第2話 ―事故物件― ⑨
館に新たな住人が移ってきてから、一週間が経った頃――
当の「館を購入したばかりの客」が、イノサンのもとを訪れた。
顔には、濃い疲労の色が浮かんでいる。
「お忙しいところ申し訳ない。しかし、どうしても一度お話ししておかなければと思いましてね」
彼はそう言ってから、周囲の様子を窺うと、声のトーンを一段下げて、
「実は……夜になると、地震でもないのに館全体が揺れるのです。おまけに一晩中、何者かの怪しい話し声がする。それが原因かどうかはわかりませんが、ひどい頭痛に悩まされるようになりましてな」
さらに、怒りというよりは困惑した様子で続けた。
「――あえて申し上げますが、まさか例の “悪霊” とやらが、まだ館に残っているということはないでしょうか?」
結局、住民は耐えきれず、昨夜から近くのホテルに避難しているという。
(そんなはずはない、 念には念を入れて確認したはずだ!)
だとしても、客からの訴えを無視するわけにはいかない。
イノサンは護衛の魔道士を連れ、館で一晩を明かしてみることにした。
§ § §
深夜零時を回ったころであろうか……
イノサンは、館が微かに揺れていることを感じ取った。
どこからか、知らぬ誰かの声が聞こえる。
今夜、この館には、イノサンと魔道士の他には誰もいないはずである。
魔道士に目をやると、彼もまた無言で頷いた。
……どうやら気のせいではないらしい。
二人は声がする方へ向かった。足音を立てないように、ゆっくりと。
住人のいない館内は真っ暗で、ランタンの灯りだけが頼りである。
(この地を縛っていた「悪しきもの」は、もういない。もういないのだ……)
幾度己に言い聞かせても、背筋を這い上がってくる恐怖だけは、どうにも抑えようがない。イノサンが、自分の臆病な心を押しのけるように奥歯を噛みしめたその時、魔道士が歩みを止めた。
§ § §
――声の主は、この襖の向こうにいる。
低く掠れた男の声で、なにやら同じ言葉を繰り返しているようだ。
魔道士が一気に襖を引き開ける。
一匹の中型犬がいた。
悍ましくも、顔だけが人間であった。髭だらけの中年男性の顔をしていた。
そして、それが何を呟いているのか、ようやく聞き取ることができた。
「あたまがいたい、あたまがいたい、あたまがいたい――」
二人はあまりの異様さに動転したが、魔道士が冷静さをいち早く取り戻す。
「とりあえず “あれ” を拘束します。よろしいですね」
イノサンが頷くや否や、魔道士は【魔縄束縛】の詠唱を始めた。
魔力を縄状に変化させ、対象を縛り付ける魔道である。
手練れによって生成された魔縄は、瞬く間に妖犬に絡みついた。
――その瞬間、犬が絶叫した。
鼓膜が張り裂けんばかりの大音声は空気を揺らし、さらには館そのものまで揺らすほどであった。
イノサンは、その衝撃で頭の中が真っ白になってしまい、そして――
§ § §
イノサンは、苦痛で目を覚ました。
真っ暗闇だ。
死んでしまったのだろうか。
そのわりに、感覚は厭にはっきりとしている。
しばらくして、ようやく自分が置かれた状況に気が付いた。
(どうやら自分は、重たい何かの下敷きになっているらしい……)
少し動くたびに右腕に激痛が走る。だが、このままでは本当に死んでしまうかもしれない――そう思った瞬間、火事場の馬鹿力とでも言うべきか、痛みが急に気にならなくなった。
頭の向きを変えると、視界の端の方に光が見えた。
それに向かって無我夢中で身をよじらせ、どうにかこうにか這い出す。
自分の上に覆いかぶさっていたのは、大きな書棚であった。
外からは日光が差し込んできている。
太陽の位置が高い。時刻はすでに正午を回っているようだ。
部屋の中は、大きな地震の直後のような有様であった。
ありとあらゆるものがひっくり返り、散らばり――イノサンはそこでようやく、魔道士が床に胎児のような姿勢で横たわっているのに気づいたのである。
慌てて傍へと駆け寄るも、彼は全く反応を見せない。
ただ、ぼんやりと宙を見つめたまま、
「あたまがいたい、あたまがいたい……」
と呟くばかりであった。




