12.接続水域
同時刻
東シナ海 尖閣諸島西方の日中中間線付近
海上自衛隊たいげい型潜水艦<はくげい>SS-514
「発令所、ソーナー。<長城229>を失探しました・・・・・・」
忍野水測員長の苦渋に満ちた報告が、モニタースピーカーを通して発令所内に流れた。乗員たちに重い影が落ちた。
電子海図装置の前で腕を組んでいた奄美は、一番潜望鏡コンソールに立つ小柴哨戒長の後ろをすり抜けて、ソーナー区画のカーテンを払った。
顔を上げた忍野水測員長は、無言でヘッドフォンを差し出す。受け取った奄美はイヤーカップを反転させて片耳に当てた。鼓膜を振動させるのは、パラパラパラーーという海中を切り裂く漁船特有のスクリュー音と、それを塗り潰す重低音のディーゼルエンジンの音だった。それらが無数に入り乱れている。
同時にソーナー用のソフトウェアを立ち上げた潜水艦情報表示装置を凝視する。ディスプレイ上半分のウォーターフォール・ディスプレイことB-T表示は、全体がテレビのスノーノイズのような無数の輝点でオレンジ色に埋め尽くされ、その上に濃いオレンジ色のトーンラインがいくつも降り注ぐ。
「艦長、酷いノイズです。LOFARで低周波帯をハイパスフィルタでカットし、DEMONでスクリュー音の抽出を試みましたが、目標が多すぎて・・・・・・」
忍野水測員長は、小さく溜め息を吐き出した。その溜め息には、疲れと悔しさが混じっていた。
奄美らが執念深く追尾してきた中国人民解放軍海軍の元級潜水艦339<長城229>は、百隻を超える漁船が撒き散らすバックノイズへと身を隠したのだった。
無力感が奄美を苛んだ。音と共に姿を消したのならまだしも、ソーナーを通して聴こえているこの音のどこかに<長城229>が紛れていると思うと、やるせない思いだった。長期間、外界と隔絶された狭く暗い閉鎖空間というストレスが、それを一層加速させる。だが、士気を落とすわけにはいかないと、奄美は気持ちを切り替えた。
「これだけの悪条件なんです。気を落とさずいきましょう」
奄美は忍野水測員長の肩を軽く叩いて、ヘッドフォンを返した。忍野水測員長も「もちろんです」と笑顔を作ると、ヘッドフォンを被った。
対潜戦は、数日にも及ぶ忍耐の積み重ねだ。海水温、塩分濃度、海流の悪戯で音が死ぬことなど珍しくはない。勝敗を分けるのは、根気強さだ。奄美は自分自身に言い聞かせながら、カーテンを閉めた。
艦首側の電整員席へと歩を進めた奄美は、背もたれに手を置いて、目標運動解析情報を表示したMFICCのディスプレイを覗き込んだ。ロストする直前の<長城229>の位置を確認すると、振り返って船務長に尋ねる。
「尖閣までどのくらいだ?」
「魚釣島の接続水域までおよそ22マイルです。的針的速変化なしなら、二時間後に到達します」
モニターやVHF無線機の影で姿は見えないが、電子海図を操作する船務長からの報告が奄美の耳に届いた。
奄美は電子海図装置の前へと移動し、その台上のディスプレイを覗き込んだ。トラックボールを操作し、潜水艦戦術状況表示装置ZQX-12の<長城229>の針路を遡る。浙江省の大榭島基地を出港し、台湾北方沖での演習に参加。その後、針路を西に取り、尖閣諸島方面に航行する漁船団に合流。
「漁船に同航しているのなら、このまま尖閣の領海に入る危険がある。その前に水上の様子も確認しておきたいし、潜水艦隊司令部へ報告する必要がある」
発令所に詰める幹部らの脳裏には、自衛隊法第82条が浮かんでいた。国連海洋法は軍艦にも他国領海を航行する無害通航権を認めているが、潜水艦は浮上して国旗を掲揚しなければ無害通航にあたらない。2004年の「漢級原子力潜水艦領海侵犯事件」を教訓に、政府は潜役潜水艦の領海侵入に対しては海上警備行動を即時発令する対処方針を定めていた。
「しかし艦長、これだけ漁船がいると発見されてしまうのではないでしょうか?」
哨戒長である小柴水雷長が疲弊した顔を向けた。
「いや、さすがに目視での発見は難しいでしょう。むしろ、これだけ漁船が入り乱れていれば、潜望鏡の被探知のリスクは低いかと考えます」
潜望鏡のレーダー反射断面積自体は小型船舶と同程度か、少し大きいくらいだ。臼井副長の言う通り、仮にレーダーに捉えられたとしても、船団の一隻として処理されるだろう。
「アグリー」
定位置に戻った奄美は、臼井副長の進言に同意した。
発令所左側の操舵区画が、潜航長を筆頭にバタバタと動き始める。緊張感が一気に高まる。
「では艦長。深さ19につけて露頂します」
「了解。漁船との接触に注意するよう」
露頂準備の掛け声で<はくげい>は、ソーナー全周捜索とバッフルチェックを入念に実施した。真上に艦船がいれば、致命的な衝突事故となる。えひめ丸衝突事故、なだしお事件を思い起こすだけで、背筋に冷たいものが走る。
「面舵針路80度として露頂します」
奄美は小柴哨戒長に「了解」と頷いた。
「80度、ソーナー了解。ソーナー差し支えなし」
忍野水測員長も応えた。
「80度ヨーソロ」
「船団最後尾のS81、感3。ソーナーでは推定レンジ1万2千ヤード」
「まもなく露頂する!」
小柴哨戒長の声には、緊張が混じる。
各区画からの報告が、小柴哨戒長のもとへと上がってきた。艦全体が一つの生き物のように、息を合わせる。
「了解。防水扉配置よし、露頂準備よし。一番潜望鏡で深さ19につきます」
「19につけ」
奄美は小柴哨戒長にそう指示して、電子海図装置前方の赤青ツートンのクッションが置かれたパイプ椅子にかけた。俯瞰するように、発令所全体の動きに目を通す。
「アップかかります」
艦首方向へ上向きに傾き始めた艦内で、乗員らはわずかに前傾姿勢を取る。
「深さ19、前後水平、左右傾斜なし」
二本の操舵用スティックを握る操舵員が、報告した。
「急激に感上がる目標はなし」
「了解。一番潜望鏡上げ」
英タレス社製のCMO10をライセンス生産した非貫通式潜望鏡1型改1と、NZLR-2電波探知装置のマストがゆっくり昇降する。非貫通式の潜望鏡を採用したたいげい型の発令所では、その様子が見えることはない。小柴哨戒長の目の前の一番潜望鏡コンソールのディスプレイに、海中の映像が映し出された。
「直上目標なし。海面明るいです。水中視界良好」
忍野水測員長と、水中通話機で船舶の推進器音を聴知していた哨戒長付から「音源なし」の報告が上がる。
「直上目標なし。潜望鏡、まもなく露頂する」
ディスプレイが白い波の泡沫に覆われ、次の瞬間には紺碧の海面と遠ざかっていく漁船が映った。鋭い陽光が海面で乱反射し、眩しいほどの白い光が画面を満たす。
「露頂した!」
透かさず小柴哨戒長は手元のジョイスティックを操作し、潜望鏡を360度一周させる。非貫通式潜望鏡では、帽子を180度回して接眼レンズを覗き込み、「灰色淑女と踊る」必要はない。操作はジョイスティックで完結し、デジタル映像はディスプレイを通して共有や記録もできるように進化している。小柴哨戒長は、ディスプレイに目を凝らした。額には薄らと汗が浮かぶ。
「ルックアラウンド終わり。一番潜望鏡降ろせ」
一周する直前にそう言い終えて、360度見終えた瞬間に潜望鏡は波間の下へと姿を消していった。ルックアラウンドで許されている時間は、僅か十秒だけだ。水上レーダーは四回分のスキャンデータを比較して一致しないエコー、つまりシークラッター(海面の波の反射)を除去している。その四回のスキャンに要する時間が、まさに十秒なのである。それを超えて露頂していようものなら、それは物体として識別され、レーダー画面に表示されることになる。
「周辺に他の水上目標なし。S81ほか多数の漁船は、針路80度で東進中」
小柴哨戒長の報告に奄美が頷きかけた、その時だった。
ピコッピコッピコッーー
発令所に探知音がこだました。潜望鏡と同時に格納中だったNZLR-2電波探知装置が、レーダー波を探知したのだ。
「近い近い! 感度の高いレーダー波」
右舷側の最も艦首に近い位置で電波探知装置のコンソールに向かう電測員が声を上げた。声が上ずる。
奄美は思わず立ち上がった。背中にひんやりとしたものを感じる。
「第一戦速! 急げ!」
小柴哨戒長は叫んだ。
「潜舵下げ舵一杯! ネガティヴフラッド開け!」
潜航長は潜航管制員と操舵員の背もたれを掴みながら、指示を飛ばした。艦首方向に下向きの傾斜がかかる。
「ダウンかかります。5度、8度、11・・・・・・」
「艦長、このまま急速潜航します」
「了解」
奄美が小柴哨戒長に応えた直後、電波探知装置が周波数帯、PRI、PRFなどをもとに、脅威ライブラリの中から答えを導き出した。電測員がその解析結果を知らせる。
「レーダー波は、APS-137と一致しました。味方のP-3Cと思われます」
その一報で発令所内の空気は、一気に弛緩した。ピンと張っていた糸が切れたように、乗員たちの肩から力が抜けるわ、それと同時に、宿敵であるP-3Cへの言いようのない苛立ちと、苦々しい溜息も渦巻いた。
13時30分
東シナ海 尖閣諸島西方の接続水域
第十一管区海上保安本部 巡視船<あさづき> PLH-35
れいめい型巡視船の三番船<あさづき>は、魚釣島沖の領海を遊弋していた。基準排水量6500トン、全長150メートルと海上自衛隊の汎用護衛艦と同規模で、後部甲板には最大二機のヘリコプターを格納できる海保最大級の巡視船である。
穏やかなのが不気味だなーー
尖閣諸島周辺は一年の三分の一近くが強風と荒波に揉まれるが、今日は珍しいほどの凪だった。海面は鏡のように静まり、水平線まで青が途切れなく続く。桑江はセーフティサングラスを外しながら、デッキから船橋へと戻った。
船橋操舵室の真後ろに位置するオペレーション室で、桑江は尖閣専従部隊や急派された宮古島海上保安部等の巡視船の合計十六隻と、搭載する四機のヘリコプターを指揮していた。正面に備え付けられた二つのディスプレイの右側には、上空を飛行するエアバス・ヘリコプターズ式EC225LP型中型ヘリコプター<ちゅらわし>のヘリコプター撮影画像伝送システムが中継されていた。画面一杯に広がるのは、無秩序な漁船団の俯瞰した画。青、白、赤錆びた茶色の船体が海面に不規則なモザイクを描き、一隻一隻は小さく脆く見えるのに、全体としては異様な圧迫感を放っていた。<ちゅらわし>が船団の外周を旋回するのに合わせ、カメラは中央部にロックしたまま動いている。数百隻に及ぶ漁船の群れは、まるで生き物のように蠢きながら東へ進んでいた。
『こちら保安697。該船らは東へ向け約80度、速力約14ノットで航行中。現在地は魚釣島から274度、23.6マイル。接続水域に入りました』
<ちゅらわし>の航空通信士の報告がスピーカーから響く。
「領海へ入らないよう音声、旗りゅう、発光信号による警告を実施」
桑江の指示に、運用司令科の職員が応える。ある者は無線機を手に取り、ある者はパソコンを叩く。
左側のディスプレイに映された電子海図情報表示装置画面には、百を超える船舶シンボルがプロットされていた。各シンボルには船番号や船名、速度、針路といった情報が連なる。それらシンボルは接続水域を示す破線を突破していた。
船団外側の四隻の海警船には<PL81><PL82><PL88><PL14>がそれぞれマンツーマンで張り付き、船団内や周辺には<PL76><PS31><PS33><PS34><PS37><PS39>が配置されていることを、色分けされたシンボルが示していた。さらに魚釣島の接続水域を旋回している海警船四隻に<PL84><PL90><PL12><PL04>が割り当てられ、領海内を<PL09>と自船が遊弋していた。
「<たけとみ>はもっと1301に寄れ。<なぐら>ぶつけるなよ、間合いに気をつけろ」
桑江は一隻一隻に指示を出していく。桑江の同期や数期差の船長が多く、彼らの見知った性格が操船にも現れていた。
モニターしている国際VHFからは、無線警告が流れる。
『ーー请立即改变航向、离开该海域。中国船団、中国船団。こちらは日本国海上保安庁巡視船PL-82である。貴船らは日本の領海に近づいている。日本の領海内における漁業活動及び無害でない通航は認められない。日本の領海に近づかないよう要請する。中国船団、中国船团。这里是日本国海上保安庁――』




