―キタブ・アッカの箱― ⑨
アルバートの目の前には、砂利ばかりの荒野が果てしなく広がっていた。
目を凝らせば、なるほど、前方30m程の所に燭台が立っている。
この燭台に灯りを燈すこと。それが彼に課された最初の試練であった。
さて、単に火を点けるだけならば、【発火】の魔道を使えばよい。
ただし、彼と燭台の間を、底が見えぬほど深い谷が隔てていた。【発火】の射程はおよそ1mであるから、まずは距離的な問題を解決しなければならない。
【飛行】か【空間転移】を使って、自分が谷の向こう側に移動するというのはどうだろう?
不可。どちらも魔道具を利用することが前提の高位魔道であるから、アルバート個人の力だけではどうにもならない。
では、もっと単純に【筋力付加】で脚力を強化し、谷を飛び越えるか?
不可。【筋力付加】は基礎的かつ強力な魔道ではあるが、使いこなすには専門的な訓練を積む必要がある。
ええい、ならば魔力を炎に変えて打ち出す【火箭】や【火球投射】ではどうだ?
不可能ではないが……どちらも精密射撃を目的とした魔道ではないため、今回のような状況で的中させるのは難しい。
(さて、どうしたものか……)
アルバートはわずかな思案の後、己の懐をまさぐってみた。するとそこには、いつものように巻煙草の箱が入っていた。
(身に着けているものは細部まできちんと再現されるのか。そいつは結構……)
箱から煙草を一本抜き取り、手慣れた【発火】の術で火を付ける。たちまち一筋の紫煙が立ちのぼるが、それを味わうこともせず、そっと手放す。
……するとどうだろう。煙草は地面に落ちることはなく、そのままふわふわと空中に浮遊しているではないか。
【念動】と呼ばれる魔道である。巻煙草のような軽いものであれば、30m程度の距離を移動させることは容易い。
ただし、操作される物体が術者から離れれば離れるほど、求められる集中力が大きくなるのは当然のことである。後にアルバートが語ったところによれば、「細長い棒の先に火のついた煙草をくくりつけて、もう一方の端を持って、30m先の蝋燭に火をつけるようなもの」だとか。
この試練を終えるまでに、アルバートは一箱分の巻煙草を失った。
§ § §
――夕刻。
アルバートはナツメとユースケと夕食を共にしていた。
「それで、終わりは見えた?」
ユースケの問いに、アルバートはかぶりを振る。
「正直なところ、わからん。最初は先ほど話したように簡単なものであったが、だんだんと内容が複雑になってきおってな。一問解いては図書室に籠り、また一問解いては……といった有様よ」
それを聞いたナツメは、眉間に皺をよせて呟く。
「うええ、それはお気の毒さま」
ユースケも、実感のこもった声で言った。
「まあ、勉強が好きな人なんて、そうはいないよねえ」
それを聞いたアルバートは、意外そうに眉を上げる。
「おや、それだけ博識なユースケでも勉強は嫌いか?」
「……どうでもいい知識を得ることは好きなんだけど、目的をもって何かを学ぶってなったとたんに頭が拒否反応を示すんだよ」
その時アルバートは、ナツメが少し複雑そうな顔をしたことに気が付いた。
ナツメは、そんな視線を感じとったのか、わざとらしく声を上げる。
「あー、ユウちゃん、学校の成績は壊滅的だもんね!」
「そうなのか?」
「うん、正直あたしよりひどい……」
「それは聞き捨てならないんですけど! それって9教科の平均の話でしょ!? ナツメさんなんか英語『1』じゃん。さすがの僕でも5教科に『1』はないよ! 『do』の過去形を『doed』って回答したって、アメリカ人もびっくりだよ!」
「ふふん、イギリスでは『doed』が正しいんですぅ! やーい、ばーかばーか!」
「えっ? ……噓でしょ? ……嘘だよね?」
「英語が10段階で『2』のユースケくぅん、嘘だって証拠はあるんですかぁ?」
「ぐぬぬ……」
不毛なじゃれあいを続ける二人を眺めつつ、アルバートがしみじみと言った。
「……いや、まあ、なんだ。かく言う儂も真面目な学生ではなかったからのう」
その言葉を聞いたとたん、ナツメがぱっと顔を明るくする。
「知ってる! ロックンローラーだもんね! カッコイイ!」
「ええい、茶化すな! そもそも、ロックンロールとはどういう意味なんじゃ?」
「え? 意味? ……反体制音頭……かなぁ?……細かいことはいいんだよ! 言葉で説明できることじゃない! 心、心で感じるんだよっ!」
ユースケは(さすがにイギリスでも「反体制音頭」はねえだろ)と思ったが、自分もわからないので黙っていることにした。
一方、それを聞いたアルバートはと言えばだ。
「反体制音頭……反体制音頭か……ふむ、確かに言いえて妙じゃの。気に入った」
そんなことを呟いていたが、ふと、遠い目をして――
「思えば、若いころは『誰か』に『やれ』と言われるのが苦痛でしょうがなかった。『誰か』のほとんどは、儂の将来を思って『やれ』と言ってくれたのだろう。だが、極々わずかの『誰か』が、エゴイズムのために儂を利用しようとした。当時の儂は、そうした腐臭を嗅ぎ分けられるほど大人ではなかったから、なにもかもが腐って見えたのじゃろうなあ」
「――じゃあ、大人になった今はどうなの? 区別はできるようになった?」
ユースケにそう尋ねられ、一瞬わが身を顧みて、アルバートは溜息をつく。
「……とんでもない。それどころか、いつのまにか自分も腐臭をまき散らす側に立っておったわ」
かつてアルバートは【絶対零魔力】を持つナツメとユースケを政治的に利用しようとしたことがあった。
それは、彼らがこの世界に召喚された直後のことであり、上からの命令に従っただけではあったが、今でもそのことが心の片隅に罪悪感として残っている。
「そういえば、あたしもユウちゃんも、かなり危ない目にあったよねぇ」
そんなアルバートの心の機微は、ナツメに悟られていたらしい。
「あ……その節はまことに申し訳なく……」
「ちょっと、ナツメさん、やめなよ。あれはアルバートさんの立場からしたらしょうがないって」
「いやいや、しょうがないで済む話だったかなあ、あれは」
アルバートをかばうユースケを押しのけ、「いひひ」とナツメが意地悪く笑う。
「その件についての謝罪の気持ちは金銭でのみ受け付けるから、ゴリゴリ勉強してカキュー的速やかに試練を終えて、早く財宝を手にしてくれたまえよ!」
「お……おう、期待していてくれ」
嫌な流れになってきた。そう感じたアルバートは、これ以上の追求を避けるため、カキュー的速やかに話題を変えることにした。
「いやいや、それにしても、こうして改めて勉強というやつに取り組んでみると、なかなかどうして面白いものでな」
「さっきとは言っていることがずいぶんと違うじゃん。年をとったからとか、そういう話?」
「何と言うかな……そうさな……儂、最近は後輩も増えて、教官の真似事などもしておるんじゃが、これがなかなかに難しいわけよ。知識や技術をどうすれば上手に伝えられるか、それも『退屈させずにおもしろく』などと考えだすと、時間がいくらあっても足りぬ」
ナツメは「ふーん」と気の入らぬ返事をする。
「それでな、一度そうした視点に立ってから学ぶ側に回るとな、例えばつまらない教本を読んだとしても『ああ、筆者のセンセーはもっとオモシロオカシク書きたいのだろうが、嘘を交えずに隙の無い書き方をすると、このように無味乾燥とせざるを得ないか』とか、『なるほど、一文にこの記載量は過重に思えるが、次の段階に読み進むためにはやむなしか』とか、そういった意図を察せられるようになって、自然と親しみが湧いてくるわけでな――」
ナツメは、半ば呆れたような声で、
「ちょっと、とっつぁんのロックンロールはどこにいったのさ? つまんねぇ教科書にそこまで気ィ使うって……職業病も大概にしなよ」
「つまらんよりは面白いほうが良いではないか。儂は本気でそう思うぞ。……ま、そんなこんなで、このままずっと勉強していられたら、それはそれで幸せな気がしてきたというわけよ。仕事みたいに怪我することも、上下の板挟みになることもないしのぅ!」
「何となくわかる!」と同意するユースケを横目に、ナツメはきっちりと釘を刺す。
「手段に溺れて目的を見失わないでよ? あーあ、こりゃあ、お宝を手にするまで随分と時間がかかりそうだねえ」




