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7.8・15

8月15日 9時30分

東京都千代田区永田町 内閣総理大臣官邸


 外気は既に三十度を超え、昼過ぎには三十五度を軽く上回る猛暑が予想されていた。空はどこまでも澄み切った青を湛え、容赦ない太陽がコンクリートジャングルを炙り、陽炎に揺らめく。相変わらずの暑さだが、日本全体がどこか厳かな空気に包まれている。

 桜木は、黒のスーツに控えめなダークグレーのネクタイを締めて、総理大臣執務室にいた。岐阜国家安全保障局長、小牧内閣情報官、中津補佐官、白山官房副長官、横須賀官房副長官補、豊平統幕長、松茂防衛政策局長が同席している。

「今年は靖国に行かれるんですね。現職総理の参拝は、二十年ぶりですか」

 桜木の質問に、モーニング姿の芝浦総理は頷いた。

「えぇ。桜木大臣は、もう行かれたんですか?」

「先程、8時半頃に参拝して来ました。行った途端に各社速報出しましたよ」

 桜木が笑った。メディアの反応は予想通りだった。


〈【速報】桜木防衛相が靖国神社を参拝した 202X年8月15日8時38分〉


〈【速報】桜木防衛相が靖国参拝 保自党の桜木防衛相が午前8時半頃、終戦の日に合わせて、東京・九段北の靖国神社を参拝しました。芝浦内閣の現職閣僚の中で、終戦の日に参拝したのは桜木氏が初めてで、現職防衛相としては四例目です。また、芝浦首相が靖国神社を参拝する意向を固めたと伝えられ、注目が集まっています。昨年までは、保自党の総裁補佐を通じて「保自党総裁・芝浦善一」として、私費で玉串料を納めていました。芝浦首相が参拝すれば、現職首相が終戦の日に参拝するのは二十年ぶりとなり、各国の反発が懸念されます。なお、芝浦首相は例年通り、千鳥ヶ淵戦没者墓苑を参拝した後、全国戦没者追悼式に出席する予定です〉


 芝浦総理が靖国参拝を決断した裏にある思惑が気になったが、雑談も程々にして本題に移る。

 総理の過密なスケジュールの中で面会時間を獲得し、一府十一省三庁に与党や国会、地方自治体等から膨大に上がってくる情報の中で、総理にいかに印象付け、関心を持ってもらい、優先順位を上げるか。それは役所間の競争であり、駆け引きである。しかも面会時間は大抵、長くとも十五分程度と限られる。

 現状、総理最大の関心事は安全保障情勢と見て間違いないだろう。邦人の安全確保を理由に、日中首脳会談を実現と穏健な姿勢を求める外務省に対し、防衛省とNSSは首脳会談等の場面でカードとなるよう、軍事的牽制を主張していた。浜松外務大臣の辞任に伴う引き継ぎで手一杯の外務省に付け込み、防衛省が主導権を握っていた。後任の千両財務大臣は与党屈指の親台湾派で知られており、既に中国外交部は強く反発していた。通常の外務省であれば、総理の靖国参拝も止めたであろう。そのことからも、当面、この構図は変わらないと読んでいた。

 松茂防衛政策局長が、一枚のA4紙を芝浦総理に差し出した。南西諸島の地図に部隊符号と簡潔な説明文が記されている。

 芝浦総理が資料に目を落とすと、桜木は説明を始める。

「一悶着ありましたが、予定していた部隊を与那国・石垣・宮古の三島に配置しました。ありがとうございました。なお、弾薬については、沖縄県との協議の結果、搬入しないとの合意に至りました」

 芝浦総理が頷き、「ご苦労様でした」と言った。一同が軽く頭を下げて、応える。

「艦船の態勢については、防衛政策局長より報告します」

「海自の演習監視部隊が中国の軍事演習の警戒監視を継続するとともに、護衛艦二隻が米海軍と沖縄南方沖で共同訓練を実施中です。午後にも豪海軍の駆逐艦が台湾海峡を通過し、明日から訓練に合流する予定です。英国、フランス、カナダも艦艇と航空機を東シナ海・南シナ海に派遣する意向を示しており、現在日本への寄港を調整中です。各国それぞれ台湾侵攻に関する何かしらの兆候を掴んでおり、同地域の安定に関心があるということでしょう」

 松茂防衛政策局長が視線を桜木き送りながら、小さく頷いた。桜木が畳みかける。

「そこで、総理。我が国も護衛艦に台湾海峡を通過させるべきと考えています。そのご承認を」

「私としても、前向きに考えています。決める前に、統幕長の見解を聞かせてください。それで台湾有事を防げるかどうか」

「はい。ウクライナはロシアに強固な抵抗を続けてますが、それだけの力があることをロシアに認識・理解させることができなかったのが、抑止の破綻を招きました。抑止力は防衛力の整備だけでなく、その力と、それを使う意志を相手に見せる必要があります。日本や米国の図上演習において、中国の台湾侵攻が失敗する条件は第一に米国の参戦、第二に日本の基地提供と後方支援でした。先島諸島への事前配置は必要ですが、それはあくまで受身的な対応です。日米、更には同志国が台湾有事に介入する意志と力があると、中国に理解させるために、台湾海峡での『航行の自由作戦』という積極的な行動による戦略的アナウンスメントが有効であると考えます」

 部屋が静寂に包まれる。桜木は、総理の表情を注目した。



13時 

東京都千代田区九段北三丁目 靖国神社


 夏の重苦しい空気が、靖国神社の境内を覆っていた。甲高い蝉の声が暑さと絡み合い、まるで空間を焼いているようだった。参道を縁取る大木の木陰も三十五度を超える猛暑の前では頼りなく、参拝者の額には汗が滲み、首筋を伝う水滴がシャツの襟を濡らしていた。

 参道では、緩慢な動きで進む人々が列をなしていた。ハンカチで額の汗を拭う者、色褪せた扇子をゆっくり振る年配の男性、首に巻いたタオルを握りしめる女性、そしてハンディ扇風機の風に髪を揺らす若者たち。誰もがこの暑さに耐えながら、拝殿へと続く四百メートルの参道を進んでいた。参道の入り口付近では、新興宗教の信者達が熱心にビラを配り、色とりどりのチラシが参拝者の手に押し付けられていた。第一鳥居の内側では、政治団体のメンバーが拡声器を手に熱弁を振るい、軍歌の勇ましいメロディーが蝉の合唱に混じる。署名活動のテーブルが点在し、日の丸や旭日旗が随所に掲げられている。帝国陸海軍の制服を着た団体や鉢巻を締めた集団が整然と行進する様子が、境内に戦前の幻影を浮かび上がらせていた。まさにカオスそのものだった。

 靖国通り沿いには警視庁第六機動隊の人員輸送車が整然と並び、沿道には水色のシャツに身を包んだ制服警察官や、ヘルメットと防護装備で固めた機動隊員が、厳重な警戒態勢を敷いていた。歩道沿いにはパイプ柵が連なり、交差点は封鎖に備えて伸縮式車両阻止柵が控えている。報道各社は境内に人員を張り付かせ、国会議員の参拝をチェックしている。

 交通整理の警察官が警笛をけたたましく鳴らし、振り上げた誘導棒を左右に大きく振る。一時的に交通が遮断され、日本武道館を出発した総理専用車列は田安門を突っ切った。群衆から好奇の視線が向けられる。


 東京都道八号線には、芝浦総理到着のタイミングに合わせて、靖国に向かうデモ隊の姿があった。紺色の遊撃車Ⅲ型(ゲリラ対策車)を先頭に、車道を行進するデモ隊の両脇と両歩道を数百名の警察官が随伴している。無数の赤色灯が点滅し、制服警察官の夜光ベスト、機動隊の青と緑の識別用ベスト、公安機動捜査隊と所轄警備課の赤いベストの色彩の乱舞に、目が眩む。

『戦争反対! 靖国解体! 参拝するな!』

 デモ隊の叫び声が、質の悪いスピーカーを通して音割れしている。

 一方で警察の警備広報は、冷静だった。先導のゲリラ対策車に続く、現場指揮官車の投石防護用の金網付拡声器から警備広報が飛ぶ。

「ご通行中の皆様、警察は円滑な交通の流れを確保するため、部隊でデモ行進の整理・誘導を行なっています。皆様のご協力をお願いします」

 ランドクルーザーベースの現場指揮官車の防護柵に囲われた櫓の上で、第八機動隊副隊長伝令の阿見巡査長がマイクを片手に警備広報を行っている。機械的なセリフが、阿見の滑らかで通る声に乗る。落ち着いているようで、メリハリのある抑揚が威圧感を帯びている。警視庁警備広報競技会で総合優勝を勝ち取ったその声は、建造の中で際立っていた。

阿見の隣で、第八機動隊副隊長が指揮棒を振る。三メートルを超える高さからは、デモ隊や部隊の動きが手に取るようにわかる。

『靖国反対! 戦争賛美を許さない! 総理の参拝、絶対反対!』

 特殊警備用ヘルメットの耳覆いの中で、デモ隊の抗議が反響する。

 総理の参拝予定を受け、例年と異なりプロテクターを装備しての警備活動となった。全身黒の出動服が太陽光を吸収し、身体を守るはずの防護装備が体力を消耗させる。暑い。

 デモ隊は九段下交差点に差し掛かった。振り返った阿見の視線の先には、交差点側の歩道で日の丸を振る団体の姿があった。デモ隊と同じく、例年よりも明らかに数が多く、熱気も凄まじい。透かさず副隊長との阿吽の呼吸で、マイクのPTTスイッチを押した。

「部隊宛! まもなく右折! まもなく右折! 部隊宛! 伝令旗を確認! 伝令旗を確認! 車道前方左側、交差点先において多数の抗議者あり。部隊にあっては、交差点通過時、十分注意! 相互間、トラブル防止に努めよ! 繰り返す! 第二中隊! 歩道側の部隊にあってはーー」

 伸縮式車両阻止柵が展張され、人員輸送車数輌が前進して交差点を封鎖した。一般車を規制するとともに、靖国通りを西進してきた極右団体の街宣車の突入を阻止する。大音量で軍歌を鳴らす黒色の街宣車が、スピーカー越しに怒号を浴びせる。

『道を開けろー! 我々はー! 選挙目当てのー! 総理の参拝はー! 認めない! 売国奴の芝浦はー! 直ちにー! 辞任せよー! 英霊をー! 政治利用するなー!』

『交通規制実施します! そのまま、お待ちください! 警察官の指示があるまで、その場でお待ちください!』

『参拝するな! 靖国いらない! 戦争するな! 日中戦争、絶対反対! 戦争国家を作らせない!』

 総理の靖国参拝にそれぞれの立場から抗議する左翼団体と極右団体、「カウンター」と呼ばれる左翼団体のデモに抗議する保守系や右翼の団体と、九段下交差点は大混乱だった。

 そんな中でも、阿見はデモ隊の動きを見逃すことなく警告を行う。

「速やかに交差点を渡りなさい! 行進中、わざと立ち止まり停滞する行為は、東京都公安条例の違反である! 麹町警察署長から重ねて警告する! 行進中、わざと立ち止まり停滞する行為は、東京都公安条例の違反である!」

 無数の拡声器、サイレン、叫び声、蝉の合唱で空気が震えていた。

「行進中の諸君! 速やかに交差点を渡りなさい! 本日の許可条件通りの行進をするよう、責任者からも呼びかけ、指導しなさい! 君たちが停滞行為を続けるならば、部隊で強力に規制する! ただいまの警告時刻、午後1時4分! こちらは麹町警察署長である!」

 デモ隊は九段下交差点を右折し、靖国通りのカウンターの前に差し掛かった。罵声を飛ばすカウンターが車道に出ないように、道路沿いに配置された機動隊がパイプ柵を押さ込む。

『出て行けー! 帰れー! 反日国賊は日本から叩き出せー!』

 総理の公式参拝を受けて、双方とも例年以上の勢いだった。

「部隊宛! 規制線を確保! 規制線を確保! 相互間、トラブル防止に努めよ!」

 カウンターの一部がパイプ柵を超えて車道に飛び出し、デモ隊に向かった。デモ行進に随伴する機動隊は咄嗟に駆け寄り、突入を防ぐ。機動隊に守られたデモ隊が、カウンターを拡声器越しに挑発し始めた。それが引き金となり、興奮したカウンターは一斉に車道に溢れ出した。

「速やかに歩道に上がりなさい! 規制にあたる警察官の指示に従いなさい! 警察は公共の安全と秩序を維持するため、やむを得ず部隊で君たちを規制する! 部隊連絡! 速やかに抗議者を歩道に戻す措置を取れ!」

 衝突を防ぐために間に入った機動隊が、カウンターとデモ隊の双方と揉み合いになる。

 大きな日の丸や旭日旗が風になびき、政治団体や労働組合ののぼり旗、プラカード、ばつ印の書かれた国旗が乱暴に振り回される。怒号が飛び交い、音割れした拡声器が空気を切り裂く。待っていたと言わんばかりに、メディアはその様子をカメラに収める。

 日産キャラバンe26小型採証車の車上では、公安機動捜査隊がビデオカメラでその様子を記録している。

「警察官にわざと突き当たり、乱暴する行為は、公務執行妨害罪で検挙する! 速やかに歩道に戻りなさい! デモ行進中の諸君も、立ち止まることなく、許可条件通りの行進を続けなさい!」

 阿見は声を張り上げた。

 後方を追随していたゲリラ対策車がサイレンを鳴らして駆けつけた。大柄の機動隊員四人に抱えられた活動家は、ゲリラ対策車に押し込まれた。

「午後1時12分! 警察は公務執行妨害罪の被疑者を検挙した! 部隊連絡! 被疑者の奪還防止、受傷事故防止には特段の留意! 部隊宛! 違法行為が発覚した場合、看過することなく検挙せよ!」

 検挙された活動家を乗せたゲリラ対策車は、サイレンを鳴らしてすぐさま走り去った。


 靖国神社の到着殿前に着いた総理専用車を、マスコミと警護員が出迎えた。シャッターが激しく切られる中、芝浦はモーニングコートのボタンを留めた。SPが扉を開けると、芝浦は深呼吸して車を降りた。周囲の騒ぎと報道陣の数を見て、改めて自分の決断が大きな意味を持つのだと理解した。上空には、報道や警視庁のヘリも複数旋回している。表情を変えないように意識しながら、石畳を踏み締めた。

「いま政府主催の全国戦没者追悼式を終えた芝浦総理が、靖国神社に到着しました! 終戦の日に現職総理が正式参拝するのは、実に二十年振りのことです!」

 デモ隊の喧騒と各社のレポートに負けじと、若手記者が声を張り上げていた。

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