―家出娘と猫と指輪― ⑥
「先生、出番ですぜ!」
金歯のブラッキィが、二階に向けてお約束のセリフを吐いた。
ゆらりゆらりと降りてきたのは、ミーシャの報告どおり、魔道士の道衣を身にまとった人影であった。
カラスを象ったような覆面に隠れて、表情は分からない。その体から立ちのぼる甘ったるい刺激臭は、魔力を高めるために焚かれた秘薬の香りに違いなかった。
「ん、どうすればいいの?」
先生と呼ばれた覆面魔道士は、どこかのんびりとした口調で尋ねる。
「女の方は商品にするんで傷はつけないでください。男の方は……どうでもいいや、適当にバラしてもらえれば、それで」
「ん、わかった」
相槌を打つと同時に、道衣の両裾がそれぞれ異なる色に煌めく。
その瞬間、ナツメには【麻痺毒】、ユースケには【壊死毒】の魔道が撃ち込まれていた。
これらの魔道は、【魔道規範】において【劇術】に指定されており、理由もなく使えば、間違いなく処罰の対象になるような危険なシロモノである。
しかしそれは、これらの術が優秀な凶器であるということの証明でもあった。
ナツメは地に倒れ伏し、ユースケはといえば、激痛でのたうち回っている。
……はずであった。
なのに二人は、何事もなかったかのように立っている。
「もしかして、いま、なにかされた?」
とナツメが尋ねれば、ユースケは目を閉じ、頭をコンコンと指でノックする。
「うん、キラッて光ったよね。どうせタチの悪い魔道だと思うんだけど……」
先生こと【蛇毒のクサリナミ】の胸中に、じわじわと怒りの毒が染み出してきた。
最初の一撃は針の形にして打ち出した。
気付かれにくいし、威力の調整もしやすいからだ。
しかし、なぜか失敗してしまった。
これは、クサリナミにとって由々しきことであった。
おのれの存在意義は、この二つの毒術が全てであったから。
(どうして許すことができようか!)
クサリナミは激情に任せ、二人に向け必殺の一撃を放つ。
林檎ほどの大きさで、片方は鮮やかな黄色、そしてもう片方は赤の球体――効果そのものは先ほどの魔道【麻痺毒】【壊死毒】と同じだが、籠められた魔力の絶対量が違う。
常人であれば、直ちに呼吸が止まり、体中が崩壊するほどの猛毒であった。
「ストライク! いいタマ放るねえ。あたしと甲子園を目指してみるかい?」
ところがナツメは、その害意の塊をなんなく素手でキャッチして、そんな風におどけて見せるではないか。
ユースケは目を閉じたままであったから、避けることもできずに顔面で受けとめるが、そのことに気付いてすらいない。
「うーん、【魔縄束縛】だったら、縄のビジョンが見えるんだよなぁ……見えないってことは、状況から判断して【麻痺毒】かなあ……」
「ねね、ユウちゃん、ユウちゃん。これ、投げ返してみていい?」
ナツメが、手の内の【麻痺毒】をむじゃきに弄びながら、ユースケに尋ねた。
そこでユースケはようやく現状に気付き、
「うわ、なにそれ? 魔力の球? それでキャッチボールできるんだ!? ……いやいやいや、飛び散って周りに迷惑がかかるかもしれないから、やめたほうがいいよ」
とナツメをたしなめる。
すると彼女は未練がましい表情で、手中の魔力球を包むように握り潰した。
(えっ!? 何をした? 何をしくさりやがった!?)
クサリナミの常識は、この瞬間、木端微塵に打ち砕かれた――そして、お手製の怪しい練香によってブーストされていた脳細胞は、全ての過程を通り越し、真実に到達してしまったのである。
(こ……こいつらには……魔力が通っていないのだ!!)
【蛇毒のクサリナミ】は、良くも悪くも魔道士として純粋すぎた。
この世の森羅万象は、魔道で説明がつくものと信じて疑わなかった。
それ故、理の外にあるものを認識した瞬間、その精神はたちまち均衡を失ってしまったのである。
そのまま金切り声を上げながらバラックの外に駆け出すと、二度と戻ってくることはなかった。




