―キタブ・アッカの箱― ⑦
キタブ=アッカは、飾り気のない茶器に入った紅茶を一口啜ると、アガクを真っ直ぐに見据えて言った。
「なるほど、今回の件にはアガク大師が一枚噛んでおいででしたか。それならば我が眩術が看破されたのにも、納得がゆく」
穏やかな声音とは裏腹に、【箱に憑かれた男】の視線は、鋭く厳しい。
だが、対するアガクは表情一つ変えず、その視線を受け止める。
「偶然に偶然が重なっただけのことだ、キタブ=アッカ。そうでなければ、私とてこの場に至る手段を見出すことはできなかっただろう」
それから、逆に老魔道士の目の奥を覗き込み、こう付け加えた。
「――それに、【本鍵】は未だ破られていないのだろう?」
キタブ=アッカが、わずかに目を伏せた。
「いかにも。【本鍵】を解いたものだけが、宝を得ることができるのです」
「宝とは、何を指している」
「……開けてみるまで中身はわからない、それが箱というものでございます」
キタブ=アッカの発言は比喩につつまれてはいたが、アガクからの問いかけに答えるつもりがないことは明白であった。
成り行きを見守っていたアルバートは、総身に冷や汗を掻く。
今、ここで火花を散らしている二人は、「生ける伝説」といってもさしつかえないほどの魔道士である。その対立に挟まれた凡人の立場では、生きた心地がしないのも当然であろう。
だが、当のアガクはといえば、キタブ=アッカの返事を気にも留めず、むしろ愉快そうな様子で問答を続ける。
「私が【本鍵】を開ければ、宝は私のものになるということだな」
「左様でございます。左様ではございますが……」
動揺したのであろうか。一瞬、キタブ=アッカが言葉につまる。
「その……なんと申し上げますか、そういたしますと……箱を開けた時の喜びが失われてしまうと私は思うのです」
「それは、なぜだ」
「これ以上お伝えするのは、実に難しいのです。箱の管理者としての領分を逸してしまいますので……」
キタブ=アッカは、しばらく考え込んだ後、慎重に言葉を選びながら続けた。
「この箱には、かつてアガク大師が、チネモカ大師やアダヴァナ大師とともに錬り上げた宝が納められているからです」
(伝説の外道三師が関わったお宝じゃと!? 途方も無い話になってきおった……)
アルバートが、心中ひそかに仰天したその時であった。
アガクがキタブ=アッカに向け、小さく頭を下げたのである。
「よくわかった。【箱に憑かれた男】よ、随分と苦しい思いをさせてしまったことを詫びよう。これ以上興を削ぐような真似はしない。約束する」
威圧でも皮肉でもない、心からの謝罪であった。魔道の宗家と言っても過言ではないアガクの謝罪は、魔道士にとって非常に重い意味を持つ。
なので、それを受けたキタブ=アッカは慌てて、
「こちらこそ出過ぎた真似を――」
と言葉を返すが、アガクはそれを制するように、ふいに語調を変えた。
「だが、この箱を開けるべき者ドライアンは、すでにこの世におるまい」
「然り……この箱の作成依頼があってから200年近く経っておりますからな。まさか外界でそんなにも時が経っていようとは、思いもいたしませんでした――開けるべき者が失われた箱……。それは悲劇を通り越し、滑稽ですらあります」
キタブ=アッカの声からは、深い寂寥の念が感じられた。
するとアガクは、何食わぬ顔で、こんなことを言い出したのである。
「ならば、このアルバートが開けたならばどうだ」
なぜ、アガクが自分を推してくれたのか、アルバートには見当もつかない。
だがそのおかげで、消えかけたアルバートの希望の蝋燭は再点灯したのである。
(おおお!? ナイス、ナイスアシストじゃアガク大師!)
キタブ=アッカは、顎に手を添え、じっと考え込んだ。
「依頼主は、ドライアン殿以外が箱に挑む状況を、全く想定しておりませんでした。それゆえ、ドライアン殿以外の者が箱に挑むことを敢えて禁じはしなかったのです。すると、この箱に定められた決まりごとは、『我を開きし者に、尽くることなき富を授けん。追求者よ、二の指を鍵とし、富貴公の名を三度唱ふべし』――これが全てでございます」
アガクは、その言葉に畳みかけるように言った。
「紆余曲折はあったが、アルバートは富貴公の名を三度唱え、『追求者』として名乗りを上げたのだ。問題はあるまい」
「……よろしいでしょう。ただし、【本鍵】が未だ手つかずのまま残っていることをお忘れなく」
アガクは、興奮を必死に押し隠しているアルバートに声をかける。
「――ということになったが、どうする。【本鍵】に挑戦してみるか」
「もちろん、もちろんですとも!是非にでもお願いいたします!」
§ § §
黒い石柱が鎮座する部屋に、キタブ=アッカの声が響き渡る。
「それでは、【本鍵の試練】について説明申し上げる。この試練は、追求者として名乗りをあげたアルバート殿を対象として、『箱の中身を手にするにふさわしい魔道的素養を備えているかどうか』このことを把握するために実施されるものである。また、その判定基準は、知識・技能のみならず、思考力・判断力・表現力の総合評価に基づくものとする――ここまではよろしいか?」
(……なるほど、宝とはどうやら高位の魔道具らしいの)
アルバートが無言でひとつ頷いたのを見て、キタブ=アッカは話を続ける。
「試練は、この箱の【中枢】(即ち件の黒石柱である)を用いて行う。【中枢】は、おぬしの脳と魔道を介して接続し、仮想空間を展開する。その空間の中で、箱が出題する試練を乗り越えるのだ。ちなみに、その仮想空間で発生した事象は、夢の中と同じようなもの。事故が起きたとしても現実に影響はないので安心するがよい」
「以前、魔道士組合で同じような試練を受けたことがあります」
「それならば話は早い」
そこで、おずおずとアルバートが手を挙げ、尋ねた。
「あの……試練に失敗した場合はどうなるのでしょう。受験する機会は一度きりなのですか?」
「いや、その様な条件は指定されておらぬ。何度でも再挑戦が可能だ」
「いつからいつまでといったような時間の制限などは?」
「無し。強いて言うならば、おぬしの命数が尽きるまで」
「試練が終わるまではこの箱から出ることができない――という認識でよろしいでしょうか?」
「否、ひとたび追求者と認定されれば、この箱にはいつでも自由に出入りができるぞ。ほれ、そこに鍵穴の形をした出入口があるだろうが。食事や睡眠、排泄といった俗事については、外に出て済ませてくれ」
「……出入りが自由ということは、例えば外から魔道具を持ち込んで試練を受けてもよろしいので!?」
受験生があまりに必死なものだから、試験監督は苦笑を抑えきれない。
「かまわぬかまわぬ。ただし、試練内容にそぐわぬ魔道具については、【中枢】の判断で仮想空間に持ち込むことができないようになっておるからな。ちなみに、この箱には図書室が併設されておる。自由に使ってもらってかまわんぞ」
アルバートは、唖然とした表情で尋ねる。
「随分と優しくはないですか?」
「箱の中身を狙う卑しき盗賊ばらが相手ではないからの」
キタブ=アッカは、穏やかな表情でそう答えたが、ふと真顔に戻って、
「……おや、追求者どのはもっと厳しい条件がお好みかな? わかる、わかるぞ! 箱が厳しければ厳しいほど、中の宝はより輝くものよ!」
そんなことを言い出したものだから、アルバートは思わず大慌てである。
「めっそうもない! なんですってアガク大師? ユースケとナツメも心配しておりましたか! そうでしょうとも、そうでしょうとも! いったん戻るといたしましょう! ささ、早く早く……」




