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エンドステート ーシミュレーション台湾有事ー  作者: 益子侑也
第三章 グレーゾーン

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9.波紋

14時

東京都千代田区霞が関二丁目 中央合同庁舎第二号館 警察庁


 二十階で停止したエレベーターは、微かな金属音と到着を知らせる無機質な電子音を残して、左右に扉を割った。

 沼津美樹子は、淀みのない動作でエレベーターから降りた。去り際、籠に残した指先が吸い込まれるように〈閉〉ボタンを叩いた。ヒールの低いパンプスが鼠色と朱色が規則的に並ぶカーペットタイルをリズムよく鳴らし、束ねたセミロングの黒髪がその歩調に合わせて揺れた。中央の吹き抜けから降り注ぐ残暑の逆光を背に、ガラス張りの回廊を急ぐ。

 その横顔は薄化粧で端正に整えられ、丸みを帯びた肩のラインからは柔和な印象さえ受けるが、彼女の背負う職責はあまりに重く、深い。国際テロや諜報活動の捜査といった全国の外事警察の業務を統括し、さらには独自の通信傍受活動を指揮し、NSB(米国家公安部)CIA(米中央情報局)MI5(英保安局)といった外国機関のカウンターパートも務める警察庁外事情報部のトップ、いわば日本の防諜カウンターインテリジェンスの責任者である。

 公安・外事・警衛警護・機動隊・特殊部隊といった全国の警備警察の頂点である警備局長室の前室。沼津が足を踏み入れると、控えていた秘書が無言で頷いて、扉を開けた。

「失礼致します」

 沼津は上半身を素早く十五度に傾けて敬礼すると、流れるような所作で執務机の前まで進み出る。

「陳が米国に亡命しました」

 その一言に、高島警備局長は深く重い溜め息を吐き出し、スクエア型のメガネを指先で外した。

「・・・・・・そういうわけだったのか」

 高島警備局長はそう吐きながら、セーム革のメガネクロスに手を伸ばした。

「台湾の方はどうなった?」

「交通事故として穏便に片付けました。代表処にも連絡しています」

 高島は小刻みに頷きながら、メガネのレンズを執拗に拭き始めた。

「それでいい。・・・・・米国は事前に陳の亡命意思を把握していて、いや。というよりも接触があったのかもしれない。陳を狙う大使館の防衛要員と台湾の工作員、その両方の盾として我々を使ったと、そんなところだろう。全く、彼の国は」

 陳と李の摘発に繋がった対日有害活動の情報は、他ならぬ米国大使館の警察庁渉外担当者を通してもたらされたものだった。駒として利用された事実に、高島局長は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。

「この件に関することかと存じますが、米国大使館のリエゾンが局長に面会を求めています。至急とのことです」

 レンズの汚れを見聞するかのようにメガネを掲げていた高島局長の視線が、ゆっくりと沼津へと戻った。



東京都千代田区霞が関二丁目 

中央合同庁舎第三号館 海上保安庁


「現在、尖閣沖には尖閣専従部隊の五隻と<あさづき>に加え、那覇の<うるま>及び<りゅうきゅう>、十管の<れいめい>、九管の特警船の計十隻が展開しています」

 本庁九階北側、危機管理センターの対策本部室に警備課長の落ち着いた声が、卓上マイクを通して響き渡った。

 運用司令室や通信統括室等を備えたこの危機管理センターは、まさしく海上保安庁の最高司令部である。鶴見警備救難部長の報告から一時間で、海保の最高幹部たちが勢揃いした。さらには、尖閣諸島を含む沖縄周辺を管轄する第十一管区海上保安本部の対策本部ともビデオ会議が接続されていた。正面壁面に備え付けられた大型ディスプレイの左半分には、第十一管区本部長を頂点に幹部たちがコの字型の会議卓に並んでいる様子が映し出されている。

「対する海警については、通常通り(・・・・)四隻体制であり、現在展開しているのは寧波の第二支隊です。内訳は三千トン級三と五千トン級一で、特異な点や動向は認められません」

 続けて、警備情報課長が報告した。

 通常通りという表現に違和感を覚えながらも、大久保は正面のディスプレイを見上げた。

 画面の右半分には、船舶自動識別装置(AIS)日本の船位通報制度(JASREP)、部内衛星回線等を基にした船舶の位置情報が、尖閣諸島周辺の海図上に映し出されていた。魚釣島や久場島を中心とした接続水域内に、四隻の海警船のシンボルが並んでいた。そこから伸びる航跡は、ダルマ型の接続水域内を何度も周回していることを示していた。その四隻の内側(領海側)を、巡視船のシンボルがマンツーマンで並航している。さらに領海内にはゾーンディフェンスの巡視船も確認でき、尖閣諸島の施政権を日本が確実に行使していることを一目で理解できる。

「第一支隊について、情報はあるか?」

 大久保は卓上マイクに言った。

 海警で尖閣を担当しているのは、東海海区指揮部の直属第一支隊と直属第二支隊であり、交代で常時展開する状況が続いていた。

「CSICEに上海と玉環の撮影をリクエスト中ですが、その・・・・・・」

 警備情報課長が語尾に詰まると、傍らの鶴見警備救難部長が大久保の耳元に口を寄せる。

「どうやら、防衛省にトップ・プライオリティがほぼ独占的に割り当てられているようでして」

 鶴見警備救難部長の囁きに、大久保は納得して短く頷いた。

 おそらく、中国軍が台湾周辺で実施している演習に関連しているのだろう。しかし、海保に降りてきていない尖閣を巡る軍事的動向があるのだとしたらーー

 大久保は思考を切り替え、再び卓上マイクのスイッチを入れた。

「わかった。日中中間線を越えたら即補足できるように、シーガーディアンを飛ばしてくれ」

 無操縦者航空機MQ-9Bシーガーディアンは、海上自衛隊に先駆けて海保が導入した海洋監視用の中高度長時間滞空型(MALE)無人機(UAV)である。海上監視用Xバンドレーダーや高性能なEO/IRカメラを搭載し、三十五時間に及ぶ滞空能力で日本のEEZの外周を一回りできる。

「了解しました。直ちに手配します」

「長官要望事項は三点だ。尖閣への上陸阻止、海警との接触回避、採証活動の徹底。現場に周知するように」

 対策本部室に並ぶ幹部一同が了解と声を上げた。部屋の空気は、緊張感で一段と張り詰めた。

「ところで、船隊指揮は誰が?」

「十一管次長の桑江一等保安監です」

「桑江か」

 見知った後輩の名前に、大久保は胸の奥で僅かな安堵を覚えた。



沖縄県那覇市 第十一管区海上保安本部・那覇航空基地

 

 広大なコンクリートが午後の苛烈な陽射しを跳ね返し、視界を白く焼く。

 第十一管区海上保安本部次長(領海警備担当)の桑江浩次は、眩しさに目を細めた。長年愛用しているbolleのセーフティサングラスを、濃紺の第四種制服の胸ポケットから取り出し、無造作にかけた。

 桑江は那覇空港西側のエプロンで、駐機されている中型ジェット飛行機ファルコン2000型<ちゅらたか2号>を見上げた。後退翼を突き出し、空気を切り裂くように無駄を削ぎ落とした流線形の純白の鋭いボディには、ネイビーとシアンブルーの二本のラインが走り、<Japan Coast Guard>の文字が刻まれている。

 次長室に常備していた着替えや洗面用具を詰めたボストンバッグを肩に担ぐと、桑江は<ちゅらたか2号>のエアステアを登った。ボストンバッグを収納し、十八あるシルバーグレーの座席の一つに腰をかけた。慣れた手つきで四点式のシートベルトを引き出し、胸元のバックルに叩き込んだ。最後にヘッドセットを装着すると、機長の落ち着いた声が届いた。

『機長の名護です。まもなく離陸し、約一時間で石垣空港に到着する予定です。そこからは<かんむりわし>で指揮船の<あさづき>へ移動と申し受けています』

「了解。よろしく頼む」

『了解しました。到着まで、ごゆっくりお休みください』

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