―家出娘と猫と指輪― ⑩
「――実の父であるバーナードのことを口にすることは、チックタイアの家では許されませんでした。おかあさまでさえ、バーナードという名前すら教えてはくれませんでした。無理もないことだとは思います。北大陸では今でも大罪人ですから」
だからアイラスは、法律の勉強に行くと理由をつけて公文書館に足を運び、そこで真実を知ったのだという。
「それでは、その、失礼ですが……」
なにせ多感な少女のプライバシーに関することである。さすがのナツメ所長も、言葉を選びながら慎重に尋ねた。
「アイラスさんは、不名誉な者の子だということで家に居づらくなったとか、そのような――」
その言葉が終わるのを待たずに、アイラスは慌てて首を振る。
「違います。そうではないのです。チックタイアの家のおとうさまも、まわりの者も、わたしにはとても良くしてくれています。わたしには異父弟がいますけれど、彼が生まれたからといって、わたしがぞんざいに扱われるようなこともありませんでした」
「では、なぜ家出など?」
ナツメの真っ直ぐな視線に耐えかねて、アイラスは無意識のうちに目を伏せた。
「わたしに縁談が持ち上がったから、だと思います……」
「そんなにお若いのにですか?」
「実際の婚礼はまだ先になりますので、当分の間は許嫁ということになります。新大陸では珍しいかもしれませんが、北大陸の貴族の間ではよくある話なのです」
そこまで言うと、アイラスはわずかに体を震わせた。
「わたしの相手は、チックタイア家より家格が上ですので、チックタイア家としては利点があります。また、わたしの両親は陛下のおそばにお仕えしておりますので、相手にも利点があります。だから、おかあさまもおとうさまも、今回の話には乗り気でした」
そこでユースケがさりげなくフォローを入れる。
「ちなみにナツメさん、陛下っていうのはさっき出たアリアン伯爵のことね。今では北大陸を制覇して神聖皇帝イノエにクラスチェンジしてるよ」
「神聖皇帝? ……ああ、あのすっげえ美形の! 了解了解」
ナツメは納得したかのように何度か頷いてから、アイラスに視線を戻し、
「……話の途中で失礼しました。ということは、今回のお相手本人に問題があるということでしょうか」
と、一歩踏み込んで問うのであった。
アイラスは、うつむきながら、ぽつりぽつりと語り始める。
「そうですね……。彼は、わたしより二つ年上の幼なじみなのですが……悪人ではないと思うのですけど、家柄を鼻にかけるところが嫌だなあと。それに……」
「それに?」
「子どもの頃、前歯が抜けた時に、『歯抜けのブス子』ってからかわれたのが
どうにも許せなくて……」
「ほ、ほう……それはなかなか侮辱力のあるフレーズですね……」
「その後も、何かとつっかかってくるので、あの人と夫婦としていっしょに暮らすのはすごいストレスが溜まるだろうなあって」
「なるほど」
「そんなこともあって、考えてしまったのです。わたしは、いままでずっと誰かが決めたとおりに生きてきて、この先も同じように生きていくのかなって。そうしたら、急に実の父と会って、話をしてみたくなったのです」




