第2話 ―事故物件― ③
客は、自らをイノサン=バンクスと名乗った。
新東京で不動産業を営んでいる――そんな差し障りのない世間話を交わしながらも、彼は落ち着かない様子で部屋の中を見回していた。
「あの、何か気になることでも?」
ナツメが営業スマイルを浮かべて尋ねると、イノサンは少し身を乗り出して――
「あの、こちらにミーシャという女性がお勤めですよね?」
その一言に、ナツメとユースケは困惑の表情を浮かべた。
アイラスには、何のことだかわからない。
(この事務所には、ナツメ所長とユースケさん、それにわたしだけのはず……)
ふと、足元で丸くなっている黒猫に視線を落とす。
アイラスの飼い猫であり、なんやかんやでこの事務所に居候している存在。
(ミーシャ……名前は同じだけれど、猫なんだよね)
アイラスがそんなふうに考えていると、ナツメ所長がおずおずと口を開いた。
「ええと、そのミーシャが何かしでかしましたでしょうか……」
「いえいえ、とても親切にしていただいて、ここも彼女に紹介してもらったのです。その、ぜひお会いして直接お礼を申し上げたいと」
「あ、そうですか。その、少々お待ちください」
ナツメはそう言うなり、猫をひょいとひっつかんで、応接室の外に姿を消した。
§ § §
事務所の廊下――
そこには、黒猫の顎の下をわしゃわしゃと揉みしだくナツメの姿があった。
「おい、ミーシャさんよ。これはいったいどういうことなんですかねえ!?」
「んにゃにゃにゃ、たまには美味しいものが食べたかったのよ」
気持ちよさそうに目を細める黒猫の口から出たのは、流暢な共通語であった。
猫が人語を喋る――明らかに不自然な状況であるにもかかわらず、ナツメは戸惑うそぶりも見せない。
「答えになっていないんだけど」
「事務所の近くにね、魚料理がとっても美味しい酒場があるの。そこでのんびりしていたら、彼がすごく悩んでいた様子だったから、相談に乗ってあげたわけ」
「待て待て。アンタ、『猫は人前では喋らないし、魔道も使わない。それがルールだ』って言っていたじゃないか」
「はじめから人の姿でお店に入ったから、問題ないわ」
「ホントに都合がいいな……」
ナツメの非難がましい口調に、ミーシャはしっぽをぴんと立てて言い返す。
「それより、よかったじゃない。初めてのお客さんなのでしょう」
「……」
「開所してからそろそろ半年で、ちゃんとした依頼がゼロ。危機的状況」
「……だからなんだよ」
「お客さんを連れて来てあげたのですけど?」
「うぐ……あ、ありがとう……ございましたッ!」
ナツメのやけくそ気味な一礼を受け、黒猫は満足そうに「にゃーん」と鳴いた。
「どういたしまして。誰かに感謝されるって、とっても気持ちがいいわね」
「まさか、ネコに頭を下げて礼を言う日が来るとは思わなかったよ……」
打ちひしがれている下僕に頬をすり寄せながら、女神は囁く。
「それより、彼の話を聞いてあげて。ずいぶん困ったことになっているみたい」
§ § §
「いやあ、お待たせしました」
応接室に戻ってきたナツメは、にこやかな笑顔を浮かべて言った。
「申し訳ないですが、ミーシャは非常勤職員でして、今はシフト外なんですよ。
本日お越しいただいたことは、私から伝えておきますので――」
「あの、いつ来ればお会いすることができるでしょうか?」
取ってつけたような作り話に、未練たらしく食い下がるイノサン。
それを振り払うように、ナツメが声を張り上げた。
「そんなことよりミスター・イノサン! あなたは今、ずいぶんと不可解な事件に巻き込まれている……違いますか?」
ズバリ指摘され、ツイていない男は目を見開いた。
「はい、はい、そうなんです! わかりますか!?」
「ええ、魔道的によろしくない粒子的な何かが、あなたの周囲に渦巻いています」
「そんなふうに見えるものなのですか!? なんと、なんと恐ろしい……」
「しかしお任せください。我々は魔道探偵、その道のプロフェッショナルです。
必ずやあなたの悩みを解決してみせましょう」
イノサン=バンクスは、ナツメの自信に満ちた(その実まったく無根拠な)言葉に何度も頷くと、深く息を吸い込み、己に降りかかった不幸の顛末を語り始めたのである――
※ちなみに、異世界(=現代日本)出身のナツメとユースケは、この世界に満ちあふれ循環しているエネルギー【魔力】の影響を一切受けない。
そのため【魔力】を扱う技術である【魔道】は使えないが、同時に【魔道】によって干渉を受けることもない。
つまり、ナツメが言った「魔道的によろしくない粒子がどうこう」というのは、単なるハッタリにすぎないのである。




