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3.辞任

13時20分 東京都千代田区霞が関 警視庁本部庁舎


 警視庁本部庁舎の十五階は、まるで別世界だった。警視庁の職員でさえ、足を踏み入れることを許されないこのフロアは、公安の聖域である。刑事が公安を「秘密主義」「気味が悪い」と口を揃えるのも無理はない。

 エレベーターのドアが開くと、益城を冷ややかな空気が迎えた。休日であることを忘れるほど、公安部の職員が行き交っている。顔見知りと軽い挨拶や立ち話はするが、仕事内容を交わすことはない。公安に生きる者同士の不文律だった。 南北に延びる建物の法務省側に、外事二課のオフィスはある。益城は無機質な廊下を進み、〈関係者以外立入禁止〉〈用のあるものはノックして廊下で待て〉と張り紙がされた扉に手をかけた。扉を開けると、目の前に並べられたロッカーが壁のように立ちはだかる。覗き見を防ぐためだった。益城は慣れた足取りでロッカーの壁をぐるりと回り込み、オフィスへ足を踏み入れた。

 広い室内にデスクの島が配置され、余裕のある空間を蛍光灯の光が無機質に照らしている。壁際に置かれたテレビは、〈中国軍が台湾軍機を攻撃 下地島空港に緊急着陸〉とテロップを冠して、防衛大臣の記者会見が映し出されていた。益城はそれを横目に、奥のパーテーションや書類棚で仕切られただけの「課長室」へと足を向けた。ドアがないので、パーテーションを叩いて声を上げる。

「益城警部補、入ります!」

 外事二課長の沼田警視がどうぞと答えた。

 部屋に入ると沼田課長と、直属の上司である四係長の南警部の姿があった。一見、親子にも見えるくらい歳が離れている。

 二十代後半の沼田課長は、キャリアの新米警視だ。端正な顔立ちに、仕立ての良いダークネイビーのスーツを着こなしている。将来は日本警察の公安部門を背負って立つ人間だ。数十年後に内閣情報官というポストに就いていことも十分にあり得る。外事二課長は、現場のベテラン捜査官と、事実上の指揮権を握っている警察庁外事課の板挟みという気苦労の絶えない配置だ。ここでの評価が、沼田の今後のキャリアを決定付けると言っても過言ではなかった。

 向かいに座る南警部は、沼田課長とは対照的にノンキャリアの現場叩き上げだ。白髪が僅かに混じり始める年齢相応の老け具合、平均的な体格に特徴のない顔、地味なチャコールグレーのスーツ。街で会っても記憶に残らないような男だった。映画のスパイとは程遠いが、それこそが現場で求められる容姿だ。経験豊富で、実力を認められた「スパイハンター」が就くポストがまさに事件担当係の係長であり、「スパイハンター」たちの最終目標である。

 沼田課長に促されて、応接セットのソファの南係長の隣に腰掛けた。

「中国大使館員の陳の諜報活動(エスピオナージ)を事件化します」

 沼田課長がそう切り出すと、思わず笑みが漏れた。快感と興奮が全身を駆け巡った。このために、長い期間、まるで陳主演の映画を見ていると錯覚するほどの監視を続けたのだ。陳が外交官にカバーしたリーガル・スパイであるという証拠はとっくに積み上がっており、陳の日本人協力者が犯した情報漏洩や収賄の証拠も完璧に押さえていた。陳が李らを使って自ら諜報接触するのを制限し、接触に際しては厳重な防衛体制が敷かれていることからも大物であるのは明らかであった。事件化の是非は、政治的なタイミングと判断に委ねられていた。外交問題にも発展しかねない大物スパイの事件化ともなれば、警察庁出向の総理秘書官を通じて総理の了承を口頭で得る必要がある。

 外交特権に守られた陳に手錠をかけることはできないが、それでもいい。諜報活動が公になることで、陳は帰国を余儀なくされる。中国で厳重な処分を受け、窓際部署に異動させられ、日本側に寝返っていないかという疑いを一生涯かけ続けられる。陳のスパイとしてのキャリアを完全に潰せれば、それで十分だ。彼とその家族の人生が地に落ちようが、知ったことはない。友人と呼べる交友関係も趣味もなく、夫婦関係は冷え切り、一人娘の運動会や授業参観にも行ったことがない。己の全てを仕事(スパイハンティング)に捧げる益城にとって、スパイの人生を破壊することが最高の報酬であり、喜びであった。

「対日有害活動の懸念が、顕在化しました。警備局からです」

 そう続けた沼田課長から受け取った資料の表紙を捲った。そこには、陳が協力者から入手したとされる、全国に張り巡らされた警察無線の海底ケーブルと中継所の詳細な位置。陳がリストアップしたとされる政財界の要人の氏名が並ぶ〈殺害候補者名簿〉なるものがあった。

 益城の眉が僅かに動いた。

 事件化を決定付けたのは、自分達が集めた情報ではないのかーー

 休日と睡眠時間を返上して続けた視察作業を否定された気がした。いや、それでも陳を葬れるのなら構わない。

「一枚目は警察内部からの流出じゃないですか?」

 同じ資料を手にする南係長が、抑揚のない声で言った。

「現在、出所を調査中ですが、陳が持っていたのは事実です」

「課長。二枚目のこのリストも、二課のどの班も掴んでいないはずです。情報源はどこですか? これを証拠に事件化するのなら、それだけの確度があるんですよね」

 益城の鋭い眼光から目を逸らした沼田課長が口を開く。

「来週には、中国のスパイに関する記事を掲載した週刊誌が発売されることが明らかになりました。加えて、ご存知の通り、中国の軍事演習についても、台湾軍機が攻撃されるなど、エスカレーションが懸念されます。良くも悪くも世論の関心が高まり、政治的なオプションとしても永田町がゴーサインが出やすいこのタイミングで、との警察庁(サッチョウ)の判断です」

 沼田課長の答えにならない返事が、答えであると言って良かった。

「天の声ですね」

「勘弁してください」

 歳も経験も上の部下に対する微妙な言葉遣いで、沼田課長が言った。

「おい、益城。事件化できるんだ、まずはそれで良いだろ」

 南係長が益城を窘める。

 外事では、警察庁警備局から突如としてもたらされる情報を「天の声」と呼んでいた。その確度は極めて高く、多くの捜査官達はある西側情報機関が出所であると確信していたが、それを口に出すことは憚られていた。



13時30分 東京都千代田区永田町 内閣総理大臣官邸・危機管理センター


 危機管理センター内の中二階に設けられた小部屋へと、浜松は芝浦総理に呼び出された。ノックして扉を開けると、そこには芝浦総理一人だけが座っていた。オペレーションルームとは対照的に、まるで時が止まったかのように静かだった。国家安全保障会議の前に何だろうか疑問に思いながら、促されるまま椅子に腰を下ろした。

 芝浦総理は神妙な面持ちで浜松をじっと見据えると、事実関係を確認したいと茶封筒を差し出した。浜松は何も言わずに受け取って封を開けた。中にはA4の用紙があった。浜松は心で何かがざわめくのを感じながら、用紙を取り出す。

印字された文字を見て驚愕した。

「えっ、これは、どういう・・・・・・」

 思わず漏れ出た言葉は、喉の奥で微かに震えていた。

「来週発売される週刊誌のゲラです。印刷は終わってるでしょうから、今更どうこうできるわけではないのですが、事実関係を確認したいのです」

 芝浦総理の妙に落ち着いた声が、浜松の頭の中で反響した。

 政府が圧力をかけて出版を差し止めるなど、フィクションでしかない。そんな権限も力も政府にない。明確な誤報でもないかぎり、このまま週刊誌は発売され、浜松は社会的制裁を食うことになる。

 浜松は「全く心当たりがありません。本当に」と答えたが、動揺が波のように広がっていくのを抑えられなかった。頭では冷静に「動揺が総理の目に怪しく写っているかもしれない」と分析できたものの、その意思に反して心臓は激しく脈打っていた。

「浜松さん、写真も撮られてるんです」

「でも、これは私じゃない。その女性も知らなければ、このホテル街にも行っていません。本当なんです」

 必死に訴える声には震えが混じり、どれだけ否定しても虚しく室内に響くだけだった。

 全く心当たりがないのに、紛れもなく自分自身が映っている写真も、混乱に拍車をかけた。

「記者の前で言い逃れするならまだしも、私にも嘘をつきますか」

 芝浦総理の冷たい視線が、まるで鋭利な刃物のように突き刺さった。頭から血の気が引くような感覚に襲われ、思わず目を逸らした。その先で視界を覆う週刊誌の文字がボヤけていく。

「嘘ではありません。信じてください。誰かが、私を陥れようとしているに違いありません」

 自分自身にも響かないほど頼りない声だった。

「信じろと仰るなら、この決定的な写真を覆せるだけの証拠なりを示してください。記者に対しても同じ対応をするのなら、悪手ですよ」

 芝浦総理の言うことは正しい。メディア対応を考えても、素直に認めた方が追求も少なく、結果的に傷は浅く済む。悪あがきをすればするほど、深い泥沼に沈んでいくのは目に見えていた。しかし、本当に心当たりがないのだ。胸の内で「なぜこんな目に」と叫びたい衝動が沸き起こった。不倫をしていないという悪魔の証明をする術もない。それどころか、決定的と言うべき写真がある。冷たい手に心を握りつぶされる感覚に苛まれた。

「どうなんですか?」

 芝浦総理が詰め寄った。

 浜松はしばらくの間、静まった室内で自分の呼吸音だけが耳に響くのを感じていた。外界から切り離された密閉空間で、窓もない部屋の壁が自分を潰すように迫ってくる気がした。芝浦総理の視線は、依然として冷たくて鋭い。頭の中で必死に状況を整理しようとするが、霧に包まれたようにまとまらず、焦燥感だけが広がっていった。

「私は、私はどうすれば・・・・・・」

 答えでも何でもない、純粋な今の気持ちが口から出た。

「政治家の責任の取り方は、自らの進退。それだけです」

「しかし、やってもいないことで」

 芝浦総理が遮る。

「記事はもう一つあります」

 芝浦総理の言葉に、浜松は反射的にゲラを捲った。虚偽の不倫疑惑で頭が混乱し、ページを捲る手は微かに震えていた。見出しと写真に気を取られて、今まで中身をよく確認していなかったことに、今さら気がつく。

 目に留まったのは、自らの切り抜き写真と並ぶ〈浜松外相のパーティー券 中国企業が”爆買い”疑惑〉というタイトル。不気味なほどの静寂の中、記事に目を通す。

〈日中親善議連の事務局長を六年、幹事長を十年以上務め〉

〈政界きっての親中派として知られる保自党幹事長の新座氏の率いる新時代を創る政策研究会(新政会・新座派)の事務局長として〉

〈浜松氏が毎年四回(都内二回・地元二回)は欠かさず開催する政治資金パーティーで〉

〈総務省や県の選挙管理委員会に届け出た昨年分の政治資金収支報告書によると、資金管理団体のパーティー収入は七千二百万に〉

〈政治資金規制法が「特定パーティー」と定める一千万円を超える収入があったパーティーは、東京都内のホテルで開催された二回で、その収入は〉

〈政治資金規制法は出金車一人あたり最大百五十万円とし、二十万円を超える出金者の氏名を公表することを定め〉

〈この中国系企業Kを経営する在日中国人Aは、日中親善協会の幹部として政財界・文化界に広い人脈を〉

〈浜松氏が県連会長を務める県内S市には、二年前にA氏が出資するメガソーラーが〉

〈A氏の指示のもと中国系企業Kは、一枚二万円のパーティー券を毎回限度額近い百五十万円を購入し〉

〈政治資金規正法は外国人や外国法人の寄付を禁じているが、政治資金パーティーについては規制していない〉

〈有力な地元支援者の一人は、多くの支援者が中国びいきと認識しているとした上で「地元にこれだけの予算を持って来れる国会議員は他にいない」と語った〉

〈中国人労働者を頼りに積極採用する地元企業も〉

〈次々と独立する在日中国人は、在日中国人や本国から来る中国人を対象としたビジネスモデルを展開しており、日本にいながら中国人だけで回る経済圏が完成しつつ〉

 記事は、意図的な脚色と憶測が混じっているが、事実を羅列しているに過ぎない。しかし、これが自身の政治生命の傷となりかねないことは理解していた。後ろめたさがあるから、中国企業の名前が表に出ないように二十万円ごとに分けて購入してもらっていたのだ。それなのに何故、この記事が書けたのだろうか。事務所の秘書か、中国企業か、どちらかのリークしか考えられない。喉元を締め付けられるような思いがした。

「浜松さん、この記事は間違いないですか?」

 芝浦総理の声が静かに響き、浜松を現実に引き戻した。

芝浦総理の視線は冷たく、心の底まで見透かされているようか気がした。深呼吸して、頭を整理する。

「確かに、こちらの記事には間違いありません。記事の大部分は私の経歴を淡々と記してあるだけで、大した中身はありません。パーティー券については、記事の通り議連でお付き合いのある中国企業に購入頂きました。ですが、それでその会社に何か便宜を図ったりはしていません。何より、これは不適切だとしても違法性はないはずです」

 不倫を全面否定したのと対照的に、パーティー券問題は素直に認めたことで、芝浦総理は目を丸くしていた。

「不適切だと仰るのなら、総理が毎月開催してるパーティーも不適切です。パーティー券を買っている大手企業のほとんどが国との取引があります。買う側もそれを期待しているのではないですか?」

 開き直ることで誤魔化した浜松だったが、頭の中はリーク元のことで頭が一杯だった。それすらも芝浦総理に読まれているような気がした。

「浜松さん、まだあるんです」

 浜松が必死に反論する様子をみっともないと嘲笑うかのように、芝浦総理が告げた。

 そして、芝浦総理からもう一つの記事と渡されたのは『中国の内部資料流出!? これが日本の「スパイリスト」か』とタイトルがつけられたものだった。ゴシック体のタイトルと共に、目元が黒く塗りつぶされた自分や新座幹事長、高級官僚の写真が並んでいた。

 浜松は記事を持つ両手の拳を握りしめ、肩を振るわせた。額には太い血管が浮かんで、脈打っていた。目は大きく見開かれ、芝浦総理を鋭く睨みつけた。

「こんなの出鱈目です! 私は中国政府に情報を渡したりなどしてませんよ!」

 顔に熱が籠り、紅潮しているのが自分でもわかった。怒りで声がひび割れていた。

 自信気に辞任を迫る根拠が週刊誌のゴシップ記事ということに、腑が煮え繰り返った。

「浜松大臣、どうされますか?」

 冷静にそう尋ねる芝浦総理は、これまでの優柔不断な総理ではなかった。

「どうされますかも何も、こんなこと、内調にでも調べさればわかるでしょう! 低俗なデマだ! 現職大臣なら訴えないと鷹を括って!」

「事実かどうかは関係ありません。あなたが親中派でも、中国当局と内通していないことぐらい、仰る通り内調の身体検査でわかっています。ですが、そう疑われかねないパーティー券の問題があります。李下に冠を正さず、です。何より、これだけの記事が出れば、内閣へのダメージは避けられません。しかも総選挙を前に、多くの若手議員に苦労を強いるのですか?」

 浜松自身が決断しなくとも、芝浦は総理大臣として国務大臣を罷免させることができる。手段が違うだけで、結果は既に決まっていた。



同・三階 番小屋


 総理番の仕事は、過酷そのものだ。三百六十五日、二十四時間、総理の動きを追い続け、その一挙手一投足を記録に残す。些細な表情や歩き方の変化が、時に内閣総辞職というスクープに繋がることもあるのだ。

 早朝、まだ薄暗い空の下で総理の自宅や公邸前で待機する。総理が姿を現せば、その後を追いかけるように官邸へ向かう。外出となれば、記者達はまるで影のように付きまとい、総理が自宅や公邸に帰宅するのを確認するまで気が抜けない。国会では、総理がエレベーターに乗り込むや否や階段を全力疾走して先回りする。総理が官邸にいる間は、エントランスでじっと待機し、内閣広報室が配布する総理の予定表を手に、訪れる来客と照らし合わせる。予定表に記載のない人物が現れれば、行き先や要件を尋ね、身分を確認する。退庁する際には、面会者を囲んで取材し、何か動きがないか探る。時には、真夏の炎天下で汗にまみれ、真冬の凍える寒空の下で震えながら、ただひたすら待つだけで終わる時もある。

 働き方改革の掛け声のもと、勤務時間は一応22時までと短縮されたが、それは名ばかりだ。総理が夜遅くまで忙しく動き回っている以上、例外が常態化する。体力が試されるこの仕事は、政治部に配属されたばかりの若手記者の「試練」とされている。

 その日、エントランス脇にある番記者達の控え室――通称「番小屋」は、いつも以上に慌しかった。簡素な机と椅子が雑然と並び、物は少ない。壁際のハンガーラックには、はみ出すようにして無数のジャケットがかけられている。隅のテレビはNHKと総理執務室前のカメラの映像を映している。「番記者は座らない」という暗黙のルールに従って、誰も椅子に座ろうとはせず、壁や机に寄りかかりながら、片手にスマートフォンを持ちながら、NHKのニュース画面に釘付けになっている。画面には、次々と速報テロップが流れ、緊迫した空気が部屋を支配していた。

〈中国軍機が台湾軍機を攻撃か 台湾軍機は下地島空港に緊急着陸〉

〈芝浦首相官邸入り 官邸対策室を設置 政府〉

〈台湾軍機は下地島空港への整備部隊を乗せた輸送機か 台湾メディア〉

〈中国軍の戦闘機が台湾軍機を攻撃 台湾当局発表〉

〈自衛隊機が緊急発進中 中国軍機が台湾軍機に機関砲を射撃 自衛隊に被害なし 台湾軍機は左エンジン損傷するも死者なし 桜木防衛相が発表〉

〈国家安全保障会議を招集 芝浦首相が指示 政府高官〉

テロップが更新されるたび、番小屋の中では記者のスマートフォンが一斉に鳴り響き、問い合わせや指示が飛び交う。慌ただしく出入りする記者達の足音が響く。誰もが一刻も早く情報を流すため、緊張感と焦燥感が入り混じった表情を浮かべていた。

「はっ⁉︎ 辞めるって⁉︎」

NHKの番記者がスマートフォンに叫んだ瞬間、画面に新たなテロップが現れた。

〈浜松外相が辞任の意向 健康上の理由 政府筋〉

 予想外のテロップに室内が一瞬、静まり返った。誰もが予想しないタイミングでの速報だった。だが次の瞬間には、部屋は騒然とした声で埋め尽くされた。

「何だってこんなタイミングで」

「浜松大臣じゃ、中国と対峙できないって判断か」

「こんな非常時に代えるなんて・・・・・・ まさか戦争になるってことなんじゃ」

「いや、速報が前後しただけだろ」

「総裁選前に失点を恐れて浜松大臣が逃げたんだよ、きっと」

 緊急事態の真っ只中での辞任は、番記者達の憶測を掻き立てた。

「Twitterが凄いことになってるぞ」

 番記者の一人がそう言ってスマートフォンの画面を見せた。



同・危機管理センター


 国家安全保障局長の岐阜は、番記者達の質問に答えることなく、地下直通のエレベーターに乗り込んだ。カゴは低く唸りながら、地下深くへと潜っていく。金属のドアに映る疲労と緊張で強張った顔を見て、岐阜は自分の顔を両手で二度叩いた。

 危機管理センターの閣僚会議室の空気は重く、静寂に満ちていた。緊張感を和らげるかのように照明は暖色だが、その効果も虚しく顔に暗い影を落としていた。部屋の大部分を占める縦長のテーブルの頂点には芝浦総理が腰を据え、指でテーブルを叩いていた。隠しきれていない芝浦総理の焦燥が全員に伝染していた。その右手には豊島官房長官、その向かいに辞任した浜松外務大臣の後任を兼ねる千両副総理がじっと座っていた。総理経験者である千両ならば、各国首脳にも顔が効き、外交手腕も申し分ないと判断されたのだろう。暫定措置としては妥当だった。このタイミングで浜松外務大臣に辞任を迫ったのには、国家機密を共有する人間を減らしたいという思惑もあったのだろう。豊島官房長官の隣に座る桜木防衛大臣に、豊平統合幕僚長が小声で何かを説明している。岐阜はその向かい側の椅子を音を立てないようにそっと引いて座った。革張りの椅子が僅かに軋んだ音が、異様に大きく聞こえた。

 白山官房副長官が豊島官房長官にそっと耳打ちして、四大臣会合は開会した。

「冒頭、総理からお願いします」

 進行役の豊島官房長官が、固く結んでいた口を開いた。議事録が残らないので、閣議や関係閣僚会議に比べて堅苦しさはないが、議題はいつになく重い。

 芝浦総理が頷き、咳払いをした。

「まず休日に、こうして素早く参集してくれたことに御礼申し上げます。日頃からの危機管理意識の賜物かと存じます。議事に入る前に、私から皆さんにお伝えせねばならないことがあります」

 芝浦総理は室内に集まった三人の閣僚、岐阜、小牧内閣情報官、中津内閣総理大臣補佐官(国家安全保障担当)、白山官房副長官、横須賀官房副長官補、豊平統合幕僚長をゆっくりと見渡した。芝浦総理の抑揚を抑えた低い声が、事態の深刻さを伝えていた。全員の眉間には深い皺が刻まれている。

「昨日の電話会談で、ベネット大統領より台湾有事が二ヶ月後に生起する可能性があると警告がありました。正直なところ、本当なのか疑っていましたが、自衛隊も軍事的兆候を掴んでいること、そしてこの中国軍の危険な行動を見て、中国ならやりかねないと強く感じました。このNSCは、表向きは中国軍の台湾軍機攻撃事案と公表しますが、それに限らず台湾有事を念頭にした議論を進めたいと思います」

 これまで、北朝鮮の弾道ミサイル発射、中国やロシアの日本周辺での軍事演習、新型コロナウイルス感染症の蔓延、邦人退避、安保三文書の策定、防衛装備の移転等に際して、幾度となく国家安全保障会議は開かれてきた。緊張感に満ちた議論が多かったが、初めて「戦争」という言葉が現実味を帯びた。

 岐阜はすっと背筋を伸ばして、深く息を吸った。血の引いた喉を通る乾いた空気が苦しかった。

「それでは、まず全般の状況について国家安全保障局よりご説明願います」

 豊島官房長官に指名され、岐阜は「着座にて失礼します」と断って、声を整えた。

「まず今般の軍事演習については、台湾本島を取り囲むように演習区域が設定され、事実上海空域が封鎖されております。NSAからのCOLLINT(コリント)によれば、この封鎖による経済的・軍事的恫喝で台湾の譲歩を二ヶ月以内に引き出せなければ、直接的な武力行使に踏み切るとのことです。この封鎖海域を我が国に入る石油の九十二パーセント、LNGの三十五パーセントが通っているため、エネルギー価格の高騰が懸念されます。特に原油は既に市場心理で価格の高騰が始まっており、今週のガソリン価格は全国平均で百八十六円。先物市場では、一バレル百十ドルになっています。今後は、迂回コストを通るために輸送コストが最大二十パーセント増加すると見られ、再来週には二百円を超えるとの試算もあります。長期化と更なるエスカレーションでは台湾周辺が非保険となる可能性もあり、そうなれば、円安とのダブルパンチでオイルショックを超える高騰が見込まれます。更には世界シェアの半分以上になる台湾の半導体産業が世界経済や産業に及ぼす影響も計り知れません。台湾では石油備蓄放出を発表して価格抑制を図っていますが、ガソリンはリッターで五台湾ドル上昇し、株価指数は赤字に転落。中国はこうした経済的圧力も武器にして、我が国に台湾有事へ介入しないよう、日本国民の厭戦機運を醸成する狙いがあると思われます。台湾軍機を攻撃したのも『中国の国内問題である台湾有事に介入すれば日本が戦争に巻き込まれる』という世論戦のナラティブを補強する意図があったのかもしれません」

 全員が緊張感と悲壮感を併せ持った表情で、岐阜の説明を聴いていた。岐阜は自分の言葉を噛み締めるように、続ける。

「しかし、こうした経済的ダメージが中国にも加わるのは紛れもない事実です。実は中国自身が世界最大の原油輸入国で、半導体は約四割を台湾から輸入しているため、GDPの約半分を支える製造業と輸出業は大きな影響を受けます。さらに各国からの制裁も加わるので、株価は三十パーセント、GDPは十六パーセント以上、額にして三兆ドルを超える減少が予測されます。従って、中国が全面侵攻に踏み切るには相当な覚悟が必要であり、影響を抑えるために出来る限り早く決着を付ける『短期激烈戦争』を指向すると思われます。中国が開戦に踏み切るかを横に置いたとしても、在台湾邦人約二万人と先島諸島の住民約十二万人、最悪は沖縄本島の百三十万人の避難を準備しなければなりません。いざ戦争になってから一朝一夕で出来るものではありませんから、早急に計画を詰める必要があります。それと併行して、陸上自衛隊の事前配置、米国や同志国と連携した航行の自由作戦や演習によってプレゼンスを示して、戦略的コミュニケーションを図るべきと考えます」

 岐阜の報告が終わると、桜木防衛大臣が台湾軍機が攻撃を受けた状況を報告し、豊平統幕長が特定秘密及びMSA保護法の機密事項と断った上で人民解放軍が台湾への侵攻を企図しているとのエビデンスとなるSIGINT(シギント)IMINT(イミント)を提示した。最後に奄美大島・宮古島・石垣島・与那国島への即応機動連隊の前進配備計画について説明する豊平統幕長の声は、覚悟を決めたように聞こえた。

 頷きながら聴いていた芝浦総理が、豊島官房長官を遮って尋ねる。

「統幕長に伺いたいのですが、中国軍が台湾軍機を攻撃した意図についてどう思われますか? 軍人(・・)としての意見を率直に教えて下さい」

「そうですね。今般の事案は海南島事件に類似していると思います」

 2001年、中国のEEZ上空を飛行していた米海軍のEP-3E電子偵察機に、中国人民解放軍海軍航空隊のJ-8Ⅱ戦闘機が異常接近し、衝突した事件である。EP-3Eは海南島に不時着し、乗員は人民解放軍に拘束された。

「我々が現場で肌で感じることでもあるのですが、中国軍は現場の独断的な危険行動が度々見られます。冷戦中の東側と西側の情報収集競争は、国家レベルでは領空や領海を犯さない限りは法的に問題にせず、現場レベルでは互いに偶発的な衝突を回避するような軍人同士の暗黙の了解といいますか、紳士協定のようなものがありましたが、中国軍にはそれがありません。自衛隊機に対しても異常接近等の独断的な危険行為が相次いでいます。今回の事態は、それがエスカレートした結果と思われます」

「なるほど。ありがとうございます。こうした行為が偶発的な衝突、延いては全面戦争に繋がりかねませんね」

「仰る通りです。このパイロットが中国国内で愛国的英雄と持ち上げられれば、同様の事態が再発しかねません」

「であるならば、中国軍に対しては直接的な非難を向け、中国政府に対しては軍の統制を促すように働きかけることで、逃げ道を与える方が良いですね。中国政府も、軍が統制を逸脱して勝手に動くのは都合が悪いはずです」

 岐阜が言うと、千両副総理兼外務大臣が手を挙げた。

「中国は何より面子を重んじる国ですから、確かに岐阜局長の仰るやり方が望ましい。外務事務次官から中国大使に厳重抗議する予定ですが、その点を強調させます」

 千両副総理兼外務大臣の発言に、芝浦総理も同意した。

その流れで、千両副総理兼外務大臣からは在中国日本大使が中国外交部から台湾軍整備部隊の受け入れについて再度強い抗議を受けていたことが報告された。邦人退避について台湾当局と水面下での調整を始めたいとの申し出があったが、政府内での避難計画策定を最優先にすると保留された。

「最後に小牧内閣情報官、お願いします」

「内閣情報調査室からは、直近の中国の政治情勢の分析についてご報告します。中国軍の人事に特異的な動向が確認されました。まず、台湾侵攻に際して主力を担う東部戦区の司令官が、今般の大規模演習中にも関わらず、交代したことがOSINT(オシント)で判明しました。交代理由については公表されておりませんが、事実上の更迭と見られます。今年に入ってから、制服組トップの中央軍事委員会副主席を始めとする軍首脳陣が相次いで失脚しており、その後任の多くが政治委員出身者で、若手の抜擢が目立ちます」

 内閣情報調査室の行う自前の情報収集は、OSINTが中心である。各国の情報機関が首脳陣に齎すインテリジェンスの七割から八割はOSINTベースとも言われ、政府のプレスリリース、新聞やテレビ等の報道、書籍、機関紙、SNSといった公開情報の分析は一見地味だが、極めて重要であった。

「我々はこの人事について、孫主席の強い意向と分析しています。中国軍は表向きは威勢の良いことを言っていますが、台湾本島への武力による全面侵攻は極めてリスクが高いとして、日米が介入しづらく、エスカレーションラダーの一段低い台湾本島の封鎖、いわば『兵領攻め』を主張していました。それに対して、孫主席は『台湾統一』に異常なまでの執着を見せ、これまで幾度となく武力侵攻による『台湾統一』を主張しています。この食い違いが原因の人事、要するに粛清と思われます。後任に政治委員出身者や若手が多いのも、孫主席の意向を徹底して、統制を強めるためでしょう。つまり、これらの人事は台湾侵攻作戦を発動するための最後のピースであったと考えられます。先ほど統幕長より、現場の逸脱した行動という見解がありましたが、私としては開戦に後ろ向きな軍を戦争に引き摺り込むために、政治工作部のラインを使って、意図的に現場にエスカレーションを起こさせていると思います。これはむしろコントロールされた危険行為なのではないでしょうか」

 小牧内閣情報官の見立ては従来のものと異なっていたが、説得力があった。本来、戦争に最も慎重なのは実際に血を流す軍人なのである。粛清されたベテラン達は、そうした懸念を伝えたのだろうが、新たに就任した軍高官達の多くは孫主席体制下で育った若手であり、孫指導部に意を唱えるとは考えにくい。中国のような専制主義的な体制では、現場が萎縮して、指導部に耳障りの良い報告しか上げなくなる傾向がある。そして、指導部もそうしたイエスマンで周囲を固め、現実と認識の隔たりは広がっていくのだ。

「小牧情報官の言う通り、軍首脳陣が孫主席の意向に忠実に従う者で固められたのであれば、孫指導部は自国が負うダメージを正しく認識できていない可能性が高いです。我々からは非合理的に見える選択肢でも、孫主席の目にはそう映っていないかもしれません。やはり、強力なプレゼンスを示して、耐えがたい傷を負うことを理解させなければなりません」

 岐阜は強く進言すると、芝浦総理は「わかりました」と同意した。

「小牧情報官、政治委員や政治工作部とやらについてご教示願いたい」

 豊島官房長官が尋ねた。

「中国軍の正式名称は中国人民解放軍で、国共内戦時の中国工農紅軍、要するに共産党軍が前身です。そして、人民解放軍は今日に至るも『中華人民共和国の軍隊』ではなく、『中国共産党の軍隊』という位置付けを貫いています。その体制を支える仕組みが、政治委員です。部隊には作戦を指揮する司令員と、イデオロギー教育や規律の維持を図る政治委員という二人の指導者がいて、最高指導組織は部隊に設置される党委員会や党支部です。党の意向に逸脱していないか、監視をし、軍に対する党優位を担保するのです。つまり、孫主席の思想と政策を軍に徹底させる役目を担った忠誠な指導者が、政治委員です。西側の軍隊とは成り立ちも、組織もまるで違います」

 眉間に皺を寄せながらも、芝浦総理と豊島官房長官は首を縦に振っていた。

 その時、静まり返った室内にドアをノックする音が響いた。一同の視線がドアに集まった。

「会議中に失礼します」

 そう断った内閣官房のスタッフが、早足で会議室に入った。横須賀官房副長官補の元へと急いで向かい、耳元で囁く。横須賀官房副長官補のはっとした表情に、注目が集まった。

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