前編
新しく書きました!お楽しみいただければ幸いです!
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―――今日はちょっと、嫌な予感がしてたの。
「おい、そのうさぎ、俺に寄越せ」
「え………」
ぽかんと、呆けてしまった。
目の前の、私の婚約者、ディナン殿下を見る。
彼も、くるりとした栗色の髪の下で、緑色の目が意地悪そうにこちらを見た。
……ちがう、いじわる、なんて思っちゃいけない。
『殿下の婚約者になったのだから、立場をわきまえなさい』
『殿下に請われたら、否やと言ってはいけませんよ』
滅多に話しかけられない、父様と母様からの言葉。
守らなきゃ、いけないのに。
「……どうした、ファニティ。いつものように、お前はハイと言えばいいだろ」
怪訝そうに見られる。
そう、最初は私に取り分けられた、一枚のクッキーだった。
どうぞ、と差し出してから、どんどんと殿下は私のものを欲しがるようになった。
侍女に作ってもらった花冠。
髪に飾っていたお気に入りのリボン。
おばあ様が買ってくれたカメオのブローチ。
お友達のサリーナが刺繍してくれたハンカチ。
その内、大事なもの全部取られちゃうんじゃないかって。
だから、今日、殿下に私の部屋を見たいって言われたとき、どうかこの子以外を欲しがってくれますようにってお祈りしたのに。
このうさぎのぬいぐるみは、この子は。
母様が直接渡してくれた唯一のプレゼントがこの子で。
父様も母様も、いつも家に居ないから、ずっと一緒に居てくれたのはこの子で。
寂しい言葉も悲しい涙も、全部受け止めてくれたのはこの子で。
「まったく……もういい。これはもらうからな」
「あっ……」
後でねと撫でたうさぎの頭を、殿下が乱暴に掴んだ。
……嫌だ、と思っちゃ、いけない。ハイ、って言わなきゃ。
のろのろと口を開いた、その時に。
≪気持ちに正直にならなきゃ!嫌なものは嫌って言っていいんだよ!≫
頭の中に、声が響いた。
びっくりしたのと同時に、やっぱり嫌だって気持ちが溢れて、どうしようって気持ちも混ざって。
―――涙が、零れた。
「なっ、お、おいっ、なんで泣くんだ!」
「う……うぅ…もうし、わけ……」
泣くの、止めなきゃ。だって、レディなら泣いちゃ、いけなくて。
でも、こんな風に人前で泣くなんて初めてだから、どうしやって泣き止めばいいかわからなくて。
≪王子狼狽えてるわ、ザマア!どんどん泣いちゃえ!!≫
また、同じ声が響く。
女性、だろうか、男性?声質はぼんやりとしていて、誰なのかわからない声。
……それにしても、ざま、あ???なんだろう、わからないけど……。
わたし、泣いても、いいの???
わからなくて、ディナン殿下をちらりと伺う。
涙でぼやけてよく見えないけど、私をじっと見てる???
どうしたらいいんだろう、と頭を傾げたら、殿下からグゥッって変な声が聞こえた。
「……嫌、なのか?」
そう殿下から、問われる。
もちろん、嫌に決まっている。……言っても、いいのかな。
ぱちぱちと瞬きをすると、目に溜まっていた涙が流れて、少しだけ殿下がはっきり見えた。
……殿下の目が、瞬きもしてなくて……ちょっと、こわい……。
不思議な声はもう聞こえてこないけど、正直になっても、いいのかな。
「……いや、です……そのこ、は、おともだち……なんです」
手をぎゅっと握りしめながら、体中の勇気を集めて、殿下に答えた。
………だめって言われたら、どうしよう。
お願いダメって言わないでって思いながら、殿下をじっと見る。
と、ちょっと頬を赤くした殿下が、勢いよく私にうさぎを渡してきた。
「ほら、返すから!」
―――かえって、きた。
撫ですぎてくたっとした手触り、わたしのお友達が。
「い、言えばいいだろ!嫌だって!」
「……言っても、よいのですか?」
「当たり前だろ、僕たちは、ふ、ふうふになるんだからな!」
―――うれしい、うれしいうれしい!!!
「次からはちゃんと、言うんだぞ」
「はい、ありがとう、ございますっ!」
うさぎをぎゅっと抱きしめて、殿下へ自然と笑みが零れた。
「…………………………かわい」
「???はい、どうかされましたか?殿下」
「―――なんでもないっ!」
顔を真っ赤にした殿下が、顔を背けて大声を出す。
―――なんだろ………???
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「ティティ、今日はゆっくりできそうなんだ」
「まぁ、それはようございました、殿下」
にっこりと私をエスコートしながら、美しくセッティングされたテーブルへ席に着く。
―――あの日を境に、ディナン殿下は少し変わった。
月に一度に殿下に会う予定が、週に二度になったり、私の名前『ファニティ』の愛称の『ティティ』で呼ぶようになったり。
だけど。
「そのケーキ、俺にくれないか?」
「………………」
少し、なのは、相変わらず私のモノを欲しがるのは変わらなかったからだ。
……困った。
だって、今日とっても楽しみにしてた、パラン・ルージュの季節限定のイチゴのケーキ。
予約でいっぱいだからもう食べれないのに、特別に王宮へ献上したって噂でのケーキ。
今日食べれるって聞いて、昨日は眠れないくらいだったのに。
でも、殿下もこのケーキが気に入ったから、たくさん食べたくなったのかも……。
どうしよう、って混乱すると、勝手に涙腺が緩んでしまう。
……こんなことくらいで、泣きたくないのに。
殿下だって、嫌って言っていいって言ってくれてるのに。
≪そんなの、いいのよ!!泣きたいときは泣く!しかも殿下相手なら効果的よ!≫
不思議な声も、相変わらず聞こえている。
半分くらい言っている意味がよくわからないけれど、私のことを応援してくれてるのは伝わってるから、この声のことは誰にも相談していない。
声に背中を押されたように、潤んだ目から涙がこぼれそうになる。
「あ、あの、殿下」
「ん?なんだ?」
この時の殿下は、少しだけ怖い。
だって、普段から鋭い緑の視線が、更に強くなって私を見るんだもの。
侍女たちは『瞳孔が開いてる』とか『三白眼ならぬ四白眼になってる』とか言っていたけれど、これがそうなのかしら?
「わ、私、このケーキを今日、とっても楽しみにしていて……」
「うん、それで?」
「だ、だから、その、お譲りするのは……い、いやです!」
嫌って拒否するのは、いつもドキドキしてしまう。
大丈夫かしら、殿下は嫌な思いをしないかしら、あぁ、また涙が出てきてしまう!
たっぷりと間をおいたディナン殿下は、にっこりと微笑んだ。
「嫌なんだな?わかったよ、ティティ。ケーキは貰わない」
「ほ、本当ですか!」
よかった!殿下、それほど食べたかったわけじゃないみたい!
単純だけど、ほっとしたのとうれしいので、頬が緩んでしまう。
「――――――あーーーー、かわい」
「??あの、殿下、何か……?」
こういうやり取りの後、決まって殿下は小声で何かを言う。
婚約者とはいえ男女の適切な距離をとっているから、小さな声で言われると全く聞き取れない。
「なんでもない。ティティ、俺の分も食べるか?」
「えっそんな、殿下の分もいただくなんてできません!」
「なら半分だ」
「あっ」
私の返事を待たないで、殿下はひょいっと私の皿へ自分のケーキを半分置いた。
……うれしい……。
そう、殿下は私へ何かとくれるようになった。
このケーキみたいに、私が嫌だといった物は持っていかないばかりか、私が欲しがっていた物を、何故か知っていて贈ってくれるのだ。
親戚からもらったそんなに気に入っていないイヤリングや、刺繍が下手で殿下へ差し上げるのを止めたハンカチは、問答無用で持っていってしまうのだけれど。
じぃっと殿下に見られるから、ケーキがとっても食べにくいけど、せっかく殿下からいただいたのだからと食べる。
―――お、おいしい!!!
イチゴの絶妙な酸味と甘み、コクがあるのにいくらでも食べれてしまう生クリームに、スポンジとは別のアクセントで間にサクサクのパイ生地が!!!!
口の中の幸せを少しずつ噛みしめていると、殿下も幸せそうに笑みを浮かべた。
「美味しいか?」
「はい!おいしいです!」
前までは殿下と会う日は緊張していたのだけど、今では少し楽しみになっている。
いじわるだけれど、私の言葉を聞いてくれて、私の欲しい物を考えてくれる殿下とは一緒に居て安らげる……は、ちょっと、虫のよい話かしら……?
そうだとしても、私たちは夫婦、になるのだもの、こっちの方がずっといいわ。
ケーキをまた一口と、舌の上でとろけるクリームに幸せを感じる。
ふふふ、今日はとってもいい日だわ。
殿下もうれしそうだし、ケーキはおいしいし。……こんな風になるなんて、思ってもみなかった。
あの、私の味方のような、不思議な声のおかげだわ。
躊躇うとき、迷うとき、悲しいとき、困ったとき、私の背中を押してくれる、あの声。
もしかしたら、幼い頃絵本で読んだ、天使様なのかもしれない、なんて。
まるで世界中が私の味方になったような、そんな浮かれた気分で、今日という日が終わった。
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―――十六歳になった。
「ティティ、こっちに来るんだ」
「はい、ディナン様」
手を繋いで、始業式を開く会館へとディナン殿下と一緒に歩く。
今日から貴族院が運営する学園へ、ディナン様と共に通うのだ。
他家との交流のため、二年ほど学園という閉じた世界で過ごす。
週二回ディナン様と会う私は、王子のスケジュールに合わせるために、余程のことでない限り予定を開けておかなくてはいけない。
故に同年代の子息子女と交流が殆どできていないため、どんな方がいるのか、不安と期待で胸がいっぱいだ。
ディナン様は相変わらず私のモノを欲しがるけど、今みたいに手を繋いだり、頬にキスしたりするのがお好きなようで、最近は隙をみてはされるようになった。
……その度に私は恥ずかしくて照れてしまうのに、ディナン様は一向に止めてはくれないの。
この間された、軽やかな頬の感触を思い出して、じわりと頬が赤くなる。
「……卒業したら、結婚、だな」
「?はい、そうですね。でも早いですよ?今日入学したばかりですのに」
くすくすと思わず笑い声が出てしまう。おかしなディナン様。
そんな私を目を細めてみていた見ていた彼は、握っていた手をぎゅっと強くした。
―――どんっ!
「ご、ごめんなさぁ~い!」
ディナン様の背中に、ぶつかってきた、女生徒が。
……びっくりした。こんなことが、あるの?第二王子であるディナン様に、ぶつかるだなんて……。
驚きすぎて言葉を失っていると、苛立ったディナン様が振り返った。
「……気を付けたまえ」
「―――え?なんで?」
起こした行為にしては寛大な対応のディナン様へ、予想外と言わんばかりのぶつかってきた彼女。
……なんて言われると思ったのかしら?ちょっと怖いわ、この方……。
頭の中で思っていると、唐突にあの不思議な声がした。
≪怖がるのいいかも!その怖い気持ち、王子へぶつけてみて!≫
……………え、そんな不躾なこと、してもよいのかしら?
わからないけど、声に従ってみよう、かな。
ディナン様の袖をくいっと引っ張る。
女生徒へ向いていた彼の顔が、勢いよくぐりんと私へ向いて、ちょっとびっくりした。
そのびっくりした拍子に、少しだけ涙がにじむ。
「あの、その、ディナン様……?私、その、ちょっとこわ「大丈夫だティティ、俺が守るから」…え、あ、ありがとう、ございます?」
かぶせるようなディナン様の勢いにも若干の恐ろしさを感じて、反射的に彼の腕に縋ってしまった。
いつもディナン様に、腕にもっと寄り添うようにと言われているから、癖になってしまったみたい。
「早く行こう、ティティ。席は決まっているとはいえ、遅れるのはよくないからな」
「は、はい、あのでも……」
ちらりとぶつかってきた女生徒を見ると、鋭い目つきで私を睨んできた。
ど、どうしたのかしら……?
首を傾げるけど、ディナン様の引っ張る手に引かれて、彼女から離れる。
私たちの様子を遠巻きにしていた周囲も、立ち尽くす彼女を避けるようにして会館へ向かっていく。
―――彼女、どなたかはわからないけど、入学早々、大丈夫かしら?
ぽっかりと辺りが寂しい彼女が、少しだけ心配になってしまった。
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「あなた!!!なんなのよ!!!」
開口一番、そう金切り声を浴びせられた。
一緒に居た友人のサリーナが、その声に顔を顰める。
「ねぇ、ファニティ、彼女はお知り合いなの?」
「い、いえ、お話しをしたことは、ないわ」
そう、彼女とは今まで、私を一方的に睨むか、私を無視してディナン様へ話しかけるか、の関係だ。
顔は合わせているけれど、話しかけれられたことはない。
「ちょっと、あなたに言ってるのよ!」
「……貴方、まずは名乗ったらどう?」
サリーナがうんざりした様子も隠さず言う。
彼女は辺境伯家の次女だ。王家であったとしてもぞんざいな対応なんてできないはずだけれど。
「何?あなた、誰?私のこと、知らないの?」
びっくりである。
サリーナのことを知らないのに、自分のことは知っているはずだと自信満々だ。
そういえば、彼女と度々遭遇しているのに、私、名前も爵位も知らないわ。
「知らないわよ、誰なの貴女」
「私はマリニア・ディブラン、男爵家よ。この世界のヒロインなんだから」
更に、びっくりである。
ヒロイン、とは、歌劇なんかでよく聞く、あのヒロインなのかしら?
ということは、彼女は有名な役者、ということ?この世界、なんて随分と大仰なのね。
「ディブラン家……あぁ、騎士爵で先代が昇格した、あの家ね」
「サリーナ、知ってるの?」
「ええ、お祖父様が目をかけていたって話を聞いたことがあるの」
「そんなことよりも、ファニティ・ブランカ、あなたに話しかけてるのよ、私は!」
「……えっ、私???」
益々、びっくりである。
王家と婚姻関係にある我が家は、我が国に三家しかない侯爵家だ。
私は存じ上げないけれど、仮にどんなに有名な女優だとしても、身分は覆しようのないもののはずだけど。
「いいこと!ディ様の側にずっと張り付かないで、私の邪魔をしないで!!」
「え、えぇ……そういわれましても、私は婚約者ですし……」
何の弁解だろうと思いながらも、彼女に説明する。
ディ様……とは、ディナン様のことかしら……?男爵令嬢が第二王子殿下を愛称で……??
うーん、これはどういったことなのでしょうか……?彼女はもしや、どこぞの王族のご落胤か何かか……?
それに邪魔と言われても……。
確かにディナン様とは登校も下校も一緒ですし、昼食もご一緒させていただいているし。
同じクラスだから授業のペアもいつもディナン様とで。
一度、他のご友人と過ごされないのか聞いてみたら「制服姿のティティと過ごせるのは今だけだから」とそれはもう甘い声で微笑まれて……。
あの時のディナン様の笑顔を思い出して、顔が勝手に熱くなる。あぁ、恥ずかしいわ……。
手で頬を覆っていると、苛立ったようにマリニア嬢が
「何言ってるのよ!あなた、ディ様に婚約破棄されるんでしょ?!私がディ様と結婚するのだから、早くしてよ!!」
「…………………え」
「ちょっと、貴方さっきから何を言ってるの?なんの根拠があって、ファニティにそんな出鱈目を―――」
「でたらめじゃないわ!!だって―――」
……びっくりである。
サリーナとマリニア嬢の二人がまだ何か話しているけど、言葉が耳に入ってこない。
婚約、破棄、されるの……?ディナン様に?わたしが……??
子供の時の、あの『殿下』のままだったら、もしかしたら密かに喜んだかもしれない。
でも、今は―――。
「一体、何の騒ぎなんだ?」
「ディさまぁ!!」
「…ディナン様」
戸惑う私と、マリニア嬢を見比べて、はぁと溜息を吐くディナン様。
「ディブラン嬢、再三通達しているが、俺の婚約者に突っかかるのは止めてくれ」
「えぇ~わたし、そんなことぉしてませんよぉ~」
……ディナン様は、知ってるのかしら、彼女が言っていたこと……もしかして、ディナン様が言って、た……?
ディナン様へ擦り寄るように近づいて、くにゃりと体を曲げる彼女。
ぎこちない所作で、彼女がし慣れていないように見えたけれど。
それをやんわり遠ざけるディナン様へ、サリーナが問い詰める。
「一体どういうことです?殿下。その子が婚―――」
「サリーナ!!」
ぎゅっとサリーナに抱き着く。ディナン様に聞かれないように、それ以上聞かないように。
……きっと、違うと思うの。
いつもおかしな態度の彼女を信じる方が、無理があるのだ。
ディナン様は私に優しいし、お父様からもお母様からも、そんな話は聞いていないし。
けれど、もしかしたら……ほんとう、だったら……。
じわりと滲んだ疑いが、形もなく徐々に広がっていく。
少しでも可能性があるのが嫌で、確定してしまうのが怖くて、目を背けたくて。
「……?どうしたんだ、ティティ」
手が少しうろうろしているけれど、ディナン様が優しく聞いてくれているのに。
無意識に、空を見上げてしまう。
―――けれども、耳を澄ましても、あの声は聞こえない。
いつも私を励ましてくれて、背中を押してくれた、あの声。
「ファニティ?どうしたの?」
そっと抱きしめ返してくれるサリーナ。
彼女が言っていたことは本当なんですか?って、ディナン様も知っていたのですか?って、聞かなくちゃ。
ぐるぐると、焦りと混乱と恐れが、身体も口も重くする。
………声は、まだ聞こえない。
「ティティ?だいじょ」「だ、大丈夫ですっ!」
避けてしまった。ディナン様の手を。
彼は、目を丸くしてあんぐり口を開けている。……早く、謝らなくちゃ……。
「し、失礼いたします!!」
……あれ?ち、ちがう!ディナン様にごめんなさいって!
そう思っているのに、私の足はディナン様から逃げてしまった。
足を止めなくちゃ、こんなのディナン様にもサリーナにも、マリニア嬢にだって失礼なのに。
「ティティ!待っ―――」「ディさまぁ!私、カフェに行きたくてぇ!」
後ろで二人の声がして、止めようとしていた足が走り出す。
……聞きたくない、知りたくない、見たくない。
―――夢中で走って、息切れして、後ろを振り返る。
私ひとり、誰も、いない。
それはそうよ、だっていきなりひとりで勝手に走ってきたのだもの。
深呼吸して息を整える。
……子供の頃の、なにも嫌だと言えなかった時から、私は成長したと思っていたのだけれど。
はぁ、と深い溜息を吐く。
……あの不思議な声に、頼りすぎてたのかもしれない。
背中を押してくれる言葉に、知らず知らずのうちに自分の判断を委ねてしまっていたのかも……。
いつも判断に迷うときに、その行動でいいんだって背中を押してくれて。
―――なのに、あの不思議な声は、未だに聞こえてこない。
たったそれだけだというのに、こんなにも私は弱いままだったなんて。
周囲を見ると、校舎横の中庭だった。
幸いなことに人気はなく、頭を整理したくて倒れるみたいにベンチに座り込む。
マリニア嬢が言った『私が婚約破棄される』も『彼女が結婚する』も、何の根拠もない。
そもそも、王家の婚約を破棄するなんて、どれほどの問題があろうとも起きようがない。
……もしもディナン様が彼女を気に入ったのなら妾にすればよい話で、彼女とディナン様が結婚する必要もない。
――――ない、ない、ない……頭の中だけでなら、こんなにも簡単に答えを出せるのに。
けれども、あれほどの無礼を許され続けている彼女に、感情が揺らぐ。
入学式のあの時から、殿下への態度は異質だ。
なのに、口頭での注意のみで、正式な抗議は未だどこからもされていない。
お父様が王家へ遠回しに苦言を呈した、とおっしゃっていたのに。
口に出して本当になってしまうことが恐ろしくて。
出した言葉が誰かを傷つけてしまうことが怖くて。
「あぁ…私、全く成長してなかったのね……」
苦い気持ちを笑みで零しながら、呟く。
ぎゅっと自分の手を握りしめる。―――嫌だ、違う、このままなんて。
「わたし、変わりたい、わ……」
祈るように、額に両手を押し当てた。
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最後まで読んでいただきありがとうございます!