7.逆転
13時30分
東京都港区元赤坂
中国大使館の紅旗H7三台は、首都高四号線を外苑出口で降り、外苑通りに滑り込んだ。それまでの澱んだノロノロ運転が嘘のように、料金所を抜けるとエンジン音を咆哮させた。どちらが高速道路かわからない有様だが、尾行を暴き、撒くための常套手段だった。車列は法定速度を無視し、威圧するように車線を縫って猛進する。
青山一丁目交差点に差し掛かる瞬間、信号が黄色から赤に変わった。最後尾の紅旗H7のテールランプが赤く灯り、急停止を予感させたーーが、その刹那、黒い車体は排気音を轟かせて急加速した。三台は完全に赤信号へと変わった交差点へと、迷いなく突っ込んでいく。
「ブレーキ! 停止停止っ!」
その三台を執拗に追うトヨタ・マークXの助手席で、車両視察員の美里英忠は絶叫した。左手でアシストグリップを握りしめ、右手でダッシュボードを叩いた。心臓が喉元までせり上がるような恐怖が全身を駆け巡る。
美里の怒号が車内に響き渡り、追尾の熱に浮かされていた運転手は咄嗟にブレーキを強く踏み抜いた。
ABSが作動し、アスファルトを噛みしめるタイヤが甲高い悲鳴をあげる。慣性力が二人に容赦なく襲いかかり、フロントガラスへ投げ出されそうになる。美里はダッシュボードを押し込むように腕を真っ直ぐ伸ばし、足を踏ん張って背中をシートに押し付けて堪えた。シートベルトが肩と胸に食い込み、圧迫感が身体を締め上げた。
目の前の視界に、信号が緑になって走り出した2tトラックが飛び込んできた。
「っ!」
美里は襲いくる衝撃を覚悟して奥歯を噛み締めたが、その無機質なコンテナは鼻先を右から左へと掠め去った。トラックの後続の車両が減速しながら視界を横切っていくのを見て、胸を撫で下ろした。ようやく肺の空気が漏れた。
マークXは停止線どころか横断歩道を超えて止まり、間一髪で衝突を回避した。
バックミラー越しに、後続のアリオンの視察員が、どっとシートに崩れ落ちるのが見えた。
「・・・・・・気をつけろよ」
「すみません!」
運転手の声は、情けなく裏返っていた。
「まぁ、ちょうどいい頃合いだ」
赤信号に突っ込んだ車列には、外苑通りに交差する青山通りから無数のクラクションが怒涛のように浴びせられた。耳を劈くホーン音が交差し、空気を震わせた。その騒乱を嘲笑うかのように、三台の紅旗は交差点を抜けた。青山通りを東西に進む無数の車両に隠されるように、六本木方向へと消えていった。
大きく深呼吸する運転手の額には、脂汗が滲んでいた。それを拭う左手は小刻みに震えている。
美里は胃の腑がせり上がるような緊張を飲み込み、掌の手汗をスラックスで拭くと、無線機のハンドマイクを手に取った。
「追尾一から指揮車! ・・・・・・脱尾しました!」
失尾でなく”脱尾”と伝えた。それは、作戦が敵を欺く段階に移り、主役がオモテ班からウラ班に移ったことを意味していた。
付近の道路を走る日産セレナの助手席で、益城は「了解」と応えた。
「指揮車から視察二。動きはないか?」
『現在まで、麻布に特異動向はありません。どうぞ』
「指揮車、了解」
陽動ではなく、あの三台のどれかに陳が乗っているのかーー
冷房の効いた車内に、ジリジリと焼けるような緊張が充満する。
『本部から指揮車。赤坂署の交通課から外ナンバー通報。南青山一丁目、環状三号線で路上駐車中』
防衛要員が配置についている。諜報接触は間もなくだーー
『視察三から指揮車! 撮れました! 二台目にホストが乗っています!』
興奮した声が、無線機のスピーカーから吐き出された。ウラ班の車両が、隣車線で追い越す瞬間、秘撮に成功した知らせだった。
――来た!
益城は手の震えを押し殺しながら、再びPTTスイッチを押し込む。
「指揮車から各局。舞台は整った。各班、暴露に最新の注意を払え! 以上、指揮車」
オモテの車両を脱尾させることで、相手に尾行を撒いたという安堵感と隙を与える。益城の描いたシナリオ通りに、事は進んでいた。
『35MPから指揮車。車列は青山公園の南で転回し、青山霊園に進入。どうぞ』
『視察四から指揮車。客人は乃木坂駅五番口から地上に出ました。青山公園方向に向かっています』
両社が一点に向かって、収束していく。諜報接触は近い。青山公園か、青山霊園かーー
あとは二人が接触した瞬間を押えるだけだーー
益城は、乾いた唇を噛み締めるようにして潤した。
『35MPから指揮車。車列は霊園内で右左折を繰り返しなが、あっ。車列停止。二台目より一名降車。スーツ姿の男性。どうぞ』
「指揮車、了解」
益城は一呼吸置いて、無線に続ける。
「指揮車から各局。傍受の通り、ホストが下車した可能性が高い。ドロップに注意。以降の無線使用は最小限に留める。以上」
中国大使館は周辺の電波をモニターしている可能性が高い。暗号化されたデジタル無線のため内容が傍受される心配はないが、その発信頻度は監視の存在を物語ってしまう。益城は抜かりなく、完全な失尾の状況を演出した。
「そこで止めろ」
益城が運転手に指示すると、セレナは路肩の影に滑り込んだ。
座席の間から手を伸ばし、スライドドアを三分の一ほど開放した。
偽変して歩道を歩いていたウラ班の北谷美穂が、何の前触れも感じさせることなく、一瞬だけ足取りを変えて後部座席に飛び込んだ。素早くドアを閉める。
「急げ」
益城が短く告げると、北谷も短く「はい」とだけ返事をした。
北谷は慌ただしく衣装ケースの中を漁り、無数の衣装の中から喪服を引っ張り出した。すると、二人の男の存在を気にすることもなく、チャコールパープルのカシュクールワンピースの紐を解いた。無線が静まり返った車内には、布擦れの音だけが響く。9月の湿り気を帯びた外気から逃れたばかりの、白く艶やかな肌が露わになった。鎖骨を伝う一筋の汗が、下着のレースを湿らせた。彼女の動作には一切の迷いも羞恥もなく、ただ偽変という諜報戦の準備を淡々とこなす。
喪服の黒い布地が、その柔らかな輪郭を瞬く間に覆い隠した。さっきまでの軽やかな面影は消えている。そこにいるのは、亡き縁者を悼むために青山霊園へと向かう慎ましやかな女性の姿だった。
「出ます」
「気をつけろよ」
北谷は、益城の言葉が終わる前にドアを閉め、9月の陽炎の中へと再び溶け込んでいった。
益城はその姿を見送ると、スマートフォンで秘匿性の高いメッセージアプリSignalを開き〈北谷をホストへ向かわせた〉と送信した。
北谷は、青山霊園の入り口に佇む花屋を後にする。談笑している時間などない。初老の店主に礼を言って切り上げ、真鍮の取っ手に指をかけた。陽に焼かれてニスの剥げ落ちた木製の引き戸が、ガタガタと建て付けの悪い音を立てて滑る。偽変のために買い求めた仏花、そして貸し出していた手桶と柄杓を手に、差し掛け造りの瓦屋根の影から暴力的な日差しの下へと踏み出した。
北谷が桜並木の緩やかな勾配を登り始めると、向こう側から白いワイシャツ姿の男が歩いてきた。それを視野の端で捉えた北谷は、目線を変えることなく様子を伺った。感覚を研ぎ澄ませる。
張り出した頬骨に角ばった顎のライン、太めの眉の下には据わった目、重心の低い歩き方。
中国大使館の防衛要員だーー
男はすれ違いざまに、検品するかのような不躾な視線で北谷を舐めた。北谷の顔を数秒見た後、男は周囲をキョロキョロと見回しながら足早に坂を降りていった。
大使館周辺に張り付き、公然尾行を続けるオモテ班の人間は、中国大使館に顔写真を撮られて全てリスト化されている。秘匿尾行を専門とするウラ班で、そのための技術を叩き込まれている北谷の面は当然割れていないし、割れれば二度とウラ班には戻れない。そのプレッシャーが常にあった。
違和感を覚えた北谷の脳内で、数秒前の景色がリプレイされた。
防衛要員は誰かを探している?――
すると、思考を遮るように、前方から黒色のトヨタ・ジャパンタクシーが降りてきた。
北谷はごく自然な所作で顔を上げ、タクシーへと目を向けた。この静かな霊園で、近づく車を無視するのは逆に不自然だ。
ダッシュボード上の表示灯は〈賃走〉になっている。フロントガラスの奥、後部座席に鎮座するその輪郭を捉えた瞬間、北谷の血の気が引いた。
陳が乗っている!?――
何度もこの足で追い、この目で見て、脳に叩き込んだ男を見間違うはずがない。
秘匿尾行に気が付かれたのではないかという戦慄が走る。だが、それを顔に出すことは許されない。動揺を封じ込め、仏花を抱え直した。何事もなかったように、上り坂を進む。
北谷の右手、道路を挟んだ先にある六階建ての赤坂プレスセンター宿泊施設の奥から、重低音が響き始めた。エンジン回転数が徐々に上がり、ローター音の間隔は加速度的に短くなっていく。それに合わせて、青山公園の木々が揺れ始めた。
『客人が防衛要員に連れられて、外ナンバー車両に乗りました! 車種は紅旗のSUV、ナンバーは91XX』
『ホストを乗せたタクシーを確認! 墓地下バス停前の交差点です。バンカケしますか!?』
使用限度を最小限に留めろと指示したはずの無線機が、堰を切ったように慌ただしくなる。
益城はセレナの車内で、ハンドマイクを握ったまま、石のように固まっていた。
一体何が起きている!?――
「監視がバレたんでしょうか?」
「そんなわけ」
益城は運転手の問いに即答したものの、言葉に詰まった。その声には確信が欠けていた。ウラ班の秘匿尾行には、絶対的な自信がある。だが、目の前の現実は、益城を嘲笑うかのようだった。
益城は苛立ちをぶつけるように、ハンドマイクをダッシュボードの上へ放り出した。
『35MPから指揮車! 当該タクシーは星条旗通りへ向け交差点を直進・・・・・・ いえ、右折し外苑西通り方向へと南進! なお、星条旗通りを西進してきた外ナンバー車両は左折し、これを追尾する模様』
「逃げてる・・・・・・?」
口から漏れ出た言葉を、運転手が聞き直す。
「どういうことですか?」
「わからない、さっぱりわからない」
理性が拒絶する。しかし、現場から届く点と点を繋ぎ合わせると、そうとしか思えなかった。
益城の脳は、過去の膨大なアーカイブを猛烈な勢いで検索し始めた。
陳の防衛体制が極端に厚くなっていますーー
先月のオモテ班からの報告の断片を思い出し、脳に電気が走るような感覚を覚えた。暗闇が一瞬で白く焼き払われ、甘い痺れが背筋を駆け上がる。その突き抜けるような快感に、思わず息を呑んだ。
まさか・・・・・・!――
「防衛ではなく、監視が強化されていたのか」
「班長、どういうことです?」
「陳は守られていたんじゃない。陳は本国から疑惑の目を向けられていたんだ」




