魚には瞼がない
「魚には瞼が無いので、目を開けたまま寝るんですよ」
賑やかしい声がする、実家の暗い和室の中で答えた。
どこからともなく漂う乾いた藁のような独特の香りと、顔を知らない祖父の仏壇から薫る線香のにおい。暖房で温くなった室内に、介助用の大きなベッドが一つ。そして、それを囲む叔父夫婦と従妹たち。いつになく物悲しい室内で、ひゅう、ひゅう、という苦しそうな息遣いが響く。
一目見たその時に、我が目を疑った。真っ白になった髪は糸のように細く、艶やかな中に皺の重なった肌は染みが目立つ、青白いものになっていた。
従妹たちが足先を暖めながら、「おばあちゃん」と声をかける。見開いたままの瞼が、静かに顎を引いた。
「もう四日間も飲み食いできてないんだ」
叔父から事情を聞かされ、小さな手をそっと握る。指先が冷たく、胸に貼り付いた枯れ木のような手は酷く小さく、関節を曲げたままでピクリとも動かない。
「僕も何とか生きてますよ」、と強張った頬を持ち上げてみせると、祖母は顔をこちらへと向ける。「耳は聞こえている」のだそうで、呻き声のような呼吸を零して、僕たちの方を見た。
「ずっと、目も開けたままで、眠れてないみたい」
「おばあちゃんは強い女だから耐えられるけど、私達はそんな経験ないから、ほんと凄いわ」
一年前まではすこしぼうっとしていたが、歩いたり、話したり、まだ元気な様子だった。その時だって、黒髪で闊達な笑顔の祖母の姿とは比べられない程だったけれど。
忙しなく働き、4キロ先まで元気に歩く人で、それを誇りとしていたその人が、脚から体調を崩して、寝たきりになるなんて。虚ろな目を見るたびに、あの日の姿が脳裏を過り、耐えられなくなる。叔父の家族は気丈に振舞っているけれど、今、どんな気持ちを抱えているだろうか。
「魚には瞼が無いので、目を開けたまま寝るんですよ」
へぇー、という驚きと関心に満ちた声が聞こえる。無意識に雑学を述べた僕だけが、鼻の奥がつんと痛むのを感じた。
母が何かを思いつき、スマートフォンを取り出す。父にテレビ通話を繋ぐと、それを僕に渡した。苦戦しながらカメラを反転し、祖母の顔を見せる。父が「母ちゃん、俺だよ」と声を掛けると、喘息のような呼吸の音が少し大きくなり、その目はスマートフォンの画面を追った。
父の言葉が詰まる。かける言葉が見つからずに、「母ちゃん、俺だよ」と何度も繰り返した。その声にこたえて、祖母の頭が枕を擦る。暫く声を掛け続けた父が、「また会いに行くでね」と言って、通話を閉じた。
介助用ベッドの、床ずれ防止装置がぶぶぶとバイブを鳴らし、静まり返った中で執拗に主張する。
着信音と思いポケットに手を当てる兄に向けて、従妹が「このベッドだよ」と言って笑った。
「消してると思うんだけど動くんだよね」
また、小さな笑い声が響く。叔父が祖母に「皆、来てくれてよかったね」と声を掛ければ、祖母は静かに顔を動かし、苦しそうな喉の音で答えた。
また黒い目を見られるかも分からない、再び聞けるかも分からない呼吸の音に、じっと視線を送る。呼吸に合わせて思わず「うん」と小さく相槌を打つ。
何かを語り掛けているような気がして。恨み言の一つでも言ってくれればいいのに。
従姉が足で脈が測れるかと手を動かす。ほとんど冷たくなった額に、叔父が静かに手を置く。
「もう20時間くらいになるのか。心臓と肺が丈夫だから、おばあちゃん」
「強いって辛いんだねぇ……」
叔母がそう言って、ベッドの傍に寄りそう。苦し気な呼吸音が、静寂の中で際立って響いた。
命が瞬いている。風前の灯火のように、静かに、抗っている。
運命を惑わす不死の誘惑に抗った命は多い。人間はそれでも、滅びの運命を避けることは出来なかった。それは健康なように見えていた祖母も同じことで、いつか、恐らく私より早く、終わるときがくる。山時鳥が、霊場のある山の中で鳴いた。
‐‐波の下にも都の候ぞ‐‐
時計は深夜の一時を指し示していた。
「そろそろ帰りなよ。明日も仕事でしょう?」
叔母がそう言って、私達に来てくれた礼を述べる。叔母は祖母に向けて、「皆の声が聞けて良かったねぇ、母ちゃん」と言って、静かに祖母の額に手を置いた。
車に乗り込み、急峻な坂を下る。狭い車道を切り替えて、市街地の方へと下っていく。
ポケットの中で、介助用ベッドがバイブした。
父から、「ありがとう」という一言だけのメールが届いていた。