2話
ベイル共和国北部ナザレア地方。
豊かな牧草地、人の手の入っていない山々や渓谷。
そこに小さな小屋一つ。
「今日からここがお前の住処だ」
「……」
この少女はここに来るまでに口一つ開かなかった。
言葉を知らないわけではない、声を出せないわけでもない。
喋ろうとしないだけだ。
「俺はお前の主、シュラだ。
兄でも父でもない、お前の力そのものだ」
「…………?」
「順を追って説明するか。
まず俺は神を殺した。その返り血が体内に入り込み、近い内に俺は全身が硬直して死ぬ」
「……!」
「だがもったいないだろう?
神を殺す力がそんな簡単に失われてしまうなんて。
だからお前に託す。お前を買ったのはそのためだ」
よく考えたら買ってはいなかった。
まあいいか、どのみちあいつ等に払う金なんて無かったし。
「朝から晩まで戦闘訓練と座学だ。
泣き言を言えば山に捨てる。拒めば殺す。いいな?」
「……」
頷くことすらしないが、まあそれはいいか。
あの時、十九番地に火を放つことを拒んだことから心が死んでいるわけではなさそうだ。
「さて、今から飯を調達しに行く」
小屋が建っている丘を下れば大きな森が広がっている。
野生動物の宝庫だ。狩る側であれば食うことには困らないだろう。
「……そう言えばお前の靴を買っていなかったな」
流石に裸足のまま野山を駆けらせるわけにはいかない。
要らぬ傷から穢れが入り込み骨まで達することもある。
「仕方ない、運ぶか」
少女の頭側が背にいくように肩に担ぐ。
重さなど無いも同然だ。
しばらく歩けば木々に囲まれる。
古い信仰か、崩れた遺跡だったものがあちらこちらに転がっている。
「いたぞ」
大きな柱に少女を降ろす。
視界の先にはそれほど大きくない牝鹿がいる。
こちらを見てどうしたものかと固まっている。
近付けば逃げるだろう。
「狩ってみろ」
無茶を言っているの承知だ。
だが、何も教わっていない無垢な状態で何を考え行動するのか。
根幹の思考を知るのは大事な事だ。
「……【水】よ」
初めて声を聞いた。消え入りそうな呟きだ。
少女の指先に灯った水が鏃となり鹿へ向かっていき、
「ぁ……」
難無く回避される。
そのまま牝鹿は森の奥へと消えていった。
失敗だ。
「己の持つ最も優れた武器を選んだのは正解だが、野生には愚鈍も怠惰も無い」
「……」
少し落ち込んでいるのか?
その感情が原動力になればいいが。
「この森で魔法は禁止だ。あれには不要な破壊が伴う。
対象以外を無闇矢鱈に害するのは暗殺者ではない」
「…………」
頷きを確認。
どうやら話を聞く気はあるようだ。
反抗も見られないし中々にやりやすい。
「武器の持ち込みなど基本的には望めないものだ。
いつ如何なる時も身一つで捌ける器量が無ければどれだけ優れた武芸者であろうと簡単に命を落とす」
小枝を拾い上げる。
道すがら拾った赤い木の実を蔓で括り付け、少し離れた木にとまる野鳥に投げ付ける。
直撃はしない。
代わりに赤い木の実が盛大な音と共に弾ける。
飛び立つはずだった野鳥は地面に落ち、羽ばたき続けてはいるが身体を地面に擦り付けるようにもがくばかりだ。
「多くの生物は音と光に弱い。
特に野生動物は優れた感覚器官の代償として、三半規管や視神経への衝撃が有効に働く」
先程投げ付けた枝を拾い、もがく野鳥に突き刺す。
これを折らずに生物の外皮を貫けるかは腕次第だ。
拾った赤い木の実を少女の足元へ転がす。
まじまじと観察した後、今度は石を遠くから転がる木の実目掛けて投げる。
破裂音が連続し木々にとまっていた鳥たちが一斉に逃げていく。
引き起こした少女自身も音に揺さぶられ目を見開いて硬直している。
「人間も例外じゃない。
英雄と呼ばれる超越者たちですら音を聞いて目で見てる以上、この類いの衝撃で怯まないことはない」
少女は裸足のまま赤い木の実を集め始めた。
集めてどうするのか訊く必要はないだろう。
しばらく神殿跡で座っていれば、今度は先程とは別個体の牝鹿が現れる。
群れの徘徊経路なのか、神殿を建てるために木々が刈られたこの場所は陽の光がよく射す。
鹿は俺たちを見るに静止する。
動物は多少の個体差はあれど人間とは異なり基本的には本能に則した行動を取る。
さて、少女はどうするのか。
魔法は禁止だが。
「ぁ、……あぁーー!」
叫んだ。
いや、叫んだと言うには小さすぎるか?
鹿も一瞬たじろぎ後ずさったが、余りにも迫力に欠けていたために逃げるまではいかない。
「…………ぁー」
小声で威嚇?しながら少女はじりじりと鹿に近付いていく。
たまらず鹿も少しずつ後ずさる。
その時、鹿が緑の何かを踏む。
そのまま今日一番の破裂音が細かく連続する。
「葉に包んだか。確かに、シュカの実は赤く目立つから野生動物は滅多に踏むことはないが」
赤い木の実を大きめの葉で包み、それを転がした先に誘導する。
一個では確実性に欠けると踏んだのか、五つほど用意してあったのも高評価だ。
鹿は音と衝撃に横転し立ち上がろうと前後の足でもがく。
少女は少し大きめの石を何とか持ち上げ、それを放る。
そして外す。
「ぁ……」
頃合いだろう。
ナイフを抜き、鹿の首を落とす。
残った体が少し暴れたのち静かになる。
「初日にしては上出来だ。
お前一人なら三日分は食える量だ」
携行した布で鹿の体を軽く包み持ち上げる。
「……あ、お前も担がなきゃいけないのか」
こちらをじっと見ているからなんだと思ったが。
早いところ靴を買い与えなければ。