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エンドステート ーシミュレーション台湾有事ー  作者: 益子侑也
第一章 インテリジェンス
2/16

1.N

20XX年8月6日21時(I) 東シナ海 

海上自衛隊たいげい型潜水艦<はくげい>SS-514


 海上自衛隊第1潜水隊群所属の潜水艦<はくげい>は、東シナ海の海中に潜んでいた。おやしお型、そうりゅう型に続く最新鋭のたいげい型の二番艦。長年、海上自衛隊の潜水艦の任務は宗谷・津軽・対馬海峡の防衛であると説明されてきたが、それは表向きに過ぎない。水中速力と航続距離の強化のため、AIP(非大気依存推進)システムに代わってリチウムイオンバッテリーを搭載。全長84メートル、基準排水量約3000トンと、通常動力型としては世界最大級までに大型化した。遠方の敵支配海域への侵入という攻勢的な運用のためである。その鋼鉄の巨躯は、ただ守るためだけでなく、敵の喉元に忍び寄るために設計されているのである。

「艦長入られます」

 奄美友規あまみとものりは静かに発令所に入ったが、気配で号令がかかった。足音の出ないようにわざわざスニーカーを履いていても、いつも良く気がつくものだと感心する。潜望鏡コンソールの前に立つ哨戒長と副長が敬礼で迎える。作業中の者は作業を優先するよう徹底させていた。こちらに背を向けるようにして、百八十度ぐるりと配置されたコンソールに青いデジタル迷彩の陸上戦闘服2型を着た隊員たちが向かう。コンソールは縦長のディスプレイ、民生品を活用したキーボードとトラックボールで構成され、無数のスイッチやメーターの並ぶ一昔前のものと比べかなりスタイリッシュになった。ただ、天井や壁面に張り巡らされた剥き出しの配管や配線は変わりなく、潜水艦の無骨さを残していた。

 潜水艦は一度潜れば見つかりにくいため、究極のステルス兵器と言われる。敵の制海権下でも行動でき、その海域に潜水艦が存在しているかもしれないというだけで、敵艦隊の動きを制限し、対潜戦(ASW)のコストを強要できる。その秘匿性の高さからインテリジェンスのアセットとしても運用される。

 水中で電波は減衰するため、レーダーは役に立たない。当然、目視もできない。従って、潜水艦は音を頼りに目標を捜索・探知・識別する。逆に言えば、物音一つが命取りになりかねない。乗員は官品の安全靴や短靴ではなく、なるべく足音の出ないスニーカーを履き、配管に毛布を巻き、床にゴム製のマットを敷くなど創意工夫で無音に努めている。時には冷蔵庫の電源を落としたり、トイレの使用を制限したりする。休息時のビデオ鑑賞もヘッドホンが必須で、シャワーは原則三日に一度。

 発令所の右後方、黒い遮光カーテンで仕切られた区画に、水測員ソナーマン三名がソーナーコンソールの前に並ぶ。オーディオテクニカのヘッドホンを被り、ZQQ-8ソーナーからの音に集中する。片耳はイヤパッドからずらして、艦内の指示が聞こえるようにしている。ソナーマンが睨む縦長の統合ディスプレイは、区画ごとの専用品から一新された艦内共通品である。各区画で必要なものを選択して表示して用いる。ソナーマンの画面には、ナローバンドディスプレイを呼び出しており、ソーナーの拾った音がオレンジ色の輝点で表示されている。横軸を方位、縦軸を時間、音の強弱を輝度で表しており、無数のノイズが上から下へ流れていく。滝のように見えることから、ウォーターフォールディスプレイとも呼ばれる。表示する時間経過を長と短に分割して映し出している。

「ソーナー探知。34度、感3、ディーゼル音。この目標、(シエラ)82と呼称する。方位右へ変わる。聴音から商船と思われる」

 ソーナーマンの耳は、新たに拾った音源を商船だと判断した。スクリューやエンジンによって発する音は異なり、同型艦であっても微妙な差異が生じる。音紋とされるそれらを収集・解析するのが、ソナーマンの仕事である。

「慌てずとも、じきに来るだろう」

 空振ったと言いたげな哨戒長に、奄美は声をかけた。

「S81は方位左へ、徐々に遠ざかる。なお同方向より魚鳴音」

 水測員長の忍野海曹長は「キダイかな」と、隣のソナーマンの報告を聞く。続けて、「美味いんだよな」とぼそりと呟いた。死と隣り合わせの極度の緊張の中、隊員の不安を適度に和らげる灯火のようだった。図らずかもしれないが、曹士を束ねるベテラン海曹としての重要な役割を果たしていた。

<はくげい>の優れたソーナーはクジラやイルカの鳴き声、魚や甲殻類の発する音、海底の地滑りなど僅かな音も拾う。釣り(F作業)好きの忍野海曹長の分析が、窓のない潜水艦の中で自分たちのいる場所を感じさせてくれる。キダイは本州南部から台湾、オーストラリアまでの沖合、水深五十〜二百メートルに生息している。

「ソーナー探知、320(サンビャクフタジュウ)度。艦長、来ました」

 ずらしていた片耳のヘッドホンを戻す、イヤパッドと肌の擦れる音が静寂に包まれた発令所に響く。忍野海曹長の報告が続く。

「感1、スクリュー音。この目標、S83。聴音より潜水艦らしい。方位、僅かに左へ」

 奄美は潜望鏡コンソールのディスプレイに、ソナーマンと同じナローバンドディスプレイの画面を表示させた。横に並ぶ数字の320――方位320度を示す位置――から周囲のノイズより濃いオレンジの線が伸び始めた。その方位線はわずかに左、310の方に曲がっていく。分割表示した下側に、抽出した目標音紋の時間領域と周波数領域を波形で示すブロードバンドディスプレイを呼び出した。年々、人民解放軍の潜水艦の静粛性は増しているが、日米の足元にも及ばない。最新の095型原子力潜水艦ですら四十年前にソ連が建造したアクラ級原子力潜水艦よりうるさいのである。日米のサブマリナーたちが、ドラム缶を叩きながら航行していると表現するレベルである。

 ソーナーの捉えたスクリュー音が、ライブラリに照合される。日米の潜水艦や哨戒機、音響測定艦等が収集した膨大な音紋データは、衛星を含むインテリジェンスを駆使して個艦を特定して紐付けられ、対潜資料隊がカタログとして整理している。個艦の特定を防ぐために、海上自衛隊の潜水艦は就役後にセイルの艦番号が塗り潰されて二度と書かれることはない。

「目標はユアン級潜水艦十番艦、長城229」

 忍野海曹長から音紋解析の結果が知らされた。スクリュー音、エンジン音、その他機器の出す音の周波数が一致した。

 ユアン級は人民解放軍で最新の国産通常動力型潜水艦である。同国の原潜に比べればはるか静かだが、二十年前にロシアから輸入したキロ改級の方が静粛性に勝るレベルだ。発見は容易だった。

「距離は?」

「いま出ます。ソーナーで推定レンジ9000ヤード」

 艦首アレイと側面アレイを用いた三角測量によって、OYX-1情報処理サブシステムが位置を割り出した。

 思ったより近い――

 海中で音波は真っ直ぐ伝わらない。潮の流れや塩分濃度、深度によって異なる水温層の影響を受けて、変化する。海洋観測艦がそれらを収集しているが、中国領海内のデータは圧倒的に少なく、しかも沿岸部は音の伝播が複雑でバックノイズが多い。

「了解。S83の方位変化率(DB)知らせ」

 すぐ右手のコンソールでこちらに背を向けている電子整備員が、目標運動解析(TMA)を報告する。ディスプレイの戦術状況表示装置には、自艦のシンボルを中心に、S83の推定位置と予測進路が示されている。

「1.3度」

「了解」

 離底した<はくげい>は、プロットされた遠征27の後方死角――バッフルにつくよう機動する。

 米国家偵察局(NRO)の光学衛星が出港準備中の通常動力型潜水艦長城229の様子を捉え、第7艦隊潜水艦群からなるCTF-74(第74任務部隊)が海自潜水艦隊に作戦情報共有システムを通じてトラッキングを依頼。ちょうど中国領海内で作戦情報隊第3科の隊員を乗せて任務艦としてSIGINT(シギント)と軍港のIMINT(イミント)にあたっていた<はくげい>に、その任が命じられたのだった。数時間前に、海上自衛隊中央通信システム隊のえびの送信所(東京ドーム十七個分の範囲に標高千メートルの高さで立てられた八本の巨大アンテナを持つ施設)からの超長波通信で露頂の指示を受け、正式命令を受領。浙江省大榭島沖の海底に沈座し、息を潜めてこのときを待っていた。

「艦長、沈座用具収めます」

「はい、行え」

「沈座用具収め」

 額から冷たい汗が垂れた。顔の湿った汗が、夜間であることを示す赤灯を反射していた。いまいるのは中国の領海内だ。軍艦には無害通航権が認められているが、領海での潜水航行は有害通航で国際法違反に当たる。攻撃を受けても文句は言えない。

 ピーン――

 金属を打つような甲高いピンガーが、記憶の彼方で鳴った。潜水艦戦術課程を終え、おやしお型でスリーローテーションについていた時、ロシア太平洋艦隊の所在するウラジオストクで任務中に発見された。駆逐艦や哨戒機からの度重なる対潜ロケットと対戦爆弾による警告。鳴り止まないアクティブソーナー。ギリギリの電池残量。帰還後、造修補給所でボロボロになった潜水艦を見て身震いした記憶が、冷や汗と共に甦った。

「哨戒長、目標に変化はないか?」

「的針的速、180度、5ノット。変化ありません」

 気がつかれていない――

 HU-606 533mm魚雷発射管には 18(ヒトハチ)式魚雷が装填済み。1・2番管は注水させてあり、何かあればソーナーの情報をプロットさえすれば打てる状態にしていた。

「艦長。当初の計画通り、本艦は戦闘無音潜航で長城229の追尾を実施します」

 哨戒長に了解と答え、乾いた唇を舐めた。

「マイク。本艦はこれより遠征27を追尾する」

 当直海士が1MC(艦内放送)のマイクに向かって哨戒長の指示を復唱し、艦内に放送する。

「哨戒長、戦闘無音潜航はじめ」

「了解。戦闘無音潜航はじめ」

 奄美の号令を哨戒長が復唱する。続けて、当直海士が「各区、発令所。戦闘無音潜航はじめ」と1MCを入れる。同時に、艦情報表示器の電光表示板を『戦闘無音潜航用意』の文字が流れる。海図棚や引き出しなど物音が出やすい箇所には『注意! 無音潜航中!』と赤字で書かれた乗員手製のプレートがかけられた。

 発射管室、電池室、機械室、電動機室等から「戦闘無音潜航よし」の報告が、続々と上がってくる。

「艦長。各区、戦闘無音潜航よし」

「了解。前進最微速、潜横舵上げ舵5度。深さ150、長城229の後方500につけ」

 CTF-74の攻撃型原子力潜水艦は人民解放軍の原子力潜水艦を、海自の通常動力型潜水艦は人民解放軍の通常動力型潜水艦をトラッキングする分担となっていた。潜水艦隊は哨戒機等を運用する航空集団よりもCTF-74との関係の方が親密で、日米の潜水艦部隊は一体運用されていると言っても過言ではなかった。ただし、それは決して従属などではなく、共同作戦が行える能力があると互いのリスペクトが根底にあった。厳重なセキュリティのもと、情報を共通システムで共有していた。そのなかでも機密性が高いものはサードパーティールールに基づき、自衛艦隊(SF)司令部にも基本的には明かさない。潜水艦の位置や任務は自衛隊でも機密中の機密で、自衛艦隊司令部地下にある海上作戦センターの海上自衛隊指揮統制(MAR)共通基盤()システムにも位置情報や作戦行動予定は表示されない。潜水艦がいつ、どこで、何をしているか、それを知っているものは、海上自衛隊でもひとつまみの人間だけだ。

 日米が東シナ海の海底数百キロに渡って敷設したSOUSUS(ソーサス)からの音響情報と、太平洋統合情報センタ(JICPAC)ーからの衛星情報に基づいて「演習に関連した人民解放軍の潜水艦が出港した」と、自衛艦隊司令部の当直幕僚に通報されたのは数時間後のことだった。

カクヨムにも同作を投稿しています。

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