どこか遠い彼の地にて ②
(逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ)
雄介の頭はそれだけを考えているのだが、膝が震え、足に力が入らない。
男は一瞬で距離を詰めると、そんな雄介を羽交い締めにし、刃を喉元に突きつけた。そして、聞き取れない言語で叫び声を上げる。
するとどうだろう、床に空いた穴から、ひい、ふう、みいと人影が這い上がってきたではないか。
それは、なんともチグハグな面々だった。一人目は、妙な具合に整えた髭のオッサン。二人目はボサボサ髪の長身の青年。そして三人目は、こんなところにいるのが場違いなほど玲瓏な容姿をした少年(少女?)であった。
耳元で悪党の怒鳴り声が轟く。意味は理解できないが、意図は十分に伝わった。
(「近寄るんじゃねえ」だろうなあ……)
雄介は悟った。どうやら自分は何らかの抗争に巻き込まれ、人質にされたらしい。下半身の緊張を緩めたら大小あわせて即座に失禁しそうな気分である。
それなのに、三人のうちの綺麗な顔をした少年ときたら、微笑みながら、優雅に無防備に、こちらに歩いてくるではないか。警告が聞こえなかったはずはない。
(ちょ、何こっち来てんの!? いるよ! ここに人質いますよッ!!)
雄介を押さえている手に緊張が走る。ムサい髭面男の割れんばかりの心臓の鼓動が伝わってくる。どきどき、どきどき――こんなに嬉しくない「胸ドキ」がこの世に存在しようとは、お釈迦様だって御存知あるまい。
(僕ァこうして、汗臭いオッサンの鼓動に抱かれて死んでいくのか……前世でどれだけ悪いことをしてきたんだろうなぁ……)
雄介がそう絶望に暮れていると、珍髭のオッサンとボサボサ頭の青年があわてて少年を引き留めた。よかった、あの二人には常識が備わっているらしい。
そして、あの天使改めク○○キは爆弾だということを理解した。
ボサボサがクソ〇キを押さえつけ説教をしているようだ。クソガキがニコニコしながら口答えをするたびにボサボサが真っ赤になってキレている。
その二人には関せず、珍髭が悪党に何かを訴えている。身振りと口調から判断するに、どうやら「人質を解放しろ」と言っているらしい。
(ナイスだ珍髭! ベストだ珍髭! 全世界がそれを待っていた!)
だが、悪党は逆上していて聞く耳を持たない。それでも珍髭は、ある時は冷静に、またある時は威圧的に粘り強く交渉を進める。
(このオッサン、見かけによらず頭が切れるな。それに、場数を踏んでいる……)
それは喜ばしいことであった。雄介の命は、今やこのオッサンの話術にかかっているのだから。
§ § §
雄介は、太陽が自分の頭の上まで登っていることに気が付いた。すると、今は正午頃なのだろうか? 雄介は時計を持ち歩かない分、体内時計には自信があったのだが、それがすごく乱れてしまっているような気がした。
交渉は、今なお続いている。悪党はかなり疲れてきているようで、返す言葉もだんだんとシンプルなものが多くなってきた。
(きっと「うるせえ」とか「ぶち●すぞ」とか、そういう意味なんだろうな……)
そんなことを考えていると、クソガキがこれ見よがしにジャーキーらしいものを食べ始めた。悪党がそれを見て一声叫ぶ。ボサボサが直ちにジャーキーを取り上げ、建物の下に投げ捨てる。するとクソガキは、すぐにビスケットらしきものを取り出してまたポリポリ食べ始めた。案の定ボサボサが怒る。とうとう珍髭が二人に向けて説教を始めた。
このくだらないやり取りによって、悪党の怒りは頂点に達したらしい。雄介の首に当てていた白刃を凸凹三人組に向け、罵詈雑言の限りを浴びせかけたのである。
――結果的には、これが彼の命取りとなった。
その刹那、雄介たちの真後ろ、ちょうど死角になっている段差の下から、何者かが音もなく這い上がってきた。どこか猫を思わせるしなやかな動き。
闖入者は、まったく気づいていない悪党の肩をポンポンと指でつつく。反射的に振り向いた彼は、次の瞬間には意識を手放していた。
目潰しから、膝による急所打ち、そしてとどめのの廻し蹴り――まさに電光石火。流れるような連続技の前に、悪党はあっけなく石畳の上に崩れ落ちた。
雄介は、そこで初めて自分を救ってくれた者の顔を見た。
「ああああああナツメさん、男前だよ、ほんとかっこいいよ! 惚れ直したよ!」
それは、まごうことなきナツメさんであった。
「ユウちゃん……なんだあのザマは! 今度、一から鍛えなおしてやるからな!」
このとき雄介は、本気でナツメさんの鉄輪流レッスンを受けようと決意した。昨日までの貧弱な僕とはオサラバだ! ……だがそこで、床に突っ伏してピクリとも動かない男が視界に入ったのである。
(これって、明日は我が身なんじゃね?)
うかつなことを言って言質を取られるのはまずい! 実にまずい!
「……あ、うん、考えとくね」
「……ヘタレだな、ユウちゃんは」
ナツメさんの右手には、いつの間にか剣が握られていた。
さっきまで雄介の喉元に当てられていた冷たい刃。その切先は、ぶれることなく三人組に向けられていた――