5.スパイハンター
同日 同時刻
東京都千代田区霞が関二丁目 警視庁本部庁舎
十五階の会議室には、本庁外事二課第四係、麻布警察署と赤坂警察署の警備課外事係の捜査官、他部署に異動した元四係の警察官ら約百名が集結していた。
壁の時計の秒針が刻む音さえやけに大きい。空気は緊張で引き締まり、唾を飲み込む音さえ皆に聞かれているような気すらした。
静かに整列した捜査官らの前に、沼田外事二課長が進み出た。ダークネイビーのスーツの裾が、微かに揺れる。ピシッと十五度に身体を折り曲げた沼田に外事二課長に、益城も応えて敬礼した。
上擦った声で、沼田外事二課長は話し始めた。
「いよいよ、李を摘発することができます。こうして事件化することができたのも、長期間に渡る四係を中心とした作業の成果です。まず、その働きに感謝します」
沼田外事二課長は頭を下げた。交番での見習い勤務、警察庁係長しか経験のないまだまだ世間知らずの沼田にとって、初の手柄であることが伺えた。
いきなり大物スパイの事件化にあたるとは、ついてるなーー
益城は、沼田外事二課長のNSS局長や内閣情報官までの出世を確信した。いくら証拠を揃えても、事件化のタイミングは政治判断によるところが大きい。日中関係が悪化する中、これ以上の軋轢を避けるために事件化しないというカードも政権にはあったはずだ。つまり、諜報の世界では運も実力のうちというわけだ。この成果を携えて、沼田は階段を登っていくだろう。
沼田外事二課長は、吹き出物に侵された端正な顔をあげて続ける。
「これまでのパターンと傾向から、今日から明日にかけて陳と李は諜報接触する可能性は極めて高いと考えられます。ある端緒によれば、李と陳は必ず接触しなければならない理由があるとのことです」
外事のモニターの情報じゃない。またCIAからの情報提供かーー
「そこで、陳と李が接触する瞬間を抑えます! 李を入管法違反及び私文書偽造の容疑で確保し、陳にも任意同行を求めます」
いわゆる『スパイ防止法』のない日本で、イリーガルスパイを摘発するには外為法、軽犯罪法、入管法、旅券法の違反といった間接的な形を取るしかなかった。短い禁錮刑にしかならない。だが、正体が暴かれたスパイなど使い物にならない。
そして任意同行を求められた陳は、外交旅券を振りかざし、外務省への抗議もちらつかせて拒否するだろう。それはウィーン条約に守られたリーガルスパイの特権ではあるが、当局は顔が割れた以上、陳にこれ以上の諜報活動を行わせることは困難との判断で本国に呼び戻すだろう。そして、陳が諜報の世界で暗躍することは二度となくなる。
陳を葬れる! 益城の心臓は高鳴った。
「今朝、中国の邦人が拘束されたとの情報もあり、情勢は大変緊迫しています。向こうが強行な手段に出る可能性も否定できません。”麻布”の防衛要員と、李のデッドドロップとフラッシュには細心の注意を払ってください。各警察署にも外ナンバー報告の徹底を依頼しています」
沼田外事二課長の声は、一段と強くなる。
「日本の国益を守るのが、我々外事警察の使命です。諸君の働きに期待します! 以上!」
同日13時
東京都港区六本木
路肩に停めた日産セレナの助手席で、益城は僅かに背筋を伸ばし周囲の音に意識を澄ませていた。後部座席には、捜査員らの変装用の衣装を詰めた段ボールや衣装ケース、無線機器が積み上がり、狭い車内をさらに圧迫していた。
興奮と緊張を紛らわすため、益城はカーナビを操作して地上波放送を呼び出した。特に観たい番組があるわけでもないので、順々にチャンネルを送る。益城の指が、NHKが中継していた保自党総裁選の演説会で止まった。
「誰が総理になったって、俺たちの仕事の何が変わらねぇよ」
助手席で呟いた益城に、運転手の巡査部長が苦笑いで応じた。
上空から、重く振動するローター音が近づいた。益城は徐に窓の外を見て、日差しに目を細める。二日間、こちらが手配した警視庁航空隊のヘリとは、明らかに音が違う。もっと腹に響く、二枚のブレードスラップ特有の重低音が叩きつける。
米軍かーー
ビルの谷間に現れたシルバーグレーの機体。テールブームには山吹色のラインと中央に星を配置したラウンデルの国籍マーク。横田基地に配備されている第374空輸航空団のUH-1Nが、在日米陸軍の赤坂プレスセンターことハーディー・バラックスに向けて高度を下ろしていた。
無線機のPTTスイッチが押された雑音で、益城はカーナビを消音にした。
『視察二から指揮車。いま〈麻布〉から外ナンバーの車輌が三台出ます。〈ホスト〉かどうかは不明』
益城は無線機のハンドマイクを手に取り、「了解」と短く答えた。
高鳴る気持ちを抑える。まだ諜報接触かわからない。
『追尾一から指揮車。ナンバーは先頭から91××、91××、91××。 狐坂を東進。追尾します』
中国大使館に割り振られた91から始まる四桁の外交官ナンバー。
無線から報告されるその数字を、益城は自身のアイフォンの連絡先で検索した。電話番号の代わりに登録されたナンバーと紐づいた中国大使館員の氏名が検索結果として表示された。
「防衛要員の車輌だ! ホストはまだ麻布を出ていない! 陽動かもしれない! 注意しろ! 視察二は麻布の視察を継続!」
益城は無線機に興奮気味に言った。
オモテ班の車輌部隊は、強制尾行のプロだ。対象車の動きがどうであれ、絶対に離れない。路地に入ろうが、車線変更を繰り返そうが、急加速や急減速をしようが、逃さない。
膝の上に置いたタブレットに呼び出しているマップ上で、捜査員と作戦車輌を示すシンボルが次々と動き始めた。数秒ごとの更新に合わせて、ジリジリと動く。中国大使館の外交官車輌の位置は当然表示されないが、捜査員らの位置関係から、益城はその位置を完璧にイメージできていた。
『はやぶさ三号から本部』
『35MP、どうぞ』
『現在、東京タワー上空を通過し、六本木方面に飛行中。指示願います。どうぞ』
江東区にある東京ヘリポートを離陸した警視庁航空隊のレオナルド式AW109型〈はやぶさ三号〉が、上空支援のために向かっていた。
『了解しました。現場の指揮官車と直接交信願います。どうぞ』
車内で傍受している無線機からは、リモコン担当ではなく本庁で全体指揮を執る南第四係長の声が混線なく響く。
『35MPから指揮車』
「指揮車です。どうぞ」
作戦系の周波数に合わせた上空の〈はやぶさ三号〉からの無線に応えた。
『六本木上空に入りました。指示願います』
中国大使館の動向を監視させるか。いや、とりあえずは、外ナンバー三台を追跡させるかーー
「35MPは上空から対象車の秘匿追尾、通過地点の速報願います」
益城は続けて、対象車のナンバーと車種をパイロットに伝えた。
フロントガラス越しに、上空約二千フィートを飛行する〈はやぶさ三号〉の機影が見えた。全国にある九十三機の警察ヘリコプターの中で唯一、青と水色の塗装にオレンジの縦帯が入るカラーリングではなく、濃いグレーのロービジ塗装が施されていた。スマートな胴体に黒色でマーキングされた〈警視庁〉の文字は、殆ど見えない。まさに、公安警察の支援にうってつけの機だった。
『35MP、了解!』
〈はやぶさ三号〉は高度を上げながら大きく旋回し、ビルの合間に消えていった。対象車を直接追跡するのではなく、平時のパトロールを装って飛行する。〈はやぶさ三号〉なら民間ヘリの遊覧飛行にも見えるかもしれない。それでも、機首の右側に取り付けられた全周旋回可能なヘリテレの防振カメラは、対象車を確実に追い続けるのだ。
『視察三から指揮車。客人が自宅を出る模様』
李の自宅アパート前で張り込んでいる視察三からの一報で、益城は飛び上がるように無線機に向かって前屈みになった。
「指揮車から各局! 〈麻布〉の動向に注意せよ!」




