6.端緒
13時15分
東京都千代田区霞が関 中央合同庁舎三号館
淡いクリーム色のケイカル板の内壁が延々と続き、蛍光灯の淡い光が注ぐ薄暗い十階の廊下は、いつも通り無機質で静かなはずだった。そんな静寂を、慌ただしい足音が切り裂いた。革靴の硬い踵がセラミックタイルの床に叩きつけられるリズムは、まるで高鳴る心臓の鼓動のような焦りを覚えさせた。焦燥感を孕んだその足音は、フロア中央の十二の乗場戸が並ぶエレベーターホールを抜けた。
海上保安庁長官の大久保は、その足音がタイルカーペットの柔らかな感触に変わったことで、自身の部屋に近づいてくることに気がついた。足音は秘書課のエリアの受付を抜け、海上保安監室、次長室を抜けて行く。
大久保は無意識に背筋を伸ばし、薄クリーム色の第二種制服乙上衣の裾を整えた。半袖シャツから覗く腕は、間もなく六十歳を迎えるとは思えないほど逞しく、筋肉がくっきり浮き出ていた。肩には羅針盤のシンボルマークが四つ並ぶ金色の肩章が、その重責のようにのし掛かっていた。ここ十年ほどは、官邸の強い意向から、国交省キャリアでなく生え抜きの海上保安官が長官に任命される人事が続いていた。大久保自身、海上保安大学校卒業後、巡視船の「三席」通信士として日本海の荒波に揉まれるところからキャリアを歩み始めた。プルトニウム輸送船警乗隊幹部、対馬海上保安部長、第十一管区海上保安本部長と、常に最前線で戦ってきた。白髪混じりの角刈りと鋭い眼光、痩けた頬に鋭く削ぎ落とされた顎のラインと、消耗し切った表情がそれを静かに物語っていた。
予想通り、足音は扉の前で止まった。秘書官が扉を開け、来訪者を知らせた。
「失礼します」
秘書官と入れ替わるように、鶴見警備救難部長が長官室に入った。
見知った後輩だが、大久保の緊張が解けることはなかった。鶴見警備救難部長の顔には、緊迫感が滲み出ていた。
警備救難部は海上保安庁の核心を担う部局だ。名前の通り、海上における警備業務、救難業務、環境防災業務という正面業務を担当するが、それだけではない。自前の通信傍受施設によるSIGINT、HUMINT、COLLINT、諸外国に入港する日本船舶からの情報収集(調査票活動)、さらには身分をカバーした海上保安官による国外での情報収集も、密かに実施している。
「長官。警備情報課が、福建省の複数港から漁船団が尖閣方面に出港したとの情報をつかみました。尖閣への到達予定は最短で明日の昼になります。情報集約センターには通報済みです」
毎年5月から8月16日にかけての禁漁期間が過ぎると、尖閣沖に中国漁船が殺到するが、近年は日本との関係悪化を恐れる当局が、自制を呼びかけコントロールしていた。それが今、突然動き出したのだ。
「隻数は?」
「現在、内閣衛星情報センターに衛星画像をトップ・プライオリティでリクエスト中です」
内閣衛星情報センター、通称CSICEには内閣府、外務省、防衛省、警察庁、公安調査庁、海上保安庁、国土地理院などから膨大な数の衛星画像のリクエストが寄せられている。情報収集衛星は光学衛星とレーダー衛星の計九機体制だが、それ以上に専門の画像分析官を擁する分析部のマンパワーが圧倒的に不足しており、常に競合するリクエストは情報収集衛星運営委員会が調整している。
「俺からも口添えしておく。しかし、タイミングからして匂うな」
鶴見警備救難部長が頷き、僅かに唇を歪めた。
「はい、嫌な匂いがします」
「警備対策本部を設置し、全庁体制で尖閣警備にあたるぞ」
東京都千代田区霞が関 中央合同庁舎六号館
「石垣駐在官室に届いた耳は、早崎調査官が接触していた台湾当局の林諜報員だ」
「殺されたんですか!?」
八階の総務部長室で、参事官の根岸は驚きの声を上げた。
早崎調査官は林から得たA・B評価の情報を公安調査庁にもたらしてきた。それらの情報は、時に総理や官房長官に直接報告される内容のものだった。早崎調査官の運営する主要協力者ではなく、あくまでもCOLLINTだった。台湾にとっても、中国の台湾侵攻の足がかりや前哨基地となる先島諸島の動向は重大関心事であり、両者の情報関心が一致した形だった。
「警察庁が我が社に捜査協力を求めてきた。林の身分を明らかにせよ、と!」
赤坂総務部長は捜査関係事項紹介書を、机に叩きつけた。
「しかも! 協力しなければ、早崎調査官を殺人の容疑で取り調べると脅してきやがった」
「そんな、刑事局がですか?」
「まさか! 警備局だ。公安が動いてる」
公安警察は、刑事部も公安調査庁も目の敵にしていた。
「ともかく、工作推進室は林をどう査定している?」
「本人が自称していた国家安全局の所属ではなく、軍事情報局の人間である可能性が濃厚です」
国家安全局と台湾軍軍事情報局の双方とも対外諜報活動を担っているが、中国を主に担当しているのは軍事情報局だった。第三次台湾海峡危機では、台湾軍情報部に浸透していた中国国家安全部のスパイと、台湾軍情報部の協力者となった人民解放軍少将がそれぞれ逮捕される事案が発生している。中台両岸は、長年に渡って熾烈な諜報戦を繰り広げていた。
「つまりだ、林を殺害したのは中国の工作要員である可能性が高い、ということか」
「はい。早崎調査官の安全確保ももちろんですが、当面、台湾側が中国に報復する事案にも注意すべきです」




