2.変死体
同日 8時5分
沖縄県宮古島市 平良港・漲水地区
宮古島は平穏さを失っていた。台湾空軍機の緊急着陸に続けて、陸上自衛隊が訓練の名の下に宮古島駐屯地に展開し、宮古島警察署には化学防護車を含む九州管区機動隊と広島県警機動隊が派遣されていた。「平和団体」も大挙して島に押し寄せ、宮古島駐屯地や宮古島分屯基地の前で自衛隊や警察との衝突を繰り返し、その映像を求めるマスコミも群がっていた。二機の台湾空軍機が宮古島を去ってもなお、新聞やテレビは戦争が起こると煽り立てていた。トイレットペーパーや飲料水が不足する、航空便とフェリーが運休する、自衛隊が島内の食料を買い占めている、自衛官が暴行事件を起こした、といったデマはインターネット空間を飛び出して、島民の暮らしを翻弄した。
『沖縄本部から宮古島警察署管内各局。宮古島市平良西里、平良港にて変死体発見の一一〇番。通報者は港湾作業員の男性。通報者より一一九番要請済。整理番号は二三六番。付近各局は現場急行、事案の詳細解明に当たれ』
久居の運転するパトカーの平穏も、一本の無線で乱された。助手席の八尾巡査部長が透かさず応答し、現場へ向かう。緊急走行で転回し、路肩に避けた自衛隊車両を追い越した。
「お巡りさん! こっち!」
作業服姿の男がパトカーを手招きしながら叫ぶ。男の目は血走り、額の汗が頬を伝い、荒い呼吸で胸が激しく上下していた。日差しが容赦なく照りつける中、男の顔は恐怖と興奮で歪んでいた。
久居はパーキングブレーキをかけて、エンジンを切る。赤色灯をつけたまま、路肩に停めたパトカーから降りた。
「二三六事案について、ただいま現着し、通報者と接触。これより着手。どうぞ」
『沖縄本部、了解。以上、沖縄本部』
助手席の八尾巡査部長は、基幹系無線機のハンドマイクを置いた。通信指令室からの返答は淡々としていた。
八尾巡査部長は、テプラでダッシュボードに貼られた注意書きーー〈降車時は無線機の電源オフ〉――に従い、無線機の電源を切り、降車した。ドアを閉める音が、波止場に軽く反響する。八尾巡査部長は久居に続けて、男を追った。
強い海風が、並べられたコンテナの隙間を抜ける。塩の香りと鉄を熱したような暑さが、顔を打つ。久居は活動帽が飛ばされないように、右手で押さえながら足早に進んだ。無線機や拳銃をぶら下げた腰の帯革が上下して、カチャカチャと音を鳴らす。興奮状態の男が何度も手招きしながら、海縁へと急ぐ。
「あそこ! あれあれ!」
通報者の男は、港の縁から海面を指差した。数名の作業員が集まり、騒めきながら海面を凝視していた。
久居も八尾巡査部長と並んでコンクリートの縁に立ち、海面を見下ろした。そこには、人型のものがうつ伏せで浮かんでいた。穏やかな渚でそれは上下左右に揺れ、時折押し寄せる波によって岸壁へと押し当てられる。変死体だ。
二人が目を見合わせて頷くと、周囲の空気が張り詰めた。
「至急、至急。宮古島三から宮古島」
八尾巡査部長は左肩のハンドマイクを取り、宮古島警察署通信室を呼び出していた。
『至急、至急。宮古島です。どうぞ』
「二三六事案について、成人男性の変死体らしきものを確認。なお、うつ伏せで海面に浮かんでいるため、詳細は不明。専務等の派遣願います。どうぞ」
八尾巡査部長のその言葉で、野次馬たちが騒めき始めた。
『宮古島、了解。現在、刑事課長以下現場に急行中。宮古島三は現場保全に努めよ』
「宮古島三、了解」
『平良交番から宮古島、宮古島三。まもなく現着します。どうぞ』
八尾巡査部長がハンドマイクのフックを防刃ベストの左肩にかけると、受令機も慌ただしく鳴り始めた。右耳に突っ込んだイヤホンから基幹系の無線が絶えず流れ始めた。
『宮古島から沖縄本部。二三六事案について、宮古島警察官が変死体をーー』
「すみません、現場保全しますので、下がってもらっていいですか? お願いします」
久居は基幹系の通話を右耳に聞きながら、野次馬を現場から遠ざける。作業員らは噂をしながら解散し、現場に戻っていく。八尾巡査部長は通報者の男に声をかけ、第一発見者を確認していた。
8時30分
沖縄県石垣市 石垣地方合同庁舎
公安調査庁・那覇公安調査事務所 石垣駐在官室
公安調査官の早崎一馬は、自宅でシャワーを急ぎ浴び、替えのワイシャツに袖を通すと、まだ湿り気の残る髪を手で整えながら宿舎を飛び出した。蜻蛉返りだ。
単身赴任で、深夜、時には早朝まで働き埋める生活が長くなるうちに、寝るだけの部屋には必要最低限の家具と日用品しか置かなくなっていた。質素というよりも、機能だけ残した、まるで合宿所のような箱だった。
早崎はジャケットを腕に抱え、剃刀負けで赤くなった顎をさすりながら、合同庁舎へと駆け込む。同居する沖縄地方協力本部石垣出張所の自衛官と階段でぶつかりそうになりながら、会釈を交わしてすれ違う。北海道の第10即応機動連隊が石垣駐屯地に訓練で展開してからというもの、地方自治体との連絡調整を担う彼らは慌ただしかった。全国から結集した反自衛隊団体との摩擦も激しさを増している。公安調査庁の調査対象でもある彼らと対峙する早崎には、自衛官の苦労が容易に想像できた。
早崎は大股で階段を駆け上がる。
本庁の大和田調査官に、石垣港の特定利用港湾指定を受けての整備事業を受注した〈いしがき建設〉についての調査結果を、急ぎ報告しなければならない。
駐在官室の入るフロアに足を踏み入れた瞬間、早崎は立ち止まった。
古びた空調の低い唸りが響き、所々間引かれた蛍光灯の白い光が差す生温い廊下。見慣れた光景なのに、どこかズレがある。何か不穏な空気を感じた。早崎は五感を研ぎ澄ませて歩を進める。
駐在官室のドアの前に長形の茶封筒が落ちていた。いや、置かれているーー
人の気配が消え去った直後のような、生温い沈黙が漂っている気がした。
早崎は僅かに膨らんだ封筒を拾い上げた。手には、五百円玉程の重さを感じる。地面に触れていた面はじっとり湿っており、そこから潮と鉄の入り混じった臭いが立ち昇る。
早崎は封筒を右手に持ったまま、一度周囲を見回した。蛍光灯が一定のリズムで明滅している。
糊付けもせず折られただけの封筒の口を開けると、左手を受け皿のように差し出して、封筒を傾けた。歪な形状のものがボロッと封筒の中を転がり、左手の上へと乗った。それの弾力と冷たい感覚が手に伝わる。
「・・・・・・っ!」
瞬間的に全身の毛穴が逆立つ。自分の手のひらと似た色のそれに、反射的に左手を払った。
セラミックタイルの床に叩きつけられたそれは、音もなくバウンドし、蛍光灯の青白い光が輪郭をさらけ出した。紛れもなく人間の片耳だった。
9時
沖縄県宮古島市 平良港・漲水地区
現場には宮古島警察署刑事課強行犯係や鑑識係が集まり、周囲を地域課の制服警察官が規制していた。観光客と地元住民を遠ざける黄色い規制テープが、湿った海風でばたつく。
宮古島消防本部のレスキュー隊によって引き揚げられた変死体は、明らかに蘇生の見込みがない社会死状態だったため、レスキュー隊と救急隊は役目を終えて静かに撤収していった。
代わって臨場した嘱託医によって、法的に死亡が確認された。その後、県警検視官室での勤務経験のある刑事課長自ら、嘱託医の立ち会いのもとで検視を行う準備を始めた。検視官の派遣に時間のかかる離島警察署で取られている人事上の措置だった。
発見時の状況確認のために呼ばれた久居は、ブルーシートの上に安置された遺体から視線を逸らしきれずにいた。青白く変色した顔、顎や頬に浮かび上がる赤紫色の死斑、大きく見開かれて透明度の落ちた眼、絶望の形で固定されたように開いた口、海水でふやけた深い皺、抜け落ちて散らばる毛髪。生々しい様子が脳裏に焼き付く。内容物が喉まで込み上げてくるのを堪えて、ぐっと胃へと押し戻した。
「身元はわかったか?」
刑事課長は部下に尋ねながら、マスクをつけ、ゴム手袋をはめた。
「所持品は一切なく、害者と近い人着の捜索願も出ていません。それにしても・・・・・・酷い状態です。両耳が切断されてます」
「その耳は、見つかってるのか?」
「いいえ、まだ見つかっていません。これから海中も捜索しますが、サバに食われてるかもしれません」
「サバ……?」
刑事課長が首を傾げる。
「すみません。宮古では、鮫のことをサバと言うもので。課長はウチナーでしたね」
日本の方言の中でも独特とされる沖縄方言だが、宮古島はそれとも異なる独自のもので、沖縄方言などともにユネスコの消滅危機言語にも位置付けられている。沖縄本島での放送で、宮古島や与那国島といった先島諸島各島の方言には字幕がつくほどだ。
「しかし課長、これは殺しでしょうね」
「だろうな。微細泡沫もないし、殺した後に海に遺棄した可能性が高いだろう。水に浸かってたから何とも言えないが、死斑も動かないし、全身が硬直してるようだから、死後七、八時間ってところか。司法解剖の手配をしておくように」
刑事課長はそう言いながら、静かに膝をついて遺体に手を合わせた。周囲の刑事と鑑識官も合掌し、海辺の騒めきが一瞬だけ遠ざかった。合掌を終えると、刑事課長の短い掛け声で検視が始まった。
「溺死体だと鼻とか口から、白か血液混じりの細かい泡が出てくるんだ」
八尾巡査部長が立ち尽くす久居にそう教えた。
気管から肺に入った水が呼吸器系の粘液と混じり合い、呼吸によって撹拌される。そうしてメレンゲ状になったものが、死後の胸腔内圧の上昇で、気道を通って鼻や口から出てくるのである。溺死でなければ生きているうちに水を吸い込まないので、微細泡沫は確認されない。
久居は八尾巡査部長に続けて、遺体に向かって両手を合わせ、冥福を祈った。
刑事課への発見時の状況報告を終えた二人が現場を離れようとした時だった。
「喉の奥に何か引っかかってる」
刑事課長は鑑識官から差し出されたピンセットを受け取り、喉の奥にゆっくりと差し入れた。海水で濡れた異物を慎重に取り出した。
「・・・・・・名刺だ」
くしゃくしゃに丸まったそれを広げた。擦れている箇所もあるが、幸いなことに文字はほとんど読み取れる。
〈星濤旅×社 営業部 国際グル××・日本チーム ×縄担当 林志鴻 リン・ジーホン〉
刑事が再び久居と八尾巡査部長を呼び戻す。
「台湾人について、情報は何かありませんか?」
海風の中で、刑事らの視線が二人へと向けられた。




