8.星条旗
美里はマークXの運転を交代すると、迷わずアクセルペダルを踏み込んだ。エンジンが唸りを上げ、加速する。
美里が警察官でなければ、危険運転で一発免停になっているだろうがーー緊急走行要件を満たしていないので違反であるのだがーー躊躇いはなかった。法定速度を遥かに上回るスピードと、車線を縫うような大胆な追い越しで、陳の乗るタクシーに追いついた。妨害運転罪に該当するであろう車間で、タクシーの後ろにピタリと張り付き威圧する。
右手でハンドルを握りながら、助手席のダッシュボード下からハンドマイクを引っ張り出した。
「追尾一から指揮車! 陳のタクシーに追いつきました。現在追尾中!」
タクシードライバーに公安の車両追尾を撒くテクニックなどあるわけないと、美里は高を括っていた。そうして無線に意識を割いた瞬間だった。
僅かに広がった車間の隙を狙うように、黒の日産CIMAが右車線から割り込んできた。マークXの鼻先を掠める。
美里は咄嗟にブレーキペダルを踏み、ハンドルを左に切って、衝突を回避した。CIMAのドライバーは、まるでこちらに運転テクニックがあることを確信しているようだった。一般車なら間違いなく事故になっていた。
「防衛要員か!?」
美里は毒づきながらも、冷静に状況をアップデートする。一台割り込まれたくらいで追尾に支障はない。数台を間に挟んでの車両尾行など、車両視察員には基本中の基本の技術だった。
「追尾一から指揮車! タクシーとの間に割り込まれました。該当車は黒の日産CIMA、ナンバーは港区XXX、煙草のた、XXXX。照会願います。どうぞ」
『指揮車、了解』
益城班長の淡々とした声がスピーカーから響いた。
CIMAは、車間を詰めてタクシーにピタリと張り付いている。タクシーが左折して住宅街の路地に入ってもなお、その車間は保ったままだった。
アスファルトに大きく書かれた〈20〉の制限速度を無視して、三台はスピードを上げる。頭上に張り巡らされた蜘蛛の巣のような電線、歩道を塞ぐように立つ電柱、側面に迫る家屋や塀が、飛ぶような速さで視界を掠めていく。車二台がすれ違うのがやっとの道幅で、CIMAは減速せずに宅配の軽バンの脇をすり抜けた。
やはり素人じゃない。美里は確信した。益城班長の言うように、陳が本国から疑われていたのなら、このCIMAは中国大使館の防衛要員か。そもそも、陳は何のために逃げ出したのか。
『指揮車から追尾一。照会車両は台湾代表処の車両! 繰り返す! 台湾代表処の車両! 注意しろ!』
美里がはっと息を呑んだ瞬間、目の前にブレーキランプの赤い光が鮮烈に飛び込んできた。慌ててブレーキペダルを踏みこむが、手遅れだった。
強烈な衝撃が車体を貫き、まるで巨大なハンマーで叩きつけられたかのように全身が前へと投げ出される。それをシートベルトが締め付け、胸を圧迫する。フロントガラスには無数のヒビが蜘蛛の巣状に広がり、飛び散った細かな破片が顔面を襲う。押し潰されたエンジンルームからは、漏出した冷却水が真っ白な水蒸気となって噴き出し、咽せ返る煙の臭いが充満し、薬品のような刺激臭と焼けたゴムの臭いが、鼻を突く。
「っ痛・・・・・・」
時間差で首にじんわりとした鈍痛が広がり、鞭で打たれたような衝撃の余波が背骨を伝う。顔の切り傷がヒリヒリと熱く疼き始め、口内にはじんわりと血の味が広がった。
『指揮車から追尾一! 追尾一!』
朦朧とした意識の中、美里は顔を上げる。ダッシュボードから飛び出したカーナビの画面には、バーコード状に赤紫色の線が走り、同じエラーを何度も繰り返していた。
「大丈夫か・・・・・・?」
「なんとか」
美里の問いかけに、助手席から掠れた返事があった。
美里は口の中に入った細かなガラス片を吐き出し、足元に転がったスマートフォンに手を伸ばす。
『衝突事故に巻き込まれた可能性があるようです。あなたの応答がない場合、このiPhoneから緊急SOSを発信します』
警告を発するひび割れた液晶画面をタッチし、緊急電話をキャンセルした。
美里はスマートフォンをズボンのポケットに突っ込むと、ひしゃげたドアを押し開け、車外に転がり出た。手をついたアスファルトは焼けるように熱い。
タクシー、CIMA、そしてマークX。三台の鉄塊が追突し、白煙を上げている。自宅から携帯電話を片手に出てきた老人と目が合うが、黙殺して視界を前方に戻す。タクシーの後部座席からスーツ姿の男が飛び出すのが見えた。陳だ。
動くたびに身体に痛みが走るが、美里は地を蹴った。だが、CIMAの助手席から降りた南方系のはっきりとした顔立ちの男が立ちはだかった。その男の拳が、美里の腹を抉った。胃の内容物がせり上がる衝撃に呻きながらも、美里は勢い任せに突っ込んだ。男の懐に全体重を乗せ、路面に叩きつけた。止めを刺す体力も、手錠をかける猶予もない。美里は立ち上がると、遠ざかる陳の背中を追う。足を前へ、前へと叩きつける。痛みを押し殺し、足取りを早める。
陳を追い、陸橋の手間を左に曲がって星条旗通りへと躍り出た。通りの向かいには、威圧的な黒いフェンスがそびえ立ち、その奥では星条旗と日章旗がはためいている。ニュー山王ホテルと共に東京都心に残る在日米軍基地ーーハーディー・バラックスこと赤坂プレスセンターだ。
陳はクラクションを浴びながら車道を横断し、フェンス沿いに走り出した。美里はそれを追うが、踏み出すたびに右脚の骨が軋み、砕けた破片が肉を突き刺すような激痛が走る。無慈悲にも、陳との距離は開いていく。
陳が辿り着いたのは、錆茶色の重厚なゲートの前だった。
〈警告 立ち入り禁止区域 この区域は1950年発行の国内治安法に準じた国防長官からの指導に基づき基地司令官より立ち入り禁止区域に指定されています〉
その警告板の横で、胸と背中に〈SECURITY〉のパッチの貼った防弾ベストを着た日本人警備員と、マルチカムの戦闘服とプレートキャリアに身を包んだ米兵が、無言でゲートを一メートルほど開けた。彼らは陳を制止することなく、賓客を迎えるようにして基地の中へと招き入れた。足を引き摺るようにして転がり込んだ陳は、待ち構えていたフォードのSUVへと乗り込んだ。
「クソ!」
美里はそう吐き捨て、青山公園(南地区)の階段を登った。骨折した脚が悲鳴を上げ、一段登るごとに脳が白く染まる。それでも手すりにしがみつき、身体を押し上げた。額を伝う汗が目に入って視界を歪ませる。
左手の眼下には、フェンス越しにヘリポートが広がっている。そこでは、米太平洋空軍第374空輸航空団のUH-1Nのエンジンが唸りを上げ、ローターが視界が歪むほどに回転していた。ヘリポートへ滑り込むように停車したSUVから、陳が米兵に抱えられるようにして降り、そのままUH-1Nに乗り込んだ。スライドドアが閉じられると、UH-1Nは浮き上がり、西の方角へと機首を向けて高度を上げた。ダウンウォッシュが、美里のジャケットを激しく揺らし、頰を打った。




