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2.スキャンダル

12時30分 東京都千代田町永田町 内閣総理大臣官邸


 小牧は内閣府庁舎の地下通路を使って官邸に入った。容赦ない日差しを避けるためではなく、一階と三階の番記者の目から逃れるためである。エレベーターで五階に上がると、スーツの襟を整えた。内閣総理大臣執務室前の廊下の天井に設置された番記者のカメラを避けるため、秘書官室を経由してドアをノックした。今日は腕を通す予定のなかったスーツが、いつも以上に窮屈に感じられた。

 中に入ると芝浦総理は執務机で、総裁選を意識したであろう党員向けの政治活動用チラシに直筆でサインを綴っていた。挨拶文下の余白に、達筆な〈芝浦善一〉の文字が整然と並んでいた。

「まだ五百枚しか書けてない」と呑気な笑みを浮かべた芝浦総理の元に、小牧は大股で歩み寄る。小脇に抱えたブリーフケースから週刊誌のゲラ刷りを無言で取り出して、執務机の上にそっと置いた。空気が一変した。異変を察したのか、芝浦総理は万年筆を放るようにしてゲラを手に取った。過激な見出しに目を走らせ、本文中の小見出しを追い、掲載された画像に目を落とした。二枚目、三枚目と紙芝居の要領でゲラを捲る。

「いずれも週明けに発売されます。予告として、今夜、概要がネット記事として出ます」

 見終えたタイミングで、静かに告げた。

 ゲラは全て内閣のスキャンダルに繋がる記事だった。三つの記事は異なる内容だが、いずれも芝浦内閣の喉元へ突きつけられていた。一つ目は浜松外務大臣の不倫を暴く記事で、写真付き。もう一誌も浜松外務大臣を標的にしたものだが、内容は中国企業が彼のパーティー券を多額に購入しているという疑惑。三つ目は、新座幹事長が中国の日本人スパイ名簿に記載されているとする記事だった。

「このタイミングで、しかも三誌も同時に」

 あまり感情を出さない芝浦総理が、イラついた様子でゲラを机に叩きつけた。ゲラが乾いた音を立てて、机の上に散らばった。

 週刊誌がネタを温めておき、効果の高いタイミングで報じるのは珍しくない。総裁選の候補者達が出馬表明をするこの時期を狙うのは当然の帰結とも言えた。

 小牧はその様子を見ながら、冷静な口調で告げる。

「総理、まずは内容の事実確認からです」

 我に帰った芝浦総理が、何度も首を縦に振った。その仕草には、疲れと諦念が滲み出ていた。

「浜松大臣の不倫、これは写真付きですから言い逃れできないでしょう」

 小牧は机の上に散らばった五枚のゲラの中から、写真が掲載されている一枚を手に取った。そこには、浜松外務大臣が三十代中頃に見える女性と腕を組んでラブホテルに入っていく一部始終が、四枚続けて撮られていた。ホテル前の通りを定位置にして連写したらしく、一枚目は通りを歩く姿を顔が見える真正面から写しており、四枚目はホテルの自動扉の奥に二人がいる姿だった。鮮明なモノクロ画像が、まるで冷笑しているかのように感じられた。

「ですが、あくまでこれは本人の倫理観の問題です。もちろん任命責任を問う声は上がるでしょうが、本人が謝罪して大臣の職を辞すか、先に総理が大臣の首を切るかです。これは個人的意見ですが、後者の方が賢明なご判断かと存じます」

 小牧は机の上に積まれたチラシに視線を送った。

「問題はパーティーの方です。規制がないとはいっても、寄りにもよって現職の外務大臣のパーティー券を、中国企業が長年に渡って多額に購入していたのが事実であれば、安全保障の問題でもあります。形骸化してるとはいえ、大臣規範にも添わないものです。身体検査の不備として、これは任命責任を問われます」

 政治資金規正法は外国人や外国法人の政治献金を禁じているが、政治資金パーティー券を外国人が購入することには規制がなかった。警備公安畑の小牧の頭には、ロシアや北朝鮮、中国が国会議員に金銭を送っていたいくつかの事例が蘇っていた。

「しかし、なぜわかったんだろうか」

 芝浦総理が独り言のように呟いた。落ち着きを取り戻したのか、いつもの穏やかで丁寧な口調だった。

 小牧は首を傾げる。

「どういう意味でしょうか?」

「パー券の購入者を収支報告書に記載するのは、二十万円を超えた場合なんです。記事の通り、毎回限度額の百五十万円近くを、この中国系企業Kが買っていたのなら、収支報告書に記載があるはずで、それを身体検査で見逃すとは考えずらい。記載漏れなら、週刊誌はそれも併せて「裏金」と問題にするはず・・・・・・」

「なら、複数の社員なりが、あくまでも個人的に二十万円ずつ買うという体裁を取っていたのではないでしょうか? それなら、収支報告書に記載する必要はな・・・・・・あっ」

 小牧は途中で言葉を止めた。

 収支報告書に記載がないパーティー券購入は、売り手と買い手しか知り得ない事実だーー

「そうなんです。つまり、浜松事務所か購入した中国企業のどちらかのリークしかあり得ないんです」

 芝浦総理は静かに結論づけた。

「だとしたら動機は・・・・・・ リークが事務所サイドなら秘書の恨み。中国企業サイドならパーティー券購入の見返りがなかったことへ報復、と言ったところでしょうか」

「私も思いつくのは、そんなところですね。この件は、私から直接、浜松大臣に確認します」

 芝浦総理の言葉には冷徹な決意が感じられた。

 政敵の新座幹事長の動きを封じるために閣内に置いていただけの浜松外務大臣を、無理に庇う義理もないのだろう。むしろ、浜松外務大臣にだけダメージを与えられるのなら、総理にとっては都合の良い展開さえ見込める。その上、スキャンダルの矛先は新座幹事長自身にも向けられている。

 机の上のチラシが、エアコンの冷風にそっと煽られて、微かな音を立てた。

「お願いします。新座幹事長のスパイ名簿の件は、警察庁(サッチョウ)と公調に照会中です。悪質なデマのようにも思えますが」

 警察庁警備局と公安調査庁へ公式なラインを使って照会したが、そのような名簿の存在は確認されていないと即答された。その迅速な返答は、いつもの通り形式的なものだった。

立て付けは内閣情報調査室が各省庁の情報機関の取りまとめ役とされているが、省庁の縦割りが色濃く残っており、インテリジェンス・コミュニティとして有効に機能しているとは言い難かった。情報機関同士の連携は表面上のものに留まり、各組織は自らを守るように情報を抱え込み、重要インテリジェンスの報告は総理への直接ルートが使われることが殆どだった。内閣情報調査室に在籍する二百名近い職員の半分は、公安警察や公安調査庁を中心に防衛省、外務省、経済産業省、海上保安庁からの出向者であり、元の組織への強い忠誠心と帰属意識を捨てきれていない。中には、内閣情報調査室への出向を左遷コースと揶揄する声すらあった。

 照会中としたのは、小牧が警察庁に入庁してから三十年以上、警備公安畑で築いてきた広く深い人脈を使って確認をしている最中だったからだ。自らに忠誠を示するよう育て上げた後輩や部下を手足目耳として使い、同期や同僚、他の組織の人間とは情報の貸し借りをしていた。そんな地道な人間臭い作業がインテリジェンスの真髄でもあった。

「SNSで親中派と目の敵にされてますし」

 小牧がそう付け加えると、芝浦総理は微笑んだ。その表情にはどこか余裕さえ見えた。

 真意を測りかねたが、今日の芝浦総理はどこか吹っ切れているようにも思えた。いつもなら文末に必ずと言っていいほど付く口癖の「と思います」も、今日は一度も口にしていない。確かに政治家は選挙が近くなると元気になる生き物だがーー

「幹事長も大変だ」

 芝浦総理は、背もたれにゆったりと体を沈めた。

 日中親善議員連盟の会長を長年務め、現在も顧問の立場で影響力を持つ新座幹事長が、配下の国会議員と財界の要人を引き連れて訪中するのは、はもはや年中行事だった。通称「新座訪中団」と呼ばれるその一行は、北京の首都国際空港に着くなり大勢の歓迎を受ける。一同を乗せた紅旗(ホンチー)の高級車は、封鎖されて全ての信号が青に切り替わった道路を疾走して、人民大会堂に向かう。中国共産党や国務院の幹部との会談では経済協力の約束が交わされ、夜には豪華絢爛な歓迎行事が開催される。酒が流れ、美食が並び、時にはより親密な”接待”が用意されることもあった。孫国家主席が会談や面会に応じることも珍しくなく、その度に新座は誇らしげな笑みを浮かべていた。その訪中が、誤ったメッセージとも取られかねないタイミングのために政府の顰蹙を買ってきたことや、米国の情報機関が浜松の外務大臣就任に密かに懸念を示していたのも事実だ。そして、SNS上では、過激な攻撃を受けていた。媚中派とのレッテル張りはマシな方で、新座が中国国籍を持っているとする偽の証明書や帰化申請書類といった悪質なデマが投稿、拡散されたこともあった。

「デマだとしても、週刊誌の書き方は上手ですね。名簿が本物と断定はせずに、匂わせるだけ匂わせて。売り上げが裁判費用と賠償金を上回れば問題なし。むしろ炎上して話題になる方が売り上げが伸びるとすら思っていますよ」

 芝浦総理の口振は、どこか他人事だった。

 デマだとしてもーー

 芝浦総理の言葉が耳に残る中、小牧の頭で点と点が急速に繋がり始めた。パズルのピースが嵌るような快感が広がる。

「待ってください。仮にこの名簿が本物だとしたら、出所は中国側しかあり得ません。浜松大臣のパーティー券問題と同じです。これらが同時に週刊誌にリークされたことからして、裏があるのではないでしょうか。偶然にしては、出来すぎています」

「だとしても、中国側が自らに都合の良い二人を売るメリットがあるとは」

「念のため、失礼を承知で伺いますが、これらは総理の感知するものではないですよね?」

 芝浦総理は一拍置いて、くすりと笑った。

「私にこんな大胆不敵なことができたら、もっと早くに総理になってましたよ」

 芝浦総理のその言葉に嘘はないと、小牧は思った。芝浦が派閥の力学と年功序列、タイミングに恵まれて総理になれた側面は否定できなかった。調整型の政治家として知られる芝浦総理が、政敵を蹴落とすために週刊誌にリークするような荒々しい手法を採るは思えなかった。だから、小牧は「念のため」と前置きしたが、その読みが間違いないことを表情と口調からも確信することができた。

 小牧が「失礼しました」と詫びると、芝浦総理はいいんだと右手を上げた。その時、芝浦総理が思いついたようにぽつりと漏らした。

「アメリカ、ということはないだろうか?」

 米国に都合の悪い総裁候補を排除するために、米国がリークした可能性も否定できない。米国なら当事者しか知り得ない内部情報を諜報活動で掴んでいても不思議はない。この世にCIAやNSAの手が及ばない場所など、そう多くはない。

「その線も否定できませんが、私に少し時間をください」

 小牧は冷静な口調で言ったが、蟠りが広がっていった。それは徐々に興奮にも似たやる気へと変わり、抑え難い衝動にかられた。長年、この世界で生きてきた者の本能だった。休み返上で働き続け、やっと訪れた夏休みが跡形もなく消えた。自ら消したのだ。だが、そんなことはどうでも良かった。三十年以上、そうして国家に尽くしてきた小牧にとって、日常の一部に過ぎなかった。

 芝浦総理が「いま浜松大臣にかける」と言って、スマートフォンをポケットから取り出した時だった。

 秘書官室から電話の着信音が漏れ聞こえてきた。この時期に、官庁からの電話は多くない。嫌な予感がした二人は、視線を秘書官室と繋がるドアへと向けた。秘書官室の誰かが受話器を素早く取ったのだろう。着信音はワンコールで切れた。透かさず船越秘書官がドアを開けて、緊急事態を知らせた。



13時 内閣総理大臣官邸地下・危機管理センター


 内閣情報集約センターからの緊急連絡を受けた芝浦は、小牧内閣情報官と共に総理執務室前の回転扉に隠された直通エレベーターを使って、危機管理センターへと降りた。地下深くへと滑り落ちていく僅かな振動が足裏に伝わる。下降に伴う浮遊感とは裏腹に、重く重圧がのしかかっていた。地階に着き、いくつかのセキュリティチェックを済ませ、スマートフォンを預ける。指紋認証の冷たいパネルに触れる右手が僅かに震え、電子音が妙に鋭く感じられた。鋼鉄製の扉を押し開けて危機管理センターに足を踏み入れると、緊迫した空気が二人を包んだ。台湾軍機の緊急着陸で設置されていた官邸連絡室は既に官邸対策室に改組され、勝田内閣危機管理監の指示で集まった緊参チームの随行員とリエゾン、内閣官房の職員等がオペレーションルームで慌ただしくしていた。

 誰かが「総理入られます」とアナウンスしたが、それに構う余裕のある者などいなかった。出入り口近くにいた数名が、作業の手を止めることなく、流れるように首を傾けるのが精一杯だった。

 まるで野戦指揮所のような喧騒と熱気に満ちた室内の壁に備えられた八つの大型ディスプレイには、地上波各局、下地島空港の定点カメラの映像、防衛省中央指揮所の会議室と専用回線で繋がるTV電話が分割で映し出されていた。NHKは13時のニュースを延長してキャスターがやや上擦った声で状況を伝えているが、そのほとんどは「詳細不明」だった。中央に最も大きく出力された空港定点カメラのライブ映像では、滑走路上の輸送機の周りに大小の消防車が集まっているのが確認できた。火の手は見えないが、消火か予防的に使ったであろう消火薬剤の泡が、滑走路上を白く染めている。まるで雪のようなそれは、非常事態の中で奇妙な静けさを醸し出していた。

『防衛省より連絡。台湾軍輸送機からの火災は確認されず。軽傷者四名、死者及び重症者はなし』

 スピーカーから聞こえてきたその報告で、芝浦の肩は僅かに緩んだ。その安堵も一瞬にして掻き消されるように、次々と情報が報告される。

『国交省より、下地島空港の滑走路を封鎖との連絡あり』

『沖縄県防災危機管理課及び空港課と連絡取れず』

『現在、宮古島警察署管内一一〇番、十二件』

『台北事務所に対策室を設置。台湾当局との連絡ライン開設済みです』

『総務省消防庁です。救急車二台が島内の病院に到着、搬送を終えたとの報告あり』

 総務省、外務省、国土交通省、防衛省、警察庁、内閣府等と組織単位で分けられた各テーブルからの報告が、オペレーションルーム内に響き渡る。空母の甲板作業員を連想させるようなカラフルなビブスで色分けされた要員達が、ノートパソコンのキーボードを叩き、電話をかけ、マイクを片手に報告し、指示を飛ばす。その音が交錯し、耳を圧迫する。ヘッドセットを装着したまま、書類の束を抱えた内閣官房の職員が、汗を浮かべながらデスク間を走り回っていた。

 オペレーションルームで立ち止まってディスプレイに釘付けになっていた芝浦のもとへ、白山官房副長官と横須賀内閣官房副長官補(事態対象・危機管理担当)が足早に近づいた。二人の表情は固く、青ざめた顔には脂汗が滲んでいた。芝浦は「勝田危機管理監がお待ちです」と白山官房副長官の声に促されて、総理の定位置である隣接の幹部会議室へと向かう。その足取りは重かった。背後の喧騒が遠のく一方、心臓の鼓動が耳元で大きく脈打っていた。

 歩きながら、白山官房副長官が低い声で状況を説明する。

「自衛隊の報告によると、領空侵犯した中国軍機が、下地島に整備部隊を乗せて向かっていた台湾空軍の輸送機を攻撃した模様です。自衛隊側に被害や攻撃があったとの報告は、今のところありません。これから、桜木大臣が臨時の記者会見を行います」

 その説明を聞く芝浦の頭は「開戦」という二文字で埋め尽くされていた。偶発的な衝突から「戦争」に拡大・発展するケースは、朝鮮半島有事や台湾有事で国家安全保障局が想定するシナリオの一つだった。日本は、中国と海空連絡メカニズム、ロシアと海上事故防止協定を結んでおり、中国と台湾もエスカレーションを回避するためにホットラインを開設しているはずだった。しかし、芝浦はその実効性を疑っていた。中国共産党指導部にあらゆる権限が集中し、トップダウンで命令が下される体制で、軍人や官僚がホットラインを手に取るとは考えにくかった。ホットラインに応じたという行為自体が責任を伴うもので、誰も責任を避けるはずだ。熾烈な権力闘争の上で、失点ともなりかねない。仮にホットラインに出たところで、指導部でもない現場の人間が答えられることなどほとんどないと思えたのだ。虚しくホットラインがなり続ける光景が浮かんだ。

 それでも、芝浦は中国と台湾の当局間のホットラインが機能することを祈らずにはいられなかった。祈ることしか、流れに身を任せることしかできなかった。それと同時に、これから起こりうる最悪の事態への覚悟を決めた。

 指紋認証とカードキーでロックを解除し、小牧内閣情報官、白山官房副長官、横須賀官房副長官補と共に幹部会議室へ入った。幹部会議室はオペレーションルームとはまた異なる緊張感に包まれていた。オペレーションルームのような慌ただしさこそないが、重苦しい空気に支配されていた。オペレーションルームと同様の大型ディスプレイを正面にして、中央の大きな円卓には、内閣府政策統括官、警察庁警備局長、総務省消防庁次長、法務省出入国在留管理庁次長、外務省総合外交政策局長、厚労省危機管理・医務技術統括審議官、国土交通省航空局長、危機管理・運輸安全政策審議官、海上保安庁海上保安監、防衛省統合幕僚監部統括官からなる緊参チームの姿がある。壁際に並べられた椅子には、各役所の参事官らが控えている。彼らは官邸から徒歩三十分以内(二キロ圏内)に住むことを義務付けられ、必ず連絡が取れるよう通信事業者の異なるスマートフォン二台を肌身離さず携帯している。

「総理入られます」

 幹部会議室の一同が立ち上がり、軽く一礼して芝浦を迎えた。上座の勝田危機管理監は、机の上に広がった資料をかき集めるようにして、素早く右隣の席にズレた

 芝浦が譲られた席に座ると、勝田危機管理監も腰を下ろした。椅子を総理の方へ傾け、正面のディスプレイを指す。

「あれが今の下地島空港の様子です。機関砲を撃たれて、左エンジンに被弾した模様です。乗員への被害ですが、軽傷者が四名で、幸い打撲や切り傷のようです。四人とも宮古島の救急指定病院に搬送されました。緊急発進していた空自のパイロットにも被害はないとの報告です。火災等もなく、滑走路、空港周辺への被害も確認されていません」

 紺色とオレンジ色の防災服を着た消防庁職員が床に膝立ちになって、消防庁次長にメモを手渡しながら囁く姿が芝浦の目に留まった。消防庁次長は卓上のマイクのスイッチをオンにして、報告を始めた。

「消防庁です。SNS上で、台湾軍機の部品が落下して民間人に負傷者が出ているとの投稿が拡散されています。宮古島市消防本部に当該一一九番はなく、現在消防車両を派遣して空港周辺の被害確認を行っています」

「航空局です。当該空港の滑走路北側は海上に突き出すように立地しており、今回北側から着陸したため住宅や民有地の上空は飛行していないはずです」

「海上保安庁の方で、周辺の漁船等の船舶に被害が生じていないか、至急確認します」

 緊参チームの指示は鋭く、各省庁の反応は迅速だった。キャリア官僚のヒエラルキーの頂点に近い本省局長級以上の彼らは、実質的に役所を動かす全権を握って、この場に集結していると言っても過言ではなかった。そこには合議(あいぎ)も紙爆弾もない。

「中国軍機の流れ弾の可能性は?」

 勝田危機管理監がマイクに問うと、間髪を置かずに統合幕僚監部統括官が応じる。

「防衛省です。可能性は極めて低いと思われます。航空自衛隊の戦闘機の機関砲の有効射程はおよそ一千五百メートルで、中国軍の戦闘機も同クラスのものを搭載しています。上空で撃って地上に落下するまでの距離を考慮したとしても、射撃位置から有人島まで離れすぎています」

 随行員から手書きのメモを差し出されて、統括官が続ける。

「なお、防衛省では自衛隊機が誤射したとする偽情報がSNSで流布されているのを確認しました」

 円卓のあちこちから「やはり投稿がデマなのではないか」といったざわつきが起こる。

「各省庁、念のため民間への物的・人的な被害がないか再確認してください」

 勝田危機管理監の発言でざわつきが一瞬だけ止み、今度は参集要員の回りに集まった随行員に指示を出す声で溢れた。

「デマ投稿にNISC(ニスク)で対処できませんか?」

 勝田危機管理監が、隣に座る横須賀官房副長官補に尋ねる。事態対処・危機管理担当の内閣官房副長官補は、内閣サイバー(NI)セキュリティセンター(SC)長も兼任している。

「サイバーセキュリティが専門でして、政府に認知戦の所管組織がないのが現実です。総理のご了承を頂ければ、内調と・・・・・・ あと内閣広報室と連携して何かしら対応を」

 横須賀官房副長官補が頭を掻きながら答えた。

「横須賀副長官補」

 芝浦が呼ぶと、横須賀副長官補は隣に座る勝田危機管理監を避けるように机の上に乗り出した。横須賀の元に集まっていた数名の「事態室」のメンバーがそっと身を引く。

「国家安全保障会議の緊急事態大臣会合を開催します。それまでにSNSのデマ対処の案を、まとめて置いてください」

「承知しました」

 芝浦の指示に、国家安全保障局次長を兼ねる横須賀官房副長官補が答えた。



東京都新宿区市谷本村町 防衛省庁舎A棟


 地下の中央指揮所で状況を確認した桜木は、一階のエントランスで待ち構える防衛記者会の記者達のもとへ向かった。

防衛省に限らず各省とも政務三役(大臣・副大臣・政務官)の誰か一人が東京二十三区内に残る在京当番という取り決めがある。桜木はお盆中の在京当番を引き受けて、副大臣と政務官を政治活動のために地元に帰らせた。選挙を前にしての気遣いだが、自身が若手の時に先輩議員から配慮してもらっていた分のお返しのつもりだった。それが今日は幸いした。

 花崗岩のタイルが床と壁に敷き詰められたエントランスに、深呼吸してから足を踏み進めた。殺風景なエントランスにポツンと置かれた演台の前に立つと、一斉にフラッシュを浴びせられた。まるで銃撃のような光の嵐に目を細めながら、演題の上に事実関係を記した資料を広げた。演台の後ろには、防衛省自衛隊の錚々たる顔ぶれが並ぶ。

「本日の台湾軍機の動向について報告致します。8日にエンジントラブルで沖縄県下地島空港へ緊急着陸した台湾空軍のF-16戦闘機の整備につきまして、防衛省自衛隊での対応が困難なために在日米軍に依頼しておりましたが、先日の会見で発表しました通り、台湾空軍の整備部隊が行うこととなりました。本日正午、その整備部隊を乗せた台湾空軍のC-130輸送機が台湾を離陸し下地島空港に向かって飛行していたところ、中国軍の戦闘機がこのC-130に対して機関砲で射撃を加えました。この射撃により、同機はエンジンを損傷したものの飛行を継続し、12時半頃に下地島空港へ緊急着陸しました」

 激しさを増したフラッシュで、桜木の視界は白く染まった。ぱちぱちと瞬きをし、背筋を伸ばして続ける。

「この中国軍の戦闘機は同日12時台に我が国の防空識別圏に侵入し、我が国の領空を侵犯する恐れがあったため、南西航空方面隊のF-15戦闘機が緊急発進して対応していました。中国軍の戦闘機は台湾軍の輸送機を射撃した後、針路を西に取って我が国の防空識別圏の外に出たことを確認しています。なお、これに関連して航空自衛隊への被害等はありませんでした。現地の部隊からの報告によれば、当該機の乗員に死者・重症者はなく、また周辺への直接的な被害は確認されておりません。本事案は我が国の防空識別圏において、また航空自衛隊が対領空侵犯措置を実施する中で発生しており、誠に遺憾であると感じております。それと同時に、今回の不測の事態を招く中国側の非常に危険な行動を『断固非難』するものであります。台湾海峡の平和と安定は我が国にとっても極めて重要であり、防衛省自衛隊は一方的に緊張を高めるいかなる行為にも強く反対するとともに、同地域の平和と安定のために、引き続き警戒監視に万全を期すものであります」

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