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4.応急出動準備訓練

8月10日 14時30分 

熊本県熊本市 陸上自衛隊北熊本駐屯地


 第42即応機動連隊隊舎の大会議室には連隊作戦室が開設されていた。正面にはテレビモニターとスクリーン、コの字に配置されたテーブルの内側には三メートル四方の作戦台にオーバレイを被せた地図が置かれていた。壁際のホワイトボードには着々と進む準備の様子が時系列で記され、文書が張り出されている。急ぎで開設されたため、部屋の角には無造作に椅子が寄せられ、床には電話機や無線機のコードやLANケーブルが無造作に伸びている。

 早朝、師団から「前進目標が大在公共埠頭から佐世保に変更になった」と、連絡を受けた作戦室は混乱に陥った。連隊本部は経路選定を含む行進計画や、車両運行指令書等の手続き書類の変更を余儀なくされた。慌ただしくする幕僚等を他所に、多田連隊長は「実戦は想定外を大前提に、冗長性を持たせておくように」とどっしりと構えていた。

『連隊3科より連絡。連隊は最終確認を行う。行進梯隊長及び各小隊長は、1500(ヒトゴーマルマル)、大会議室集合。なお、編成完結式は当初の予定通り、1600(ヒトロクマルマル)、第二訓練場にて実施』

 何とか所用の手続きを済ませて安堵に包まれた作戦室から、駐屯地内に放送が流された。

「やはり、この絡みでしょうか?」

 大沼副連隊長が、NHKを映すテレビモニターを指した。下地島空港の滑走路にC-130Hが止まり、周囲を消防車両やパトカーが囲んでいる様子を、上空のヘリから中継している。

 上級司令部からの命令は、5W1H(Who(誰が),What(何を),When(いつ),Were(どこで),Why(なぜ),How(どのように))が明確にされていない。それでも走り出している。つまり、本来は目標達成のための過程や手段に過ぎない機動こそが、今回の目標であると、多田は任務分析していた。そこから考えられるのは『即応機動連隊を配置することで、中国の軍事演習を牽制したい』との政治的意図だ。

「おそらく、そうだろう」

 コの字の頂点に座る多田連隊長がそう答えた。

 地図を挟み込む両翼のテーブルには人事、情報、運用、兵站をそれぞれ担う1から4科長の四人の幕僚が腰掛けている。

「2科長、念のため台湾軍機攻撃事案の情報をまとめてくれ。とりあえずは報道ベースで構わない」

 2科長が「了解」と答えて立ち上がると、後方の2科のデスクへと向かった。

「連隊長。休止点は金立SAとします。念のため、NEXCOには連絡済みです」

「3科長、世間は盆休みだが混雑は大丈夫か? 民間への影響は最小限に」

「情報小隊の偵察用オートバイ(オート)を先行させ、状況を確認する手筈になっています。先遣班の他、行進梯隊を十コに細分し、部外への影響を抑えます」

「了解した。その分、梯隊間の通信を密にするように。1科長、特殊車両通行通知の変更は大丈夫か?」

「問題ありません。通知済みです」

「了解」

 そう答えた多田の手元に置かれた自即電が鳴った。受話器を手にして「はい、42即応機動連隊長です」と答えた。

『もし。竹松だ』

 防衛大学校同期の竹松義人だった。今は情報本部の情報官をしていると聞いていた。学生寮で同部屋だったため、同期で最も親交が深い一人だ。

 いまそれどころでなくてと断ろうと思ったが、情報官なら何か知っているかもしれないと平然を装った。

「竹松、お前も休日なのに、登庁してるのか」

「多田。C国は本当にやるかもしれない。気をつけろ」

 それだけ言うと、竹松の方から電話は切られた。

「4科長! 弾薬はどれくらい積載した!?」

 俺の任務分析が甘かったかもしれないーー



15時 沖縄県宮古島市 下地島空港


 一帯には未だ焦げ臭さが立ち込めていた。油圧作動油やジェット燃料が燃えたのであろう不快な化学臭が鼻を突く。

 滑走路には台湾空軍のC-130Hが鎮座したままだ。地面では消火剤の白い泡と黒い油が混ざり合って広がり、陽光に照らされてキラキラと無数の光を放っていた。辺りを囲うように、航空局の空港用化学消防車ドラゴンX6TEP、宮古島市消防本部の日産エクストレイル広報及び資機材搬送車、小型動力ポンプ付水槽車、水槽付ポンプ車、救助工作車、宮古島市、宮古島警察署のパトカーが赤色灯を点灯させていた。既に負傷者は救急車で搬送され、それ以外の乗員は宮古島市消防署の日野リエッセⅡ災害支援車にいた。カーテンが閉められており、カメラでズームしても中の様子を伺うことはできなかった。周辺には自衛官や米兵の姿もあるが、大きな動きはない。

 封鎖された空港の上空を、メディアがチャーターしたのであろうヘリが旋回していた。一瞬、機体が鋭い日差しを遮った。

 市原は見上げた首を下ろし、スマートフォンに視線を戻した。Twitterでは、中国の台湾軍機攻撃が〈本日のニュース〉の上部に表示され、〈台湾有事〉がトレンド入りしていた。関連ツイートは既に二十万件を超えている。市原がRawLensの公式アカウントから投稿したC-130Hの画像は、リツイートが五千件、いいねが一万件に達していた。市原はそれに快感を覚えると同時に、過熱したツイートやコメントに気味の悪さを覚えた。

〈台湾空軍機の撃墜騒ぎは自衛隊の誤射!〉

〈日本の空軍は同時間にスクランブルしていゐ 台湾軍機を中國軍機と誤ってしまって射撃レた可能性も十分にあリ得ます〉

〈芝浦は何している!? 記者会見も開かないのは隠蔽中だからに違いない!〉

〈無能な日本政府 余計なことに首突っ込んで、中国と台湾の戦争に巻き込まれるな 芝浦は即刻辞任〉

〈榊原先生はCIAの工作 偽旗作戦だと言っています!! 左エンジンだけ綺麗に損傷するなんて軍事的にあり得ない! アメリカ傀儡の芝浦政権もそれに協力しているに違いありません!!〉

〈芝浦は日本を戦争に巻き込みたいのか 疫病神の台湾はさっさと追い返せ! #保自党政治を終わらせよう #芝浦首相の辞任を求めます〉

〈台湾は自力で防衛できない だから日米を巻き込むための自作自演 こんな茶番に踊らされる日本政府は無能〉

〈台湾有事は台湾有事 戦争に突き進む保自党は秋の衆院選で落選させるしかない #保自党政治を終わらせよう〉

〈台湾軍機より国民の暮らしを守って ガソリンが高すぎる #芝浦政権が日本を滅ぼす #芝浦政権に殺される〉

〈台湾有事の緊張が高まって原油価格は高騰 国民生活と日本経済は疲弊 外交音痴の芝浦には緊張を高めることしかできないらしい〉

〈アメリカ傀儡の芝浦政権はCIAの圧力で台湾軍の整備部隊を受け入れた その結果がこれ 日本が進むべきは自主的な平和外交 日米地位協定 日米合同委員会 CIAが作った傀儡政党の保自党 これらが障壁になっている〉

〈日本は島国だからシーレーン断たれたら終わりなのにねw #軍事よりも対話〉

〈浜松外務大臣がこのタイミングで辞任 やはり中国のスパイだったか〉

〈浜松辞めさせたのは、芝浦GJ〉

〈辞めさせてお終い 中国の工作は解明されないまま ガス抜き #芝浦総理の任命責任を問います #浜松幸一の議員辞職を求めます〉

〈台湾軍機の動向を浜松が中国に伝えていた可能性〉

〈氷山の一角に過ぎない 日本政府と保自党は中国のスパイの巣窟 #芝浦保自は売国奴〉

〈なぜ中国軍機を、その場で撃ち落とさなかったのか やっぱり芝浦は中国に弱腰〉

〈アメリカは台湾を守らない 困った台湾は日本に擦り寄る そして芝浦は台湾にバラマキ 税金を勝手に使うな #芝浦首相の辞任を求めます〉

〈中国側から自衛隊機が誤射した動画が流出!? これホンモノ??〉

〈日本の政治家が媚中派ばかりだから、支那がこうした態度に出る 次の選挙で芝浦内閣を終わらせないと、日本が終わる〉

〈#芝浦首相の辞任を求めます #浜松幸一の議員辞職を求めます〉

〈このままアメリカが動けば、日本も自動的に参戦することになります。80年守り続けた平和が崩れ去ろうとしています。戦争だけは絶対にダメ〉

〈浜松幸一が中国共産党のハニートラップにかかっていた証拠動画が流出〉

〈中国に台湾と沖縄に攻め込んでほしい阿保ネトウヨが多いことw 残念ながら中国は台湾に上陸はしない 海上封鎖と兵領攻めで充分 日本は中立を保って、中国に輸送ルートを確保させてもらえば解決 食料自給率が30%台なのに、わざわざ戦争に巻き込まれる意味w 米軍も沖縄の基地を使えなければ中国に勝てないのだから、日本が中立を貫けば米軍も介入できない 平和外交によって台湾有事は台湾有事で終わる あとは台湾に降伏を促せば解決 軍事力が圧倒的な中国に台湾は勝てっこない〉

 溢れるツイートに目眩がした。市原はスマートフォンの手垢をズボンで拭うと、隣に立つ江平の前に差し出して尋ねる。

「どう思う?」

 江平はカメラを足元に置くと、両手で日差しを遮るようにしてスマートフォンを覗き込んだ。

 急速に拡散されている十五秒ほどの映像を再生した。中国軍戦闘機のコックピット映像とされるもので、前方を飛行する台湾軍のC-130を追跡している様子が写っている。英語の無線音声が流れ〈こ᠍ちらは日本國自衛゛ᱸ隊᠂ 退⬝去レなければ警告射᠌撃ᱸすゑ〉というぎこちない機械翻訳のテロップが表示された。映像がコックピット後方に切り替わる。自機の垂直尾翼の後ろに映った航空自衛隊機と思しき戦闘機が、機関砲を撃った。再び映像がキャノピー越しに正面を映したものに切り替わると、頭上を飛び越えた機関砲弾の光の筋が、C-130の左エンジンに真っ直ぐ吸い込まれていった。火花が散り、煙が吹き出し、破片が飛んだ。迫ってきた破片を避けるために旋回したのか、画面が大きく左に傾いたところで映像は止まった。

 江平が首を振り、揺れた髪先から汗が飛んだ。

「いやーぁ。これだけじゃ、わかんないすっね。今どきはゲームやフライトシミュレーターのCGだってリアルだし、生成AIで誰でも映像が作れちゃいますからね」

「じゃあ、こっちはどうだ」

 市原は画面をスクロールして、別の映像を再生した。浜松外務大臣が中国人とされる女性とベッドの上で抱き合う様子を撮影したものだった。隠しカメラのような粗い画質で、薄暗いホテルの部屋を映している。

「ちょ、セクハラですよ。先輩」

「すまん」

 慌ててスマートフォンを引っ込めようとした市原の手を、江平が掴んで笑った。

「いや、冗談ですよ。んー、わかんないですけど、髪の揺れ方が不自然じゃないですか。あと、後ろの窓の反射も変というか、ハイライトからシャドウへのトーンが機械的に見えるんですよね。それにこれ! 窓のフレームとレーンが歪んで付いてますよ。これはAIで生成した動画で間違いないんじゃないですかね」

「なるほどなぁ。ありがとう」

 市原は小さく頷きながら礼を言い、スマートフォンをズボンのポケットにねじ込んだ。

「でも、この大臣辞めるんですよね。これが偽物なら辞めないですよね」

「逆だよ。辞任のニュースに乗っかった悪質なフェイクなんじゃないか」

「でも浜松大臣って、親中派ってネットでよく叩かれてる人ですよね。案外、本物かもしれないですよ」

 江平が市原を見上げてニヤリと笑った。

「お前、RawLensにいながら、そんなのに泳がされてるのか」

 呆れた表情で肩をすくめた市原は続ける。

「仮にハニートラップにかかってるのが本当だったとして、その証拠を中国が漏らすメリットはないよ。結果、こうして辞任に追い込まれちゃったわけで。中国にしてみたらさ、こういうときこそ、懐柔した人間が外務大臣でいてくれた方が都合良いでしょ」

「確かに。先輩って頭良いですね」

「バカにすんなよ。一応、ジャーナリストの端くれなんだから」

 市原はわざとらしく腕を組んだ。

 江平が「じゃあ」と、足元のビデオカメラを手に取った。

「先輩、しっかりレポート撮りましょ!」



東京都千代田区永田町 

内閣総理大臣官邸地下・危機管理センター


 閣僚会議室正面のスクリーンには、自衛隊機が台湾軍機を誤射したとされる動画が映されていた。

「こうした動画や、それに起因する様々な誤情報や偽情報がSNS上で拡散されています。この動画はコンピューターゲームの映像を使ったフェイクであるとの確認が取れました。自衛隊機の誤射であることは、政府が直ちに否定すべきです」

 横須賀内閣官房副長官補は別の動画に画面を切り替えて、説明を続ける。

「さらには、浜松前大臣が中国のハニートラップにかかっていた証拠とする動画や画像も拡散されています。これらも警察に分析を依頼した所、生成AIや合成によるフェイクだと確認されているのですが・・・・・・ 浜松大臣の辞任が、これらのフェイクニュースを、むしろ補強する形になっています。完全に裏目に出ました」

 芝浦総理がイラついた様子を押し隠すように、組んだ両手の人差し指をトントンと叩いている。そのリズミカルな音が、会議室に響き渡る。

「で、これらの発信源はどこなんですか?」

 芝浦総理に代わって、豊島官房長官が尋ねた。

 横須賀内閣官房副長官補の視線を受けて、小牧は挙手した。眼鏡の奥は、赤く充血していた。

「発信元のアカウントと、初期段階で拡散に貢献した約二千のアカウントはいわゆる『捨てアカ』――放棄や削除をあらかじめ念頭に置いた使い捨てのアカウントでした。中国はFaceBookでは生成AIなども活用することで、あたかも実在するかのような人物のアカウントを巧妙に作り上げていますが、アカウント作成の容易なTwitterでは質より量を重視しています。今回のアカウントもそうですが、フォロワーやフォローも、他の投稿への反応も殆どありません。中国共産党は『五毛党』と呼ばれる世論誘導集団や外注した民間企業に、これらのアカウントを動かさせて、宣伝戦を展開しています。大量のアカウントを使うことで、一気に偽情報を拡散するとともに、ある世論が既に形成されていると相手国の国民に錯覚させる狙いがあると思われます。難しいのは、これらの影響工作、認知戦が『言論の自由』の保障された日本や同盟国・同志国では合法であるということです。殺害予告や脅迫といった刑事事件に該当しない限り、政府が取り締まる法的根拠がありません。アカウントを強制的に削除したとしても、またすぐにアカウントが作成され、イタチごっこです。今後、政府として取り得る対策としては、SNSの情報収集を強化し、ディスインフォメーションを発見次第、大元の投稿を特定して、内容を確認。これに対して、政府が正確な情報を発信して打ち消す。これくらいしかありません」

「それで、中国の狙いは何なんですか? 中国に融和的な浜松さんを陥れる意味が理解できない」

 芝浦総理が組んだ両手を机の上に置き、小牧に訊いた。

「実は、日本は中国の影響工作を受けにくい国なんです。国民の対中感情は世界屈指の悪さです。親中的な言論を拡散しても、中国をいくら擁護しても効果が薄い。そこで彼らは、逆に対中感情の悪さを利用することにしたんだと思います。日本政府が中国に対して融和的であるとの言論を拡散することで、国民の政府への批判を強める狙いがあると思われます」

「要するに、批判の矛先を中国から日本政府にすり替えた、と言うわけですか」

「総理の仰る通りです。そして、大変遺憾ながら・・・・・・」と小牧は声を震わせた。「SNSだけでなく、週刊誌に掲載される例の不倫画像も、生成AIによる捏造だと判明しました」

「つまり、浜松さんは無実だったということですか?」

 言葉に詰まりながら、小牧は頷いた。

 芝浦総理は倒れるように椅子にもたれかかり、天井を見上げた。

「不倫に関してはです。パーティー券の問題は事実です」

 頭を抱えた芝浦総理が、小牧の発言を遮った。

「しかし、それも中国側が意図的にリークしたということだろう? 我々は中国の認知戦にまんまと利用されたということじゃないか」

 芝浦総理が珍しく怒りを露わにして、机を叩いた。会議室が静まり返る。

「申し訳ありません」

 反射的に小牧は立ち上がって、頭を深く下げた。背中に冷たい汗が流れていくのを感じた。ワイシャツが汗で濡れた背中に張り付いて不快だった。

 会議室の一同は、気まずい様子で顔を下げたままだった。

 小牧には、もう一つ報告事項があった。ゆっくりと息を吸い込んで心を落ち着かせると、乾いた唇を動かした。

「それと週刊誌掲載予定の〈スパイリスト〉ですが、各情報機関に照会したところ、在日中国大使館が右翼団体に意図的にリークしたものであったことが判明しました」

「照会して判明したとは、どういうことですか?」

 豊島官房長官が、小牧に鋭い視線を向けた。心臓が一瞬止まったような感覚を覚えた。

 小牧はごくりと唾を飲み込んだ。乾き切った喉を、唾液が流れていく。

「小牧情報官。情報コミュニティの連携や情報共有ができていないと言うことではありませんか? この情報が早く上がっていたら、中国側の意図を見抜けていたのではないですか?」

 豊島官房長官が、一見落ち着いた口調で詰め寄った。各役所のツボを正確に把握している豊島官房長官得意の理詰めだった。

「遺憾ながら、仰る通りです」

 冷たく凍りついた会議室に、ペットボトルのキャップを開ける音が響いた。芝浦総理は冷静さを取り戻すように、ミネラルウォ―ターを流し込んだ。

「情報機関の縦割りの弊害は、私も強く感じています。総理の強い情報関心があると各機関に情報を上げさせてください。各所管大臣におかれても、徹底するよう指示してください。今後想定される事態には、省庁横断的に政府一丸となって取り組む必要があります」

 落ち着いた口調で芝浦総理は、会議室の面々を見渡した。

 豊島官房長官が、事務担当の内閣官房副長官に緊急の合同情報会議の開催を指示した。

「しかし、小牧情報官。君がやられっぱなしと言うことはないだろう?」

 ペットボトルのキャップを締めると、芝浦総理が小牧の顔をじっと見つめた。

「はい。実はちょうど、報復措置になり得るものが一件あります」

 小牧は警察時代の後輩に当たる高島警察庁警備局長が憎いほど、誇らしかった。完璧にタイミングを測ったかのように、在日中国大使館のエスピオナージの事件化を申請してきたのだった。しかも、通常では総理が首を縦に振らないような大きな事案だった。だから、わざわざ内調にまで根回ししてきたのだ。



16時 熊本県熊本市 陸上自衛隊北熊本駐屯地


 第二訓練場という名のグラウンドは、厳粛な空気と緊張感に包まれていた。16式機動戦闘車四両、96式装輪装甲車十両、軽装甲機動車三両、1tトレーラ付の高機動車三両、120mm迫撃砲RTを牽引した重迫牽引車三両、中距離多目的誘導弾と93式近距離地対空誘導弾の発射機のほか、多数の3t半トラック、1t半トラック、1/2tトラックを始めとする支援車両が整然と駐車されていた。並ぶ車両の駐車位置は数センチの誤差もなく、まるで定規で引いたかのように一直線に揃っている。

 その前方には、機動展開訓練に参加する増強普通科中隊の約三百名が、部隊毎に整列していた。鉄帽と戦闘服に留まらず、防弾チョッキ3型を着用した完全武装で、負い紐で吊るした89(ハチキュウ)式5.56mm小銃を身体の正面で保持している。一部の隊員は最新の20(ニーマル)式5.56mm小銃を装備していた。

「第42即応機動連隊増強普通科中隊、人員二百八十六名、車両五十七両、編成完結!」

 串本は朝礼台に立つ多田連隊長に報告し、敬礼した。

「連隊長訓示。指揮者のみ敬礼」

 数時間前までの猛暑が嘘のように、空には黒い雲がどんよりと立ち込め、湿気を吹き飛ばすように冷たい風が吹いていた。遠くの阿蘇の山々の方では、ゴロゴロと榴弾が炸裂したかのような低い雷鳴が響いていた。

 隊員達の顔には、不安な表情が広がっていた。理由も説明されず、ただ機動展開訓練と言われ、行き先も期間も明示されない。無理もないことだった。さらに不安を広げたのは、昼の台湾軍機の事案である。

 本当に訓練だけなのか?――

 既に台湾海峡で何か起こっているのではないかーー 

 応急出動準備を進める中隊内にも暗雲が広がり、噂で持ちきりだった。

 串本自身にも同じ疑念が渦巻いていたが、指揮官としてそれを顔に出すことはできなかった。

「以上。令和X年8月10日、第42即応機動連隊長、1等陸佐、多田一雅」

 多田連隊長に敬礼する串本の頬に、風に流されてきた雨粒が当たった。あっという間に、天が裂けたかのような豪雨となり、グランドに叩きつけた。増強普通科中隊は、びしょ濡れになりながら隊容検査を済ませた。

「各隊員は乗車区分を確認し、乗車!」

「乗車よーい! 乗車!」

 増強中隊の総員が一斉に動き出す。隊員達の半長靴が地面を踏みしめるたび、泥と水が跳ね上がり、耕されたグラウンドは瞬く間に田んぼのような水たまりに変わった。雨は一向に弱まる気配を見せず、視界は雨のカーテンで閉ざされる。車両のドアが開閉する音、エンジンの低い唸り声、隊員たちの短い掛け声が、雨音に混じって響く。

 串本は泥まみれの半長靴で、1/2tトラックの助手席に乗り込んだ。ビニールレザーのシートに座ると、冷たく濡れた迷彩服が素肌に張り付き、不快だった。

 白いライナーを被った警務隊員に誘導されて南門から公道に出ると、串本は広帯域多目的無線機の送受器を手に取った。

CP(指揮所)、こちら10(ヒトマル)1645(ヒトロクヨンゴー)SP(発進点)通過」

『こちらCP、了解』

 北熊本駐屯地を出発した増強普通科中隊は、九州縦貫自動車道の植木ICへ向かった。

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