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1.緊急着陸

8月10日7時 東京都千代田区永田町 内閣総理大臣公邸


 現在の総理大臣公邸は、一九二九年に総理大臣官邸として建築された。張作霖爆殺事件の余韻が冷めやらぬ中、五官立大学が産声を上げ、ロンドン海軍軍縮会議が目前に迫った年のことである。当時の流行を落とし込んだ荘厳な煉瓦造りの公邸は、歴史の重みを帯びて官邸の隣にひっそりと佇む。邸内には二・二六事件の弾痕や焦げ跡が刻まれ、入居した歴代総理やSPが幽霊を見たという囁きが今も漂う。短命政権のジンクスもあり、入居しない総理大臣も珍しくなかった。

 芝浦は幽霊を見たことはなかったが、久しぶりに魘された。夢の中で台湾有事の渦に飲み込まれていた。死者数が積み上がり、非難の声が嵐のように押し寄せ、沖縄が赤々と燃え上がっていた。目を覚ましても、その光景は夢の残像ではなく、現実のものとして暗い影を落としていた。


 8時半、応接室に移り、招いていた白山官房副長官(政務担当)と双葉幹事長代行と共に朝食をとる。

 テーブルに置かれた朝食は、都内ホテルのテイクアウトだ。官邸と公邸に料理人はいない。ぼんやりと暖かい色味の照明に照らされる重厚な部屋には、使い捨てのプラスチック製の容器がどこか場違いに映る。

 芝浦は柔らか過ぎず体によく馴染む年代物のソファに浅く腰掛け、狐色のトーストを小さく齧った。

「二人は新盆は大丈夫なの?」

 何気ない問いを投げた。本題は食事を終えてからでいい。

「自分は最終二日だけですね。幹事長が日本に戻るまで、離れられませんから」

 双葉幹事長代行が、ベーコンエッグをプラスチック製のナイフで切りながら答えた。プラスチック同士が擦れる乾いた音が、無駄に広い室内に小さく響いた。

「うちはもう本人不在が慣れてきましたから。私がいなくて、地元秘書も生き生きしてますよ」

 白山官房副長官が冗談めかしく笑う。

 二人と何気ない雑談を交わしながら朝食を食べ終え、本題に入る。この朝食会は、重要な政策や政局に際して開かれるので、二人も察しているはずだが顔には出していない。

 芝浦は意味もなく、バターとジャムで汚れたおしぼりで指先を濡らした。

「来月の総裁選なんだがね、出たいと思うよ」

 切り出した言葉は、含みを持たせざるを得なかった。

 それでも二人はほっとした表情を浮かべた。

「その言葉が聞けて、自分は嬉しいです。総理は地道にコツコツと実績を積み重ねてきました。タネもたくさん撒きました。これから咲く政策もたくさんあります。政権を継続させて、しっかり実らせましょう」

 双葉幹事長代行が力強く言った。

 幹事長は党のカネと人事を握っており、総裁が総理を務める以上、党内を取りまとめる要となる。その幹事長人事は自派閥以外から選ぶ「総幹分離」が慣例となっているため、お目付役として総理の側近が幹事長代行に据えられる。幹事長代行という名前以上に大きな権限を持っており、幹事長代理や筆頭副幹事長よりも格上で、執行部の一員に数えられている。

「総理に出てもらわねば、困りますよ」

 白山官房副長官が、そう微笑んだ。

 政務担当の官房副長官は総理の出身派閥の最側近が、右腕として任命される。歴代総理の多くがこのポストを経験しており、中堅若手の登竜門ともいえる。表舞台にはあまり立たないが、総理と官房長官と共に内政と外政にあたる実務者だ。共に働く事務担当の官房副長官は、事務次官経験者が就任する官僚機構のトップである。

「ありがとう。また二人には色々と頼みたいと思ってる。前回同様、双葉さんには選対本部長を、白山さんには選挙責任者を引き受けていただきたい」

 二人はもちろんと頷き、白山官房副長官は推薦人の確保に自信を見せた。

 出身派閥内からは、既に応援したいという声が上がっているようで、世間で報じられている「芝浦おろし」とは状況が異なることを知った。総理大臣になってからというもの、孤立感に苛まれ、入ってくる情報は減った。総理の周りにスタッフはたくさんいるのだが、壁を感じてしまう。情報も各省庁から山のようにもたらされるが、それは総理大臣に決断を迫るためのものだ。激務に追われる日々で同僚議員との他愛もない会話が減り、政局への感覚は鈍くなった。自身の右腕でもある双葉幹事長代行や白山官房副長官とも、互いに忙殺される日々でこうして話せる機会も減った。権力という檻に閉じ込められているような感覚に締め付けられていた。

「派閥内の衆議院と参議院から五名若しくは六名ずつ。ここは確実です。残り半分を目標に、各派閥と無派閥の議員を引っ張れるよう頑張ります」

 総裁選に出馬するには、二十名の推薦人が必要となる。自派閥から二十名揃えるのは簡単だが、支持拡大のために多くの派閥から推薦人を集めるのが通例である。白山官房副長官が自信を見せたのは、不足分は自派閥で補えるという余裕も大きいのだろう。

「それと私が聞いた情報では、長池派からは候補者を出さないようです。ここは総理から直接、長池先生に頼んでいただけると助かります」

 双葉幹事長代行が頭を下げる。

「わかった」

 芝浦は一安心して、船越秘書官が淹れたコーヒーを啜った。暖かい液体が喉を伝っていき、胸元をじんわりと温めた。

「新座幹事長は出馬で間違いありません。フィリピンへの出国前に私に出馬を伝えてくれました。幹事長なりに筋を通したかったのだと思います。世論の人気も高く、推薦人は手堅く集めてくるでしょう」

「或いは宣戦布告かも」と白山官房副長官が、双葉幹事長代行の説明に笑った。和やかな雰囲気を保とうと、「双葉さんは人がいいからね」と付け加えた。久しぶりに表情を緩めた気がした。

「双葉先生に伝えれば、間違いなく総理に伝わるでしょう。ある意味筋を通したと言えなくもないけど、あの人は総理のために汗をかいてない。今の支持率低迷にしたって、遠因は官邸と党のコミュニケーション不全にある。総理の社会保障改革を妨害したのも幹事長。これは宣戦布告ですよ」

 白山官房副長官が続けた。

 幹事長が現職総裁が出馬する総裁選に出るのは、タブーだ。総裁に次ぐナンバー2の出馬は、反旗を翻したと見做される。

 官邸に囚われる中、幹事長に意に沿わない動きをされて苦労したのは事実だ。情報が届かない中、対応も後手にならざるを得なかった。メディアは「不安定な政権」「党高政低」「決められない総理」と書き立て、SNSにはデマが飛び交った。どんな政策を打とうが、メディアやSNSのフィルターを通して誤って伝わり、誹謗中傷を受けた。その度に支持率は下がり続けた。

「それで他の動きは?」

 双葉幹事長代行がコーヒカップを置いて、説明を続ける。

「はい。小山先生が昨日の夜に数名で会合を開いたとの話があります。出席者はわかりませんが、総裁選絡みとみて間違いないと思います。今のところ、総理、新座、小山の三候補です。前回出た二人に出馬の動きはなし。無派閥の中堅若手を中心に五期生の島尻先生を担ぐ動きがありますが、本人の意向は不明です。各報道だと世論は新座、小山、総理、島尻の順になっており、保自党支持者でもパーセンテージは違いますが順位はそのままです。昨夜のENNの党員調査ベースだと、小山二十八パー、新座二十六パー、総理二十パー、島尻九パー、未定十七パーです」

 ENNはどこからか党員名簿を入手しており、それに基づくENN・毎朝新聞合同の電話調査は極めて精度が高いとされてきた。党員名簿は数百万円で党本部から購入する代物で、党所属国会議員ですら容易に入手できるものではない。

 双葉が印刷したエクセルの表を机の上に置いた。

「それを実際の党員票に換算すると、小山九十三票、新座八十六票、総理六十六票、島尻三十票で、浮動票は五十六票になります。国会議員票の動きはまだわかりませんが、基本的には推薦人の二十票は乗りますから百十三、百六、八十六、五十になります。残りの約二百二十票をどれだけ固められるか、衆院選が近いことも踏まえれば、新座幹事長が最有力候補になります」

 総裁選は党所属国会議員各一票、国会議員票と同数に換算した党員票を合計し、過半数を獲得した候補者が当選となる。要するに国会議員票と党員票が半々となる。その第一回投票で過半数に届く候補者がいなければ、上位二名による決戦投票が行われる。決戦投票は、党員獲得票数の多かった候補者が自動的に獲得する都道府県連の合計四十七票と、国会議員票各一票で行われる。国会議員票の重みが増すわけだが、その動向は第一回の党員票の動向も大きく影響する。次の選挙の顔を選ぶということであり、誰が総裁なら自分は選挙に勝てるのか、衆院選が近ければ近いほど意識される。

「総理、直球でお尋ねします。その解散はどうするんです?」

 白山官房副長官が尋ねた。

 芝浦は無意識に乾いたおしぼりに指先で触れた。

「実は、それが今日の本題で・・・・・・」

 総理の専権事項とも言われている衆議院の解散は、トップシークレットである。

 言葉に詰まった芝浦を見て、白山官房副長官が口を開いた。

「筋道としての正しさなら総裁選後。新総裁を選任し、その真を国民に問う。自身を優先するなら総裁選前。そのどちらか選び兼ねてるということですか?」

「白山君の言う通りだが、これにもう一つの要素が出てきてしまった。これは国家機密につき他言無用で」

 言うしかない。

「台湾有事が二ヶ月後に起こる可能性がある」

 前振りで身構えていた二人だったが、驚きのあまりか固まっていた。暫くの間、沈黙が続く。

「総裁選に衆院選なんて言ってる場合じゃないですよ」

 双葉幹事長代行が辿々しく言った。

「でも二ヶ月後は衆院の任期満了です。台湾有事の真っ只中で任期満了を迎えて衆院選なんて、やれる状況にありません。それなら、解散を今すぐにでもすべきです。総裁選はそうした事情を踏まえて、解散の前でも後でも両院議員総会での投票とすることも、候補者を出さない根回しをして両院議員総会で再選を決めてしまう手もあります。それで批判の声が上がるのなら、事態鎮静化後にフルスペックの総裁選を行うと確約すれば良いだけです」

 白山官房副長官の言う通りだった。憲法に衆議院議員の任期延長の規定はなく、大規模災害や戦争が起ころうが、任期満了を迎えたら衆議院議員は失職し、選挙を行うしかない。しかしーー

「問題は解散の大義名分ですね。その台湾有事のリスクはいつ公表できるのですか?」

 双葉幹事長代行が尋ねた。

「少なくとも、いま公表できる段階にはない。公表は米国とも足並みを揃えなければならないが、侵攻が確実という兆候を隠せなくなった時、言い換えれば中国がやると間違いなく決断したタイミングになる」

「台湾有事を公表できずに選挙となると、党内への根回しも難しくなります。衆院解散も再選のための自己保身と批判にさらされて戦わなければならなくなります」

 芝浦はソファの肘掛けに立てかけてあった角形二の茶封筒を手に取り、中に入っていたA4の用紙一枚を取り出した。これを見てほしいと、二人の前に置く。党が行った最新の情勢調査の結果だった。

「私も何度も見返したよ」

 保守自由党は五十議席を減らし、連立を組む正大党は十一議席を減らすーー与党過半数割れの結果が記されていた。

 党の情勢調査は相当な費用をかけて行うので、精度が高いとされている。小選挙区単位で調査し、党幹部をはじめとする人気弁士の派遣の基準にもされる。その情勢調査の結果は、選挙前であれば総裁と党四役にしか開示されない。

「野党が首班指名を一本化したら、政権交代じゃないですか」

 双葉幹事長代行の言葉は、驚きよりも悲壮感に満ちていた。

「強い政治責任が伴う以上、準備から後始末まで、私の政治生命を賭して取り組むべきだと思っている。どんな結末を迎えようが、台湾有事でこの内閣は吹き飛ぶ。それなら、この老兵が貧乏くじを引けばいい。だが、私の総裁再選よりも、保自党が政権与党であることの方が重要だ。野党が政権を担うことになるくらいなら、総裁を退いてもいいと思ってる」

「しかし、そしたら新座幹事長が総理になりかねませんよ。総裁任期中に総理がどれだけ準備や対応をしても、新座総理になれば全てひっくり返されます。仮に小山先生が総裁になれたとしても、台湾有事のどこかの節目で小山内閣は責任を取って辞職することになる。そしたら、新座内閣が戦後処理と復興をすることになります。そこまでの覚悟を総理がお持ちなら、なんとかこの内閣を保つ方向にしては頂けませんか」

 白山官房副長官が懇願する。

 壊し屋との異名を持つ新座幹事長が、前任者の決定を覆すことは目に見えていた。新座幹事長でなくても、総理が代われば大なり小なり混乱は避けられない。かと言って自分が総理を続ければ、政権交代というより大きな混乱を生みかねない。ジレンマだ。

 考え込んだ三人の間に沈黙が流れる。

「どれも泥舟です、総理。でもそれなら、少しでも長く浮かぶものを選びたい。自分は総理と心中します」

 双葉幹事長代行が、無理やり口角を上げて笑みを作った。

 コーヒーを一気に飲み干した白山官房副長官も顔を上げる。

「私も、最後までお供します」

 その後、三人は総裁選と衆院選に勝つための方策について話し合った。新座幹事長の元で未だまとまっていない原油価格高騰対策を総理の決断で早期に実現し、これまでのイメージを払拭すると共に新座幹事長を牽制するということでまとまった。



12時 沖縄県那覇市 航空自衛隊那覇基地・南西航空方面隊作戦指揮所


 一昨日開設されたSOC(航空方面隊作戦指揮所)では、お盆休みを返上した隊員達が緊張感漂う中で任務に当たっていた。演習に伴い、中国軍機の防空識別圏への侵入が多発しており、下地島への台湾軍機の着陸に対する挑発的な動きも増えていた。特に厄介なのは、空母〈遼寧〉や〈山東〉から発艦する艦載機の存在だ。中国本土から飛来するものは防空識別圏の手前で探知できるため時間的猶予があるが、艦載機は突如として防空識別圏の中にに出現する。連接されたMARSシステムや米軍の汎地球指揮(GC)統制システム(CS)も活用して、空母の動向を注視していた。

 正面の壁に備え付けられた四つのLSD(大型ディスプレイ)には、下地島空港のライブカメラの映像、日本全体と南西セクターを拡大したJADGEの航空現況表示画面が二つ、NHK総合が出力されていた。

 航空現況表示画面の地図上には、陸海空自衛隊、在日米軍の航空機を示す緑色のシンボルが無数に散らばっている。宮古列島周辺では、204飛行隊のF-15であることが記された飛行諸元付きのシンボルが旋回を続けて円を描いていた。

 オペレーションルームの最前方には司令官以下幕僚達の席がLSDに向かう形で前後二列に配置され、卓上には電話機と会議用マイクが並ぶ。その後方には、ノートパソコンや電話機が並ぶテーブルが正面に対して垂直に縦四列で並び、両脇には作業室や控室等の小部屋も設けられている。そこでは、防衛部を中心にした要員が淡々と仕事をこなしていた。

「あがりました」

 最前列中央に腕んを組んで座る海老野に対して、右隣に座る立川防衛部長が航空現況表示画面を指差して言った。

 一同はLSDを見上げた。

 台湾から伸び始めた緑色の航跡が、宮古島に向かっていた。整備部隊を乗せた台湾空軍のC-130H輸送機である。その北西では、中国大陸から延びるオレンジ色の航跡とUと記されたシンボルに、二つの緑色のシンボルが並んでいた。

 やはり来たかーー

「スクランブルしたF-15がインターセプト。アンノウンは中国空軍のJ-10戦闘機二機です。宮古列島方面に向かっており、台湾軍のC-130に接触を試みる可能性があります。なお、当該C-130は約二十分後に下地島空港に着陸の予定」

 LSDを背にして右横の演台に立つ運用課長の報告が、スピーカーを通して室内に響き渡る。淡々とした報告だが、声に緊迫感が滲む。

「了解。C-130に近づかせないよう、しっかり踏ん張ってくれ」

 海老野が卓上マイクに告げると、立川防衛部長がくるりと椅子を左に回した。

「司令官。やはり、CAP中のF-15をエスコートに向かわせた方が良いのではないでしょうか?」

「んー。集団的自衛権の行使と見做されかねない。ここはなるべく慎重に」

 腕を組んだ海老野の表情は硬い。

 自衛隊法第95条の2の武器等防護の対象は米軍、豪軍、英軍に限られている。台湾軍機への直接的な護衛は「台湾に対する集団的自衛権の行使」という批判材料を中国に与えかねなかった。



12時30分 沖縄県宮古島市 下地島空港


 市原駿平はフェンスに背中を預け、もたれかかるようにして立っていた。

 フェンスの向こうのエプロンには、台湾空軍のF-16V、在日米空軍C-130J、航空自衛隊のU-125A救難捜索機とCH-47J(LR)輸送ヘリが駐機されていた。隊員の姿が時折見えるが、動きはなく至って静かだった。その奥では、三千メートルの滑走路が熱気を帯び、陽炎が揺らめいて遠くの海と空の境界をぼやけさせていた。南風がサンゴ礁の潮の香りを運び、市原のシャツをはためかせる。他の取材陣も、〈軍事利用反対〉と書かれたプラカードとのぼり旗を持った活動家も、大きな望遠レンズ付の一眼レフを抱えるマニアも、暑さに根負けして建物の日陰で静かに共存していた。

 市原はスマートフォンを片手に、Twitterのタイムラインをスクロールしていた。だが、容赦ない日差しが反射して、文字がほとんど見えない。市原は眉を寄せながら、体の向きを変えて自分の影で画面を覆った。汗が額から流れ、頬を伝って顎先まで滴る。左のシャツの袖で汗を拭いながら、親指で画面をスワイプした。RawLens(ローレンズ)の公式アカウントが投稿した最新記事への反応が予想以上に伸びていることに気付くと、口元に小さな笑みが浮かんだ。

 市原は半年前、大手出版社の編集者の職を辞めた。東京の雑踏と締め切りに追われる日々、需要があるのかもわからない社会的意義のない原稿のチェックと、上司の顔色伺いに疲れ果てていた。そんな時、大学時代の先輩の東から声がかかった。「RawLensってネットメディアを立ち上げたんだ。社員は俺含めて十二人しかいないけど、どうだ。お前、ジャーナリストに興味あっただろ」と。一度見学にとの誘いだったが、その電話で転職を即答した。給料は三割ほど減ったが、それを上回るほどの熱いものが胸の内に広がっていた。東は自由に記事を書かせてくれたし、思ったことや新しい企画は躊躇なく提案できる環境だった。皆んなで知恵を出し合い、創意工夫する日々が楽しかった。資金もそこまで余裕はないはずだが、東は快くあちこちに取材に行かせてくれる。記者を名乗っているが、企画から撮影に編集、事務まで何でもこなす。そのマルチタスクもやりがいを感じさせてくれたし、程よい気分転換にもなっていた。そうして投稿された記事や動画が、数時間、時には数分で数万人の目に触れる。読者からのコメントが届くたび、自分が社会に何かを投げかけている実感が湧いた。

 タイムラインをスクロールしていると「下地島に緊急着陸の台湾軍パイロットが窃盗・住民を暴行」というまとめサイトのリツイートが流れてきた。元のツイートは一時間前だったが、既に七千件のリツイートと一万件を超えるいいねが付いていた。批判で溢れるコメント欄を見て、デマを真に受ける人間の多さに驚いた。

「市原せんぱーい。暑くないんですかぁ?」

 膝を立てて砕石の上にだらしなく座り、建物の壁にもたれかかったアシスタントの江平莉奈が気怠そうに声を投げかけてきた。暑さにだいぶ参っているのか、苦しげな顔を浮かべながら、ブーニーハットで力なく仰いでいる。江平もテレビ業界でカメラアシスタントをしていた身で、東にスカウトされてRawLensに飛び込んだ一人だった。

「大丈夫」

 声が届いたかも定かでないが、左手をあげてとりあえず反応を示した。

 スマートフォンをポケットに突っ込むと建物の影までゆっくり移動し、江平の近くに置いていたペットボトルを手に取る。キャップを捻って一気に煽ると、生ぬるいお茶が喉を流れ落ちた。熱を冷ますような爽快感はないが、水分補給の役目は果たしただろう。乾いた体に水分が染み込んでいく感覚が確かにあった。

 その時、エアバンドレシーバーに繋がるイヤホンを片耳に突っ込んだマニアらしき男がふいに立ち上がった。それを合図かのように、周囲のマニア達もカメラを片手にざわめきながらフェンスの際へと歩き出す。

「台湾軍のハーキュリーズが降りるみたいだけど、エンジントラブルっぽいぞ」

「おいおい、エマージェンシーを宣言したぞ」

「F-16に続けてとは、台湾もついてないな」

 そんな話し声が、熱気の中を漂ってきた。

 市原は日陰から飛び出し、マニアの輪へ駆け寄った。

「台湾軍機が着陸するんですか?」

「えぇ。みたいですよ。輸送機なんで、たぶんアレの整備部隊を乗せてるんだと思いますけど、エンジン停止とか無線で言ってます。ほら」

 マニアの一人が指差す先では、マギルス社製の空港用化学消防車ドラゴンX6TEPが赤色灯を点滅させながら滑走路へ疾走し出した。

「江平! カメラ! 早く!」

 叫んだ瞬間、さっきまでの気怠さが嘘のように、江平が業務用のデジタルビデオカメラを手に取り飛び上がった。

 彼女もプロなんだなと感じていると、いつの間にか隣でカメラを滑走路に向けていた。

「消防車、撮れました! 先輩、リポート!」

 江平は暑さを吹き飛ばすような勢いで市原にカメラを向けると、汗ばんだ左手でQサインを大袈裟に掲げた。江平の声は上ずり、緊張と興奮が入り混じっているようだった。

「いま私は一昨日、台湾軍の戦闘機が緊急着陸した沖縄県の下地島空港にいます。その整備チームを乗せた台湾軍の輸送機が着陸するようなのですが、エンジントラブルを起こしたとの情報があります。航空局の消防車が出動し、滑走路脇で待機しています」

「ランウェイ17だって」

 エアバンドレシーバーを片手に、マニアの男が北の方を指した。別の男が「あっちから着陸するみたいです」と市原に興奮気味で教えた。市原が礼を言うと、男は既に北の方へと望遠レンズを向けてファインダーを覗き込んでいた。

「江平、カメラあっち!」

 小柄な江平は、画角にフェンスが入らないようにカメラを高く上げ、反り返るように首を持ち上げる。

 一帯に張り詰めた空気が漂い、波の音を遠くに押しやっていた。

 日陰で休んでいた活動家六名も、重い腰を上げた。のぼり旗を杖代わりにして、フェンス側まで来て声を上げ始めた。

「下地島空港の軍事利用反対ー! 沖縄戦を繰り返すなー! 憲法守れー!」

 民放キー局と沖縄のローカル局の腕章を着けたカメラマン達が、まるで待ち構えていたかのように、その様子を離れた位置からローアングルで映し始めた。

 市原はやらせだと思いながら、その様子をカメラマンが映るようにして自身のスマートフォンで撮影した。後ろから液晶画面を覗き込むと、二列に並んだ活動家の左右が見切れるようにアップされていた。

「やってんなぁ」

 小刻みに震える腕でカメラを掲げたまま、振り返った江平がよろける。江平は、何事もなかったかのように「あぁやると、たくさんいるように撮れるんですよー」と言い放った。汗で濡れた前髪を指で払う仕草が、妙に誇らしげだった。

 嘘ではないが、演出がある。それもカメラマンの仕事のうちーー以前、江平が以前口にした言葉が頭をよぎった。ここじゃ役に立たないですけどね、と笑った様子も思い出された。

 北の方向にまだ機影が見えないことを確認すると、市原はスマートフォンを取り出した。今撮った動画を添付して〈【下地島空港現地リポート③】反対派の活動家は6人。それをテレビ局がアップで撮影しています。活動家の他には航空ファンが15人ほど、見物に来た地元住民が数人、我々報道関係者が10人。市原〉と公式アカウントでツイートした。別に活動家が憎いわけではない。オールドメディアが、作り上げた島民の総意を報じることが許せないのだ。そのままの情報を歪めずに届けるのがRawLens――生のレンズーーの理念だ。下地島に滞在している残りの時間、広く住民にインタビューしようと考えていた。

〈台湾軍機が再び緊急着陸?〉と投稿したくなる衝動を抑え、スマートフォンをポケットに入れた。特ダネに飛び付いて、誤報を流してはいけない。SNSは誤報ほど早く広まり、訂正記事は拡散されない。

 気がつけば、エプロンには米空軍と航空自衛隊の隊員が集まり、北の空を注視していた。

 市原は熱で火照った額に手を当てて庇代わりにし、遠くの空を見据えた。

 カメラを構えた一同が、「来た来た」と声を上げた。

 デジタルビデオカメラの遮光フードに覆われた液晶画面を覗き込んで、ようやく遠くの機影が見えた。江平の腕は小刻みに震えているが、手ブレ補正機能のおかげで遠くに浮かぶ輸送機は画面の中央に捉えられている。コックピットの窓が太陽光を反射し、時折鋭くと光る。

 カメラを構えた集団が一斉にシャッターを切り始めた。ミラーが跳ね上がる乾いた連写音に包まれる。

 市原が覗き込んだ液晶画面に、目を細めた。

「左の主翼から煙が出てないか?」

「ですねぇー。プロペラ、止まってますよ。ん? 右じゃないですか?」

「それはこっちから見たらそうだけど、主翼の左右はパイロットから見ての右左だ」

 左のターボプロップエンジンが二基とも停止し、うっすらと黒煙を吹いていた。それでもC-130Hは何事もないかのように姿勢を保ちながら、滑走路に向けて降下する。深緑と黄土色の機体が背景の森に溶け込むようにして、ゆっくりと着陸した。シャッター音が激しくなり、ギャラリーからおぉと感嘆の声が上がった。C-130Hは持ち前の短距離離着陸性能を遺憾なく発揮し、滑走路の中間地点で完全に停止した。

 熱風に乗ってきた油と焦げ臭い匂いが鼻を突く。

 けたたましくサイレンを鳴らしながら、空港用化学消防車がC-130Hに向かう。

「先輩、これ」

 江平に言われて再び液晶画面を見ると、思わず息を飲んだ。画面一杯に映された左エンジンに拳大の無数の穴が空いていた。金属が抉られ、周囲の塗装は剥がれ、黒く焦げた跡が痛々しく広がっている。よく確認しようとすると、画面は空港用化学消防車の車上放水銃が放った泡消火薬剤で真っ白く染まった。江平がズームアウトし、全体を写した。左エンジンが泡に包まれ、その下のコンクリートには黒く汚れた消化薬剤が広がっていく。風が吹くたびに泡の表面が揺れ、ちぎれた小さな塊が舞う。

 宇宙服にも似た銀色の耐熱用消防服を纏った隊員三名が太いホースを携えてエンジンに近づき、細かい箇所やエンジンの内部に向けて消化薬剤を直射する。防火消防服姿の隊員らは、反対側で乗員の避難誘導を始めていた。

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