6話
レアと名付けられた少女は完璧に整理された己の記憶を辿っていた。
人生で最も濃密だった三年間を過ごしたこの地を近い内に離れると告げられ感傷に浸る。
月と星の明かりのもと、果てなく広がる草原の小高い丘。
そこに立つ小屋は彼女の全てだった。
もっと厳密に言えば、外に置かれた木の椅子に深く座り足をテーブルに乗せ眠る一人の男が、レアの人生であった。
風は穏やかであり気温も低くない。
それでもレアは小屋の中から毛布を持ち出し、星空のもとで深く眠る男、シュラの体を冷やさぬよう羽織らせる。
無防備に眠るシュラ。神殺しを成した唯一の人間にして、レアの主。
莫大な財産、国家を揺るがす機密の数々、失われたとされる宝物。
激動のカレイド大陸を暗殺者として生き抜いた彼に残ったのは、そんなガラクタの数々と神殺しの代償だった。
レアはその話を幾度となくされたことを思い出す。
『究極に至れ』と言われ続け、レアはそれに従い続けた。
人形のように振る舞えばシュラの機嫌が良くなったので鉄面皮を心がけた。
強くなるたびにシュラが笑いかけてくれると知り、力を追い求めた。
静かに眠るシュラをしばらく眺めていたレア。
引っ越しの荷造りが残っていたために小屋の中へと戻り、再び作業へと取り掛かる。
その時ふと、とある部屋の扉が開いていることに気付く。
(…………この部屋は、シュラ様の)
この小屋に個室と呼べるものは三つのみ。
レアの寝室、物置、そしてシュラの書斎。
入るなと言われていたわけではないが、入れとも言われたことがない。
三年前であればレアは扉を閉め見なかったことにしていたであろう。
だが、今のレアは少し違った。
(……失礼致します)
共に過ごすうちに己の主を知りたく思う欲求は強まるばかり。
出生や家族の話などは全くしないシュラの過去を、レアは求めていた。
部屋の中は大量の書物や資料で埋まっていた。
壁一面に留められた情報の数々はとある国の離宮への裏経路であったり、要人の隠し子や不祥事をまとめたものなど、表に出せないものばかり。
床に転がる紙束には獣に関する資料がまとめられていた。
その生態や生息地域、狩猟方法に調理方法などが事細かに記載されている。
乱雑に置かれるにはあまりに上等な調査書。
(……掠れたインクの痕からして、書かれてから十年近くは経過しているでしょうか)
そっと元あった場所に戻し、最後に唯一置かれた机の上へと向かう。
そこにはこれまでとは少し趣が異なる書物がページを開いたまま置かれていた。
「これは、神学書……?」
この世界にいたとされる、あるいは今もなお世界の何処かに存在するとされる『神』。
それに関して記述された本の数々が並べられていた。
時折ページの間にシュラが書いたとされる私見をまとめた紙が挟まれていたりと、研究の跡が見える。
レアは三年の間ずっと考えていた
なぜシュラは助かろうとしないのか、と。
神殺しを果たすほどの力と知識があれば、神の血の呪いから逃れる術を探求することもできたのではないのだろうか?
未熟な奴隷を拾い教育するなど遠回しなことをせずとも、生き永らえて己で究極に到達すればいいのではないか。
レアの疑問に答えるように、この部屋には神々を解き明かす研究資料が無数にあった。
(……やはり、シュラ様はご自分で探求しておられたご様子。
叶わなかったのでしょうか、そのご意思は)
レアを拾ってからも神の血から解放されるために研究を重ねていた。
そう帰結に至るまでに時間はかからなかった。
自分の命にあまりにも無沈着であり超然とした振る舞いから、レアはシュラが生きることに未練などないのではないかと疑いを持っていた。
だが、そこに生きる意志があることに、彼女は少し安堵していた。
(…………私であれば)
救える。
知らぬことはこれから知れば良い。
その心血を注ぎシュラを延命させることだけに注力すれば不可能など無い。
そう自負するほどに彼女の知恵と力は練り上げられていた。
己の主が不可能であったことを可能にするべく育てられた者としてもそれは本懐に近い。
その瞬間からレアの赤い眼に光が灯る。
神々の名や体系、推測される所在や力など、ページを高速で捲るたびに無数の情報がレアの脳裏に蓄積されていく。
そんな折に、本人の意識に先行して働く思考が奇妙な異物の存在を叫ぶ。
無意識に感じたそれの正体を探すべくレアは今一度資料を振り返る。
違和感の源泉は一つの文章、一つの書籍、一つの解、そのどれでもなかった。
言うなれば全て。
「……本の発行日」
流通している書籍の多くには出版会社による発行日の記載がある。
本の裏側などに直接押印されてるものが多く、それがレアの目に一瞬留まっていた。
思い立ち、机の上に並ぶ神学書の全てを確認する。
「………………やはり、五年以上前のものしかない」
一つ違和感を紐解いたことで雪崩のように結論が押し寄せる。
魔神の出現もあってか、神学の分野は日夜研究、更新され続けている。
直近三年以内に出版された書籍が一冊も存在しないこと、そして次にレアの目に留まったのはシュラの書き記した神々についての所感や推察だった。
ご丁寧に右下端には記載した日付が書き込まれている。
「……これも、三年以上前のものばかり」
シュラの記述はそのどれもが三年より前のものだった。
レアの思考が僅かに止まる。
これではまるで、シュラが神殺し前に全ての探求を終え、それでいてなお神殺しを決行したことになる。
「…………『この契約を最後に、全ての依頼の受付を終了する』」
見つけてしまった最後の記述。
日付は神殺し決行の四日前。
その遺書のような綴り方には相応の覚悟が伴っている。
「……………………どうして」
なぜ自殺のような真似をしたのか。
その返り血が己の身体を蝕み殺すと知っていてなお、なぜ神殺しに臨んだのか。
己の主が生きることを諦めていることを改めて知った悲しみもあったが、今のレアにはそれ以上の感情に動かされていた。
どう殺したのか。
誰に依頼されたのか。
己の命を賭してまで挑むものであったのか。
この三年間、レアはシュラの言葉の全てを記憶していた。
その思考は合理の極致であり、己の力に関しても喪失の恐怖に突き動かされていると言うよりかは純粋に損失を憂いている風であり、死へ向かう者の暗澹な言葉は一つとて無かった。
稀に酒を嗜んでいる際に、上機嫌に語っていたのは閉ざされた己の未来への悪態ではなくレアの展望ばかり。
そんな日々の裏側でシュラが何を抱えて生きていたのか、レアは純粋に気になっていた。
訊けば教えてくれるのか。
だが、必要以上の言葉を発した経験が無く、問うことは躊躇われる。
何よりも、それを追求することをシュラが望んでない可能性が高いと思われる中で、勝手な働きで煩わしさを与えることはもってのほかだった。
「……」
結局のところ、レアは全ての書物や書類の配置を寸分狂わず元に戻し部屋を後にした。
全て変わらず元通り、だが彼女の意志には数刻前までとは異なる決意が刻まれていた。