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エンドステート ーシミュレーション台湾有事ー  作者: 益子侑也
第一章 インテリジェンス
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2.レク

8月7日 10時 

東京都千代田区永田町 内閣総理大臣官邸


 北側には衆議院第一・第二議員会館、参議院議員会館の三棟が並び、東側には国会議事堂が佇む。国道246号線永田町バイパスを挟んだ向かい側には、地下通路で繋がる内閣府庁舎。一帯には警視庁機動隊の警備車や輸送車が配置されており、周囲の道路は伸縮式車両阻止柵と呼ばれる移動バリケードを展張すればすぐさま封鎖できる態勢が取られている。塀で囲まれた約四万六千平方メートルの敷地内の木々に、家主不在の総理大臣公邸と官房長官公邸が隠れている。その中央に位置する地下一階・地上五階建ガラス張りの総理大臣官邸は、まさに政権の中枢である。官邸中央に設けられた吹き抜けの五階両端には石庭があり、二階の中庭からは真夏の強い日差しに向かってまっすぐ伸びる孟宗竹が頭を覗かせていた。総理大臣・官房長官・官房副長官等の執務室がそれを囲む五階は、中枢中の中枢である。

 小牧聡こまきさとしは総理大臣執務室隣の総理大臣秘書官室に「おはようございます」と入った。デスクでPCを操作する八名が応えた。

「すみません。通話中でして、もう暫くお待ちください」

 一番手前の席に座る総理大臣秘書官(事務担当)が、壁際に並べられた椅子を指した。すでに、岐阜ぎふ国家安全保障局長、松茂まつしげ防衛省防衛政策局長、新屋あらや外務省外交政策局長が腰を掛けていた。椅子は空いているが、その横には真っ白な制服を着た下総しもふさ情報本部長が直立不動と言わないまでも一般人よりは遥かに綺麗な姿勢で立っている。

 総理執務室と繋がるドアは開け放たれており、総理が「では」と電話を切るのが聞こえた。船越恵子ふなこしけいこ総理大臣秘書官(政務担当)は中腰でドアの方に体を向けて、「小牧情報官がお見えですが、よろしいですか?」と確認を取る。俗に首席秘書官、メディアでは「首相周辺」と呼ばれる秘書官(政務担当)は総理執務室に最も近いデスクで、財務省・外務省・経済産業省・厚生労働省・防衛省・警察庁出身の秘書官(事務担当)六名と、その下に連なる秘書官補を束ねる。

「お待たせしました」

 総理からの返事は聞こえなかったが、船越秘書官はそう告げた。長年、国会議員政策担当秘書として支えてきた船越と総理の阿吽の呼吸が感じられた。船越は女性初の首席秘書官だった。あらぬ噂を恐れて難色を示した側近もいたが、総理は譲らなかったと漏れ聞いた。長年、国会議員秘書として会館に勤め、官僚や財界にマスコミと人脈も豊富で、役所の引き出しを完璧に把握していた。その手腕が買われたのは当然あるだろうが、総理なりの義理だったのだろう。野党のある女性議員が予算委員会の場で女性活躍と少子化対策について質問した際に、「子どもを持たない総理と秘書官が官邸を仕切っているようだから少子化が加速する」「女性を秘書官に任命してお茶汲みをさせる時代錯誤」と発言した。すぐに、彼女は不妊治療に励んだものの子どもを授かることはなかったという事実や、首席秘書官の多忙さがSNSで拡散された。発言した野党議員はネット上でこそ炎上したが、テレビや新聞が大きく取り上げることはなかった。そして、総理と船越を擁護しようとしたこども家庭庁のトップーー内閣府特命担当大臣(こども政策・少子化対策)が失言して、辞任に追い込まれる結末となった。貰い事故だが、現政権でのトラブルらしいトラブルはこの程度だった。支持率は低空飛行が続いているが、その程度で済んでいるのは船越の手腕あってのもので、霞ヶ関や永田町からは「官邸の防波堤」との称号を与えられた。役所から一時的に出向している事務担当秘書官とは、気概が違う。彼らはあくまで役所との連絡調整係、何なら役所が総理の意向を探るために派遣していると言った方が近いかもしれない。

 一行はぞろぞろと総理大臣執務室へと入室していく。大学ノートと鉛筆を持った船越秘書官が、最後にストッパーを外してドアを閉めた。

 総理執務室は、手前に作業や打ち合わせ用のテーブルと椅子があり、次に応接用のテーブルとソファ、一番奥に『内閣総理大臣 芝浦善一』と隷書体で彫られたプレートの置かれた執務用デスクと日本国旗が配置されている。壁際には随行員や秘書官用に椅子だけが十脚ほど並べられている。白茶色の木材で統一された家具や備え付けの棚。絨毯、壁と全体的に明るい色使いで、重厚感はあまりない。来訪者や地元支援者から贈られた置物、写真がわずかに飾られているだけで、書類の類も収納されているのか目につかず、どこか映画のセットのような殺風景さを感じる。週二回いつも行っている定時報告通り、五名は応接ソファに腰掛けた。席次も決まっているし、長年霞ヶ関に勤めていればメンバーが変わろうと本能的に対応できる。

 芝浦善一しばうらぜんいち総理大臣は執務席から立ち上がると、後ろのクローゼットから取り出したダークネイビーのジャケットを羽織って上座に座った。船越秘書官は芝浦総理の斜め後ろに置かれた椅子で、ノートを膝の上に広げている。

「中国軍の演習は予定通り開始される見込みです」

 前置きや雑談はいらない。分単位のスケジュールの合間に許された四分間で、毎日大量の情報が押し寄せる総理の記憶にとどめてもらわなければならない。

 小牧が口を切ったのを合図に、松茂防衛政策局長が説明を始める。

「台湾周辺をぐるりと取り囲むように六ヶ所の演習区域が設定され、航行と飛行の制限を公告しています。今朝、報道官より発表と、周辺各国に通告がありました。昨夜、梅雨払いの潜水艦が出港し、台湾の東、太平洋側に出たことを確認しています。他の艦艇も明後日には出港するとの見積もりです」

 地図上に演習区域が赤い図形で示されたペーパーを松茂防衛政策局長が手渡した。『中国の潜水艦が太平洋側に進出した』という情報源は小牧にも明かされなかったが、いつものことだし、およそ検討はついている。自衛隊、とりわけ潜水艦乗り(サブマリナー)の口は貝よりも硬い。芝浦総理は受け取ると、そんなことを気にも止めず、メガネをかけて資料にピントを合わせる。最近メガネをかけるようになったが、無理もないだろう。今年で確か七十三歳だ。顔も就任後に急に老けた。SNSでは「ボケ浦」「ボケメガネ」「老化担当大臣」と誹謗中傷されていた。

「地図上の③で示した演習区域の一部が、与那国島の北西、我が国のEEZに入っています。海上自衛隊の護衛艦を情報収集及び警戒監視のために周辺へ派遣するよう調整中です」

 防衛省設置法第4条で定められた「調査・研究」が法的根拠となる。周辺海域の日常的な警戒監視はもとより、日本船舶の安全確保のための中東海域への護衛艦派遣の根拠となるなど「所掌事務の遂行に必要な調査及び研究を行うこと」の一文が大きな権限を与えている。

「演習区域への弾道ミサイルの発射も含まれているため、破壊措置準備命令に基づく与那国島へのペトリオットの展開も省内で検討中です」

 日本最西端の与那国島と台湾は僅か約百十キロしか離れていない。戦闘機であれば数分で移動できる距離だ。

 松茂防衛政策局長に続けて、新屋外交政策局長が中国側に懸念を伝える旨を簡潔に説明した。芝浦総理は終始、黙って頷いている。

 岐阜国家安全保障局長が説明を始めると、芝浦総理はペーパーから顔を上げた。

「一番南の演習区域はバシー海峡を含んでおり、シーレーンへの懸念があります。うち(NSS)の経済班と経産省で試算中ですが、エネルギー価格に影響が出るものと考えられます」

 日本は原油の約九割を中東からの輸入に頼っているが、その殆どがペルシャ湾、インド洋を抜けてマラッカ海峡、そしてバシー海峡を通って日本に運ばれている。タンカーがバシー海峡が航行できなくなれば、ロンボク海峡、マッカサル海峡を通ってフィリピンの東側を迂回しなければならない。そうなれば、距離は千七百キロ、日数は三日増すことになる。原油価格への影響は避けられない。

 芝浦総理は「補正予算でなく予備費か」と思考を口から漏らす。僅かな間を置いて「このあと幹事長と会うので」と芝浦総理が言いかけ、察した船越秘書官が「はい」と予定が正しいことを伝えた。

「幹事長に党側でもエネルギー対策を練るように伝えておきます。とりあえずは予備費で賄えるでしょう」

 船越秘書官がそっと歩み寄り、芝浦総理に耳打ちする。はっきり聞き取れなかったが「幹事長と話す前に、電話で政調会長の耳にだけ入れておいてください」と囁いたようだった。幹事長と政調会長は元々反りが悪く、政調会長はヘソを曲げやすい性格だった。派閥の論功行賞の人事だったが、政権のウィークポイントになっていた。芝浦がこの椅子に座れているのは彼女のおかげたと感心する。

 ドアの向こうで作業をしながら聞き耳を立てていた経産省出身の事務担当秘書官が、経産省に総理の意向を伝える様子が目に浮かんだ。船越秘書官の頭の中にも、複数の経産省官僚の顔が浮かんでいるのだろう。経産省としては、想定される施策を事前に用意しておき、与党や政府内でのレクに備えておけば、スムーズに事が進む。場合によっては、省益に適うよう議員を誘導することもできる。既に各省は秋の補正予算編成に向けて準備を進めているはずだが、その計画が狂う可能性もある。準備期間はあればあるだけ、ありがたいものだろう。

「ありがとうございます」

 岐阜国家安全保障局長が礼を伝えた。説明の順番が回ってきた。

「米国の情報コミュニティも非常に強い関心を示しています。航行の自由作戦(FONOP)を実施する見通しと関係筋からの情報もあり、多国間共同のオペレーションになるとの見方もあります」

「わかりました。一応、統幕とも詰めておきます」

 芝浦総理ではなく、松茂防衛政策局長が答えた。

 一応「お願いします」とだけ言って、小牧は説明を続ける。

「そして、米国政府はこの封鎖が長期に渡ると見ています。中台間で偶発的な武力衝突が生じることへの懸念を強めています」

 内閣情報調査室のトップ――内閣情報官。内閣情報調査室は総理大臣の情報関心に基づいて、合同情報会議のメンバーである警察庁警備局、法務省の公安調査庁、防衛省の情報本部、外務省の国際情報統括官組織、さらには海上保安庁警備救難部、財務省、金融庁、経済産業省といったインテリジェンス・コミュニティに情報要求し、集まった情報を集約・分析する役割を持つ。米国の中央情報局(CIA)や英国の秘密情報部(SIS)(MI6)をカウンターパートとして情報共有を行ない、ドイツやフランスと共にUKUSA協定の協力国にはなっているが、ファイブ・アイズ並みのインテリジェンスは提供されない。アングロサクソン連合が特別というのもあるが、インテリジェンスはギブアンドテイクであり、何より日本は特に情報保全に懸念が持たれていた。特定秘密保護法の成立によってシェアされるインテリジェンスは格段に増えたが、ファイブ・アイズ加盟――シックス・アイズは夢のまた夢である。

「一点気になるのが、中国で鉄の価格が急上昇している点です。コロナ明けの世界的な需要増加や不動産対策の鋼材価格上昇が原因と見ていましたが、どうも北京が買い占めているようです。加えて、国内で医薬品が不足しているとの情報です」

 中国国内で日本の在中国商社員が「スパイ容疑」で拘束されるケースがあるが、実はすべてが不当とも言い切れない。その事実は公には否定されるが、在中国日本大使館に出向している情報コミュニティの人間や公安調査庁の調査官が、日本人商社員からこうした鉄価格や医薬品の不足といった情報を入手することはある。表には出ていないが、拘束事案の中には公安調査庁の協力者であったケースも実際にあった。

 Need to know――そしてその情報源は総理にも明かさない。インテリジェンスの鉄則だ。

「情報官の見立ては?」

 芝浦総理に尋ねられる。その目は真っ直ぐこちらを見て動かない。色々言われてはいるが、やはり政界でここまで登り詰めただけのことはある。これなら、はっきり言っても構わない。

「中国は台湾への軍事行動を準備している可能性があります。全面侵攻とまではいかなくとも、限定的な武力行使は十分にあり得るかと思います」

 もっと確度の高い情報が必要なことは理解していた。情報の波に飲まれる総理には、伝え方と伝えるタイミングが極めて重要だ。

「情報は引き続き集めます」

 気迫に押されて後付けしたが、不要だったか。芝浦総理の表情に変化はなかった。自信が無いのを読み取られたか。あまり表情を出さない人だ。人気がないのは、そのせいもあるのではないだろうか。西側のある情報機関の友人からも似たような話をされたことがある。情報機関は友好国・敵対国を問わず、各国の政治家・官僚・大使・外交官等の顔面神経の動きを記録・分析している。そこから感情を読み取り、プロファイリングや外交交渉に活かす。映像があれば済むので、健康状態を探るために糞便を密かに回収するような煩雑さもない。

 船越秘書官がスマートフォンの通知を確認して、すかさず胸ポケットにしまう。

「幹事長が通られました」

 三階の受付から連絡を受けた秘書官室の誰かが、ショートメールか何かで船越秘書官に伝えたのだろう。三階のエントランスホールで記者たちの前を通過している頃だろうか。

「わかった。対応が必要になるなら、岐阜局長の方で取りまとめてください。それと選挙関連も頼みます」

 衆議院の任期満了は十月に迫っていた。支持率が高いわけではないが、引き摺り下ろされるほど低すぎず、これといって成果もないがお陰で失点も少なかった。安定した(・・・・)低空飛行と言えば良いだろうか。その結果、衆議院を解散するタイミングを決められずにここまで来た。任期満了で衆議院選挙に突入したケースは一九七六年のみで、与党が過半数を割る敗北を期した。

 どんなに遅くとも二ヶ月後に選挙なら、完全に追い込まれることなく解散してしまえば良いようにも思えるが、来月には政権与党である保守自由党の総裁選挙が控えていた。総裁選より先に解散総選挙に踏み切れば、挙党一致で選挙戦に挑まざるを得ない。従って党内の批判は交わせるが、負ければ当然総裁選での勝ち目はなくなる。今の支持率なら議席が減ること自体は確実だが、過半数割れのような敗北までいくかは五分五分、蓋を開けてみるまでわからかいといったところ。野党の政党支持率が高いわけでもなかった。

 総裁選後の衆議院議員総選挙なら、総裁戦の政策論争が大きくメディアで取り上げられるので、党にとっては有利だが、芝浦総理が総裁選を勝ち抜けるとは限らない。かといって有力な対立候補がいるわけでもなく、こちらは予測するのはまだ難しい。そして議員たちは選挙前最後の閉会期間のいま、地元で支援者を回ったり、駅立ち・辻立ちしたりと汗を流している。来週には新盆参りが始まる。今夏、入盆を迎えた支援者宅を回るのだ。総裁選に向けた動きが活発化し、立候補の表明などは盆明けになる。おそらく、芝浦総理は与党議員が地元を歩いた後の政党支持率や各議員が感じた地元の反応、総裁選の情勢を見て、解散するかしないか決めるのであろう。エネルギー対策という新たな要素も生まれた。上手く利用すれば政権浮揚になるし、失敗すれば支持率の更なる低下を招く。幹事長との面会も、選挙の話でまず間違いない。

 そして、自分はそのための情報収集を命じられた。国家情報機関とは言うが、米英の情報機関のように議会のコントロールや報告義務はない。実質官邸直轄であるため、国際情勢や安全保障に限らず、選挙関連やスキャンダルであっても、総理の情報関心があれば収集しなければならない。

 小牧は秘書官室で船越秘書官等と数分立ち話したのち、三階のエントランスホールをわざわざ通って、正面玄関に向かった。官邸記者クラブの記者たちからは声をかけられることもなかった。首相動静に載せるための入りと出の時間をメモしているだけのようだった。週二回の定例報告なので、内閣広報室から記者クラブに配布される首相スケジュールと照らし合わせて事務的に記録をつけているだけなのだろう。内閣情報調査室の入る内閣府庁舎とは地下通路で繋がっているし、山王側と公邸横の裏門からも出入りできる。記者たちは当然それを知っているが、そちらに人員は配置せず「密会が可能」「密室政治」等と誌面にネガティブに書く。特異なことがあるわけではないと、記者たちに記録させるためにわざわざエントランスを通る。

 小牧は正面玄関を出て、歩いた方が早いのにわざわざ公用車に乗り込んだ。

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i1003673
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