日本のインテリジェンス・コミュニティを支えているのである。

 池田はカウンター席の端で搾菜ザーサイ皮蛋ピータン豆腐を突きながら、グラスに注いだ瓶ビールを煽った。斜め後ろの席に、李は座った。向かいには右翼団体の幹部。五十代半ばのその男は、李に向けてにこりと笑みを作るが、スモークのかかったメガネの奥は笑っていなかった。小上がりで暑気払い中のサラリーマングループにかき消されて、二人のやり取りは聞き取れないが、当然録音機器を仕込んである。

「いらっしゃいませ」

 扉の開く音がし、汪が在日中国人らしいらイントネーションで声をかけた。

 横目で確認すると、外事警察の捜査官だった。彼らも李に目をつけている。疑いは確信に変わった。

「ご予約の、お客様、ですか?」

 首を横に振った捜査官に、汪は予約も入っていて満席だと、カタコトの日本語で断った。念のための仕込みが功を奏した。

 李はいつも会合の店を変える。やっとの思いで、息のかかったこの場所へと誘い込むことに成功しだのだ。邪魔されるわけにはいかなかった。

 これまでの調査から、李は国務院商務部から出向した大使館経済商務部参事官付である陳のメッセンジャーを担っていると推測された。そして、陳の真の身分は、法務省出入国在留管理庁のネットワークも活かした人物査定の結果、中国共産党中央軍事委員会合同参謀部情報局(旧人民解放軍総参謀部第二部)の対日工作責任者であると結論付けられた。西側各国の情報機関との情報共有でも、その裏付けは取れていた。陳と李のやり取りの中身は、中国大使館内の協力を持ってしても明らかにできなかった。徹底的に秘匿している。そのことが、むしろ事の重大さを物語っていた。

 これまで中国人留学生に大使館がさせてきたことといえば、留学生の相互監視が中心だった。日本という人権の保証された空間で反体制的な思想に染まらないか、利敵活動をしないか監視し、裏切りがあれば中国大使館へ通報する仕組みが作られていた。時には、神社への落書きや駅構内での異臭騒ぎを起こさせていた。それは憶測で報じられている若者の悪戯や嫌がらせなどではなく、どれくらいの時間で発見・通報され、どれくらいで警察が到着し、どのような対応を取るのかを確認するとともに、留学生の忠誠心を試すことで、指揮系統の点検を行っているのだ。有事になれば、国家情報法や国防動員法に基づいて、留学生に日本国内で騒乱を起こさせる。本番では落書きが放火に、異臭騒ぎが化学剤散布、といったテロになる。

 そんな中で、李が担っている役割は、留学生にしては重要過ぎるとも言えた。普段なら協力者に現場を任せるのだが、李への強い興味から池田自ら店に足を伸ばした。

 だが、成果はほとんどなかった。たわいもない会話の中で、それらしい動きは李が男に茶封筒とマイクロSDカードを渡したことのみ。それらを手に入れない限り、中国大使館が右翼団体と接触する目的を解明することはできなさそうだった。



東京都千代田区霞ヶ関一丁目

中央合同庁舎第六号館A棟


 僅かな灯りだけが灯る薄暗いオフィスで電話が鳴った。公安調査庁で中国・東南アジアを担当する調査第二部第四課の大和田義純おおわだよしずみ分析官は、卓上電話の受話器を手に取った。もしもしという声は、秘匿回線用の防音室特有のこもった音だった。こちらの返事を待たずに、電話の主は続ける。

「関東二-四の池田だ。成果はなかったが、報告書をいま送る」

「了解」

 簡潔に答えたが、池田調査官はそれを聞く前に電話を切ったようだった。

 大和田は乱れた髪を掻き上げながら、受話器を置く。

 髪のベタつきが気になった。結局、昨日は帰らず仕舞いだった。今日は帰ってシャワーを浴びよう。

 冷房が切れた蒸し暑いオフィスにも苛立った。他の省庁では残業中に冷房が使えないからと仕事を持って帰る者もいるが、情報機関には消して許されることではなかった。パソコンは公安調査庁のクローズドネットワークとのみ繋がる持ち出し厳禁のものと、外部ネットワークと繋がるだけで業務には使えないものの二台が支給されている。未使用時は暗証番号でロックされたデスクの引き出しに保管しなければならない。PCにUSBなど外部メモリを指そうものなら、その瞬間に自動でセキュリティ担当へ通報される。電話も秘匿回線のものを使い、やむを得ず業務用の秘話機能付スマートフォンを使うときは隠語を用いて通話時間は最小限に留める。仕事を持ち帰ることなど不可能だった。

 デスクの下に脱ぎ捨てた革靴を履いて立ち上がった。担当者のところまで行き、受領書と持出書にサインして、池田から送られてきた報告書のファイルを受け取った。報告書は複写防止用紙に印刷されたルッキングオンリーで、自席で読むのにも持出書に記録をつけなければならない。情報保全は厳格だ。

 報告書は三件あった。池田からの報告書には、李が右翼団体幹部の男にマイクロSDカードと金の入ったとみられる茶封筒を渡したとの記載があった。中身は未確認。

 もう一件は九州公安調査局の徳山とくやま調査官からで、協力者2-403――中国共産党統一戦線工作部や中国留日同学総会に所属し、福岡県で貿易業等を営む中国人――からもたらされた情報だった。発刊番号や緩急・秘密区分等が記された下の本文に目をやる。『2-403によれば、同氏と付き合いの長い中国国内の食品工場から、当面の取引を断られた。理由は、加工食品及び生鮮食品について、軍と急な長期契約を結ばされたためと伝えられた。同様の契約が中国国内で多数あり、同業者から不満の声が上がっているとのこと。また、同氏のもとへ中国人民政治協商会議筋から、近々重要な決定がなされる様子があり、北京が騒がしいとの噂あり。以上』

 最後の一件は、那覇公安調査事務所石垣駐在官室の早崎はやさき調査官発。普段の報告は、石垣駐屯地建設に絡む反自衛隊運動(極左・左翼団体自体は調査第一部の管轄)への中国の工作や、中国人観光客の動向、地元紙の紙面についてが大半を占める。だが、今回は緩急区分が一段高い。『石垣市入札の石垣港の拡張工事に伴う調査』を新規の「いしがき建設」が圧倒的評価で落札。建設業界で不満や疑問の声が上がっている。なお、入札参加資格審査には沖縄独立派の市議会議員の強力な後押しがあった模様。「いしがき建設」については、経営者が中国共産党幹部と接点あり。調査を続行する。以上』

 ファイルを閉じ、思考を巡らせる。

 軍の食品の長期契約。演習用にしてはタイミングが遅いし、報告書には『急な』とあった。数ヶ月前の報告で、演習用の食品の契約があったはずだ。間違いない。情報本部に先んじて、演習の兆候を公安調査庁が掴んだ快挙だったのだから。演習が予定よりも長期化するのか、それとも―― 右翼団体との接触もその絡みか。なぜ金銭を渡したのか。

 嫌な寒気がした。

 憶測でしかないが、右翼団体に金銭を渡して反中デモの抑制を依頼したということは、反中デモを抑制しなければならないような事態が起こるということか?

 大和田はデスクの引き出しのロックキーを解除し、ノートPCを取り出した。暗証番号を入力し、秘匿回線に繋がるメールサーバーを起動する。九州公安調査局の調査官宛に、軍との食品の契約についての深掘りを依頼する本文を入力し、送信した。続けて、石垣駐在官室の調査官に、宮古島や与那国島で同様の入札がないかの調査を依頼した。

 デスクに放り出されたスマートフォンを開くと、ロック画面の時刻が目に入った。21時30分。

 もうこんな時間か。さすがに退勤しているだろうか。

 スマートフォンのショートメールで、二名の調査官へ「メール送信しました」と打ち込んだ。ここに内容は書けない。ショートメールを見て、明日の朝一にメールを開いてくれるだろう。

 帰宅しようとノートPCを閉じると、スマートフォンのバイブレーションが、デスクをブッブッと二回振動させた。

 本能的にスマートフォンを手に取り、通知画面を確認した。ショートメールが二件。「メール確認」と全く同じ文言の二つの返信を見て、笑みが漏れた。



8月8日8時 

東京都新宿区市谷本村町 防衛省市ヶ谷地区


 JRと東京メトロが乗り入れる四ツ谷駅から徒歩十分。16(ヒトロク)式制服の第3種夏服と呼ばれるワイシャツには、既に汗が滲んでいた。竹松義人たけまつよしと1等陸佐は四ツ谷駅と市ケ谷駅から登庁してくる人を速足で追い越し、民間警備会社が警備する正門を潜り、ICカード身分証をかざして駅の改札に似たゲートを通過する。駅の自動改札よりも僅かに長い時間ももどかしかった。伽藍様式をモチーフに建設された五棟の庁舎を見上げるようにエスカレーターを登り、D棟前の儀仗広場に出た。情報本部の入るC棟ではなく、A棟へ向かう。坂を上がったA棟前の議場広場横を通らず、近道のD棟横の入り口からA棟へと入った。

 入り口から厳重にセキュリティのかかったC棟とは異なり、防衛大臣以下、副大臣、政務官、大臣補佐官、統合幕僚監部及び陸海空幕僚監部、内局等が入る防衛省自衛隊の中枢であるA棟の一階ロビーには防衛産業関係者や来客、記者がおり、面会用の受付も設置されている。だが、地上十九階から地下四階のうち地階については、ロビーに掲示されたフロアマップに記載されていない。竹松は二十二基あるエレベーターの中で18号機と呼ばれるカゴに乗った。地階に降りるのは18・19・20号機のみである。

 A棟地下一階から四階には、有事に自衛隊全体を指揮する中央指揮所(CCP)と呼ばれる空間が広がっている。竹松は入り口で中央警務隊の隊員に立入証を提示して、金属探知ゲートを潜った。セキュリティチェックを終え、各部署の作業室が並ぶ迷路のような道を進む。途中で情報本部の作業室に立ち寄り、ナンバーロック付のアタッシュケースを持参した。中央指揮所の中でも更なるクリアランスが必要なエリアに進む。統幕に割り当てられた区画のある部屋の扉の前で立ち止まった。カードリーダーに立入証をかざし、紐づけられた暗証番号を入力した。扉のロックが解除される音を確認し、竹松は入室した。

 会議が始まったのは、それから数分後のことだった。約二十四万人の自衛官の頂点である豊平とよひら統合幕僚長を中心に、岩沼いわぬま陸上幕僚長、和泉いずみ海上幕僚長、古河こが航空幕僚長、恵庭えにわ統合幕僚副長、統合幕僚監部総務部・運用部・防衛計画部・指揮通信システム部の長、松茂防衛政策局長、情報本部からは下総本部長以下、直属の上司にあたる海将補の馬毛まげ情報官と同僚の与沢よざわ情報官、事実上J-2として運用される統合情報部の大井佳織おおいかおり部長が長円型のテーブルに向かい合って並ぶ。

 陸海空の三種類の制服に身を包む一同は、緊張した面持ちで構えていた。このメンバーが、緊急でこの会議室に集められるのは、我が国の防衛に関する特異事象が確認された時だからだ。

 竹松はダイヤルロックを解除し、アタッシュケースから資料を取り出した。後ほど回収しますと告げて、与沢1佐と共に配布した。行き渡ったのを確認して、説明を始める。

「情報官の竹松1佐です。電波部が人民解放軍に特異な指揮命令系の出現を確認しました。今般の演習に関わる通信とは別のもので、これまで未確認だったものです」

 情報本部は全国六ヶ所に有する自前の通信所と、海上自衛隊第81航空隊のEP-3多用機や、航空自衛隊電子作戦群のYS-11EB及びRC-2電波情報収集機の協力により、周辺国の通信電子情報を収集するSIGINTを行っている。一九八三年の大韓航空機撃墜事件では、傍受していたソ連軍の無線通信から、防空軍のSu-15TM迎撃戦闘機が大韓航空の旅客機を撃墜した事実を解明した。

「そして、米軍も同様の兆候から、我々と同じく演習では終わらないと見ています」

 軍事的威圧の演習だけで終わって欲しいとの全員の希望は、残酷な事実によって打ち砕かれた。

 通信所の一部は米空軍第6920電子保安群と共同運用している。米国家安全保障局と米軍が共同運用し、全世界の電話、電子メール、SNSのダイレクトメール、軍用無線といったありとあらゆる通信を傍受するエシュロンは三沢基地にも設置されていた。そのPRISM(プリズム)/US-984XNには、Google、Yahoo!、Facebook、Apple、YouTube、Skype等が秘密裏に参加しているとされ、対象には同盟国の指導者も含まれている。これだけのサービスが無料なわけがない、というのがインテリジェンスの世界の共通認識だった。

「演習から拡大した台湾の金門島や馬祖列島への限定侵攻及び台湾周辺の海空域の封鎖でしょうか」

 恵庭統幕副長が質問とも独り言とも取れる発言をした。日米の防衛当局が「台湾有事」において、最も蓋然性が高いとするシナリオだった。

「いえ。こちらはルッキングオンリーでお願いします」

 竹松の言葉を合図に、スクリーンに衛星画像が映し出された。

「米国家偵察局及びCSICE(内閣衛生情報センター)の衛星が撮影したものです。サニタイズされたものですが、ご了承下さい」

 中国国内の軍事基地を映したものが次々と映し出される。徐州、湖州、厦門にある東部戦区陸軍の駐屯地、晋江と揭阳の東部戦区海軍陸戦隊の基地、寧波や厦門といった軍港、上海や福州といった空軍基地。分解能を落とす加工(サニタイズ)こそされているが、はっきり見て取れる。いずれも部隊が集結している様子だったが、素人が単に画像を見てもわかることは少ない。光学特性を理解した専門の分析官の解析が重要なのである。

「部隊規模や集積された物資の量は、過去行われてきた全ての演習のそれを遥かに上回っています。波長等からダミーの類では一切ないとの分析結果です」

 会議室に集まった自衛隊の最高指導部とでも言うべき面々は、スクリーンに吸い寄せられていた。説明を大井部長にバトンパスすると、スクリーンの画面が切り替わった。

「統合情報部長の大井1佐です。こちらもルッキングオンリーで、加えてMSA(日米相互防衛援助協定)秘密保護法に基づき、この場限りで口外しないようお願いします」

 細かな文字がズラリと並ぶ。部隊名の横に、その部隊の即応態勢と現在地が示されている。米国はSIGINTに限らず、各種偵察機や艦船、偵察衛星、諜報員といったアセットが情報を収集し、四十近い同盟国と高度に情報共有している。国家情報長官室を筆頭に十六の情報機関に年間八兆円を超える予算を注ぎ込み、世界規模で展開する米国のインテリジェンスは想像を絶するものだった。

「こちらは今朝JICPAC(ジックパック)より緊急で通報のあったカレント情報です。71〜73集団軍及び海軍陸戦隊第3・第4旅団を始めとする東部戦区の部隊が戦闘序列を確立。さらには北部・南部戦区も3級戦闘準備態勢に引き上げられ、動員がかかりました。北部・南部戦区隷下部隊が東部戦区の指揮命令系に加入したことも確認されています」

 米国が集めた軍事情報は国防情報局(DIA)に集約され、必要があればサニタイズされて同盟国へと共有される。日本向けはハワイのJICPACを介して、CENT(汎世界連合)RIXS(情報共有システム) -JPNで共有される仕組みとなっている。 

 室内にしばしの沈黙が流れた。突きつけられた事実は、想像よりも残酷だった。台湾正面及び我が国の南西諸島を担当する東部戦区に留まらず、両隣の北部・南部戦区の部隊が東部戦区の戦闘序列に組み込まれた。そこから導かれる結論は一つしか考えられなかった。

「米軍は中国共産党指導部が台湾に対する本格侵攻を近く決断するとの結論を導きました。T-Dayは早くて二ヶ月後です」

 下総情報本部長が沈黙を破った。

 報告から予想はされたが、誰しもが避けたい現実だった。米国のインテリジェンスの真髄を知る彼らが、その結論を完全に疑う様子はなかった。会議室の空気が重苦しくなるのを感じた。竹松自身、疑ってかかりたかったし、何度も違う結論が導かれないか、見落としはないか、思考を巡らせたが答えは変わらなかった。

「国家情報コミュニティへの通報は?」

 恵庭統幕副長が尋ねた。

「まずは総理と官房長官に直接報告すべき案件と考えます」

 下総情報本部長の答えに、豊平統幕長も同意した。

「先島諸島を防衛するとなると、防衛警備計画に定められている通りの事前配置が大前提となります。我の国土防衛の意思を見せることで、抑止効果も期待できます」

 岩沼陸幕長の発言を、「いや」と和泉海幕長が遮る。

「住民の避難無しに部隊を展開させることが及ぼす国内世論への影響や混乱も十分考慮する必要があります。同盟国・同志国と連携したFONOPによって中国にメッセージを発信して事態を抑止しつつ、海上優勢を維持することが先決です。海上優勢さえ獲得していれば、事態生起後でも部隊の海上輸送は可能です。こちらは既に演習監視部隊を準備しています」

「万が一、国民に被害が生じれば、爾後の作戦行動にも影響が出かねません。事前配置は最小限に留めるべきかと」

 古河空幕長が和泉海幕長に同意を示した。住民のいる島への航空支援などできないと言いたいようだった。

「国民保護は事態認定が前提です」

 松茂防衛政策局長が補足する。

「そうである以上、こちらが事態認定すれば、我が国がエスカレーションラダーを上げるとの懸念は拭えません」

「ブーツ・オン・ザ・グラウンド。我々陸自がいるところが国境。増援がなければ、島民を守る現地の警備隊は早期に壊滅します。最低でも、主要島嶼への即応機動連隊の前進配備はお願いします」

「別に私は事前配置に反対しているわけではない。地元住民の混乱や不安に考慮する必要があると」

 左胸のレンジャー徽章を輝かせる岩沼陸幕長が口調を強め、和泉海幕長が尻すぼみになった。陸と海空の作戦環境から生じる考え方の違いだった。海上優勢や航空優勢は流動的なものだが、地上の戦線は国境線として反映される。

「軍民の分離は大原則。沖縄戦の二の舞は避けなければなりません。事前配置部隊の円滑な作戦行動のためにも、住民避難は必須になります。防衛警備計画(ボウケイ)も住民避難は完了しているとの前提に立っています」

 千葉統幕運用部長が言った。

「とはいっても、自治体や海保の輸送力が十二万人の避難に必要なだけないことも事実です。島内には避難するシェルターもありません。国民保護の主体は自治体になってはいますが、最終的には我々に押し付けられることは目に見えています」

 古河空幕長が頭を抱えた。

「機動展開には、民間の輸送力を活用できたとしても、所要戦力の輸送だけで五十二日を要します。米軍の早くて二ヶ月後という見積もりに照らして、国民保護の時間も考えれば、かなりギリギリです。その上、台湾や中国本土からの邦人退避も同時進行となることが予想されます」

 千葉統幕運用部長の言う五十二日とは、各種図上演習や陸演――陸上自衛隊の七割の戦力を投入し、作戦準備に焦点を当てた実証演習――から導かれた日数だった。それもあくまで自衛隊と民間の輸送力をフル活用できた場合という希望的観測である。沖縄の防衛警備を担任するのは那覇に司令部を置く第15旅団だが、基幹は僅か一コ普通科連隊で、先島諸島に隷下の離島警備隊(三百名規模)を配置してはいるが、全国の機動師団と機動旅団の増援を受けて防衛にあたることが前提となっていた。

「他に意見は?」

 場を鎮めた豊平統幕長が続ける。

「我々は粛々と備えるのみ。国民保護を円滑に進めてもらうためにも、特定秘密に指定の上、まずは総理と官房長官に報告をあげる。その際に、事前配置を総理に了承頂く。但し、事前配置は訓練名目とし、規模は即応機動連隊の一部を基準とする。岩沼陸幕長、準備をお願いします。和泉海幕長、引き続きFONOPの準備と陸の海上輸送の準備を頼みます。古河空幕長、陸の航空輸送の準備と態勢の引き上げをしてください。ワーキンググループを立ち上げ、計画は千葉運用部長に一任します」

 各々が了解と返事をした。

「自衛艦隊におおすみ型を準備させますが、〈はくおう〉と〈ナッチャンWorld〉も手配します」

 海上自衛隊は、おおすみ型三隻と輸送艇2号の合計四隻しか輸送艦を保有していない。自衛艦は通常、任務・訓練・整備のローテーションをしているので、即応できるのは保有艦船のうち三分の一、つまりおおすみ型一隻か二隻になる。圧倒的に輸送力が不足しているため、防衛省は高速マリン・トランスポートとPFI契約を結んで貨客船〈はくおう〉と高速フェリー〈ナッチャンWorld〉をチャーターしている。

 それでもなお輸送力が足りない上、南西諸島の港の大半が小規模で大型艦が入港できないため、自衛隊は陸自主体の共同部隊である海上輸送群を創設し、中型・小型の輸送船舶十隻を配備する計画である。

「与那国は喫水が浅いので、那覇か中城からの民間の輸送船舶を借り上げます」

 岩沼陸幕長が言った。

「了解。問題は、政局だ――」

 豊平統幕長がぼそりと呟くのが聞こえた。

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