一歩
気持ちのいい音が聞こえて、空に上がる真っ白なボールを、おれは見上げる。
もうずっと振り続けていたバットを止め、地面にその先を着けた。体温よりも熱い空気を肺に入れては吐き、入れては吐く。思わず腰に手がいき、盛った太陽が照らす空に向かって顔が上がる。頭にチラつくあいつの弾道。綺麗って言葉がピッタリなスイング。
おれはまた、誰もいないグラウンドの中で、バットを振る。
夏の大会、うちの高校に甲子園なんてのは関係の無い話だけど、それでも、夏の大会。その初戦の一週間前になった今日も、あいつは、石田爽太郎は、ホームランを打った。
「ヤマダ~鍵頼むな~」
おう、とおれは返し、アンダーシャツを脱ぎながら部室の椅子に座る。夏の部室はなぜか涼しい。泥だらけの靴下を脱いで、足の汗の気化熱に一息つく。
自分に無いモノ。できないこと。手が震えるぐらいにバットを振ったくせに、頭は意地を張って考え続ける。夏大の一週間前。そこまで来て尚おれは、少しでも、可能性が無いわけじゃない、頭でそう言い続けていた。
制服を着て、部活指定のリュックを背負い、部室から出て鍵を閉める。もうすっかりおれの仕事だ。暗くなった学校。職員室に向かって歩き出す。
「おう。おつかれ。しっかり休めよ」
四十後半の先生は毎日、微笑みながらおれの鍵を受け取る。おれは今日、無安打だ。
「はい」
そう言って早歩きで駐輪場へと向かい、自転車で二十分かけ家に帰る。風呂に入って、飯を腹いっぱいに詰め込む。そしてバットを持って家の前の道に出る。スマホを自分の家の車のボンネットに立て、録画ボタンを押す。バッティンググローブを手に填めて、バットを軽く握ると、マメが軋んでピリピリと痛んだ。
頭の中で今日のピッチャーを創り出す。構えて、今日打ち損じたボールを、打つ。気が済むまで打つ。その後に、九つのコースを順繰りに、飽きるまで振る。そして、動画を見る。
笑ってしまうくらいに、綺麗とは言い難い。インパクトの時の右肘の角度、手首のかえり具合、体の軸の位置、重心の位置、何をどうすれば打てるようになるのか、もうわからなかった。それでも感覚で、理屈ではなく絶対的な感覚で、突きつけられる自分のスイングの汚さ。石田のスイングの綺麗さ。断然と出る結果。おれはまた、振り始める。
*
「あーマジで授業いらねーわ」
それな、とおれは返して、手のひらよりも大きいタッパーに詰め込まれた米に、箸を刺して剥ぎ取る。
「放課後のメニューは?」「まだ来てない」「マジでメニューは早く出せよ」「それなー」
四人は口々に文句を吐き出す。四十人のクラスの中に野球部が五人もいたら、自然と固まってしまう。
「つかもう自主練でよくね? 今更練習しても遅いっしょ」
修はもう弁当を食べ終えて、スマホをいじりながら言っていた。
「それな、もう一週間切ってんだから」「もう調整入りたいよな」
「調製って何?って話だけどな。プロじゃねんだから」
おれは思わずツッコミを入れて、鶏肉の照り焼きを口いっぱいに詰め込む。
「ん? それはあれだよ」「あーあれだよな」「いやそれじゃね?」「おーそれだな」
おれらが軽く笑っていると、突然教室のドアが開いた。顔を出したのは、石田爽太郎だった。
「あ、いた、放課後のメニュー正面打ちな」「なに! 聞いてきたん?」
「おーう」
感謝しろよ?と石田はいつものように笑って言う。うるせー、とおれらは口々に言う。
「もう一週間と待たず夏大がありますが石田さん、ホームラン打ちますか⁉」
赤井晴斗がそう言い、おれは数日前の石田のホームランを思い出す。
「勿論です! 俺のホームランでチームを勝利に導きます!」
石田は大会の注目選手がインタビューに答えるように言うが、きっと、冗談なのは半分だけだ。またおれらは、うるせー、と言って、あっち行けと騒ぎ出す。
「なんだなんだ! お前らだってもっと笑ったら打てるって!」
「はー?」
晴斗が言って、おれらは笑った石田の顔を見る。
「お前ら打席に入ったとき顔怖すぎ! 笑ってリラックスすればもっと打てるって!」
「それができたらくろーしねーわー」
おれはまた、こないだホームランを打った石田を思い出す。
どこまでも飛んでいってしまいそうな、真っ白なボール。笑って打席に入ると打てるようになるのなら、是非とも信じてみたいものだ。
「はい! じゃあねー!」
五人の中の誰かが言って、石田は笑った顔でツッコミを入れながら消えていった。おれはいつの間にか、二年ぐらい前に買った手のひらよりも大きいタッパーに、ぎっしりと詰め込まれた米を見ていた。石田は強豪校の選手に見劣りしない体格をしている。
「ほんと、あいつマジですげーよなー」「高校通算三十本はいってね?」
おれは舌が動けなくなるまで米を口に詰め込む。
「いやマジで才能だわ」「ホント何でここにいんの?ってやつだよな」「でもあいつだけ打ってもしゃーないんだよ繋がなきゃ」「そうなんだけどなー、そこなんだけどなー」
お前もっと打てよ、と言い合うやつらから目を逸らすために、おれはスマホを開いて、何とはなしにツイッターを見る。タイムラインをスクロールした後、トレンドを見る。すると、理系大学生、天才、絵、という文字が見える。おれはそれをタップし、流れを遡る。トレンドの源は、理系の大学に通う三年生が趣味で描いた絵が、芸術の業界では有名な賞を取ったというニュースだった。独占インタビューの記事があり、独学で絵を学んでいた 最年少受賞 賞金五百万円 天才 なんて書かれていて、おれはスマホの電源ボタンを押し、画面を消してまた米を口に運ぶ。
才能。
その言葉が目の前に横たわり、手のひらのマメがまた、ちりちりと痛んだ。
*
ヘルメットの中は五十度を超えているだろうか。自分の汗が湿度の高い暑さに加担する。頭が蕩けていて、もうほとんど正気じゃない。自分は意識を保っているという自覚だけが体を動かし、目の前を横切る球に踏み込みのタイミングを合わせてくれる。運良くボールと判定された球は、相手ピッチャーに返る。おれは一度、体の力を抜き、息を吐き、吸う。幾分マシになった視界に、山の上に立つ敵がよく見える。その向こうには石田がボールをぶつけたバックスクリーンがあって、そこまでの百二十メートルが、異常に遠く感じられた。また短く息を吐き、バットを構える。集中、脱力、タイミング。
ピッチャーが振りかぶり、投げる。おれは踏み込みスイングに入る。内角低め。おれはこれを打つだけなのに。バットがボールに当たる瞬間、手首の角度が悪いことが分かる。左の脇が開いている。差し込まれたのだろうか。
高く打ち上がったボールは、高いだけで、何を期待させるでもなくファーストに捕られた。
おれは一塁ベースを駆け抜ける。打てなくてもベストを尽くせば、それが言い訳に聞こえてしまうほどに、おれの体に汚いスイングの感触が残った。おれは地面だけを見ながら、ベンチに向かう。すぐに晴斗が走って来る。
「惜しいな。ちょい差し込まれた?」
飲み物とグローブを持って来てくれる仲間。
「おう、ありがとう」
おれは全力で自分のポジションへと走る。
初回に二番がフォアボールで出たウチは、しっかりと三番がランナーを進め、だが石田はホームランを放った。それ以降、点を取れないまま、五回に三点を取り返されて、今は七回の表を守っている。
おれの体は打球に勝手に反応して、足を前に出す。バウンドの上がり際に合わせてグローブを出し、バットでは食えなかった芯でボールを捕る。ワンステップの後、ファーストに投げる。
守備は良い。やればやるだけ上手くなるから。ノックを受ければ受けるほど、ボールの動きがわかるようになる。けどバッティングは、振れば振るほど、いいスイングがわからなくなる。
ファーストが余裕でおれの送球を捕り、回が終わる。攻撃ができるのはあと三回。あとおそらく一度の打席で、試合が終わる。おれは何もしないまま。
ネクストバッターズサークルが、きっといつもより小さい。八回の裏、一点負けている状況で、でもワンアウト満塁で、八番のピッチャーが打席に立っている。サークル内でしゃがんでいると、地面からの熱気がいつもより近くて、息がしづらかった。
自分と戦ってきた昨日までの自分が、おれに回ってこい、と叫んでいた。だがおれの手はまだ、さっきの打席の汚いスイングの感触を握り締めている。バッターが空振り、審判が手を上げる。おれは立ち上がるが、本当に自分から立ったのだろうか。
「真っ直ぐはまだ走ってる、変化狙うのありかも」
三振に倒れたウチのエースに、おけ、と返すが、何も良くない。真っ直ぐもまともに打てないのに、まして変化を打つなんて。おれにできるわけなかった。
でも。それでも。
暑さを吹き飛ばすぐらいにそう叫ぶやつが、心の中に確かに存在はしてる。打ったら逆転で、一気にヒーローで、すべてが報われる。でも、相手のピッチャーを見れば、さっきの汚いスイングの感触が蘇ってきて、万に一つも、打てる気はしなかった。
土で汚されたかのような、消えかかったバッターボックスの白い線の枠に、おれは入る。右足のスパイクで少しだけ地面を削り、バットを構え、叫び続ける自分の心の声に耳を塞いだ。
でも、その時、聞こえてきた。
「決めちまえー!」
石田の声だった。この回の先頭でヒットを打ち、サードベースに今いる、石田の声。それはおれの心の至るところにぶつかって、火花を散らす。瞬間的に光を発した無数の部位が体を熱して、気温を体温が追い越していくような感覚になる。
打てない自分も、いい選手でいいヤツ過ぎる石田も、それにクソみたいな感情を抱く自分も、打てないなんて思う自分も、全部、全部もう、嫌だった。
頭の中で今までの練習の日々が思い出されて、押さえつけていた感情が溢れてくる。おれはどれだけバットを振ったのだろう。おれはどれだけ時間を練習に使ったのだろう。おれはどれだけ、どれだけやれば、石田のように、綺麗なスイングで、何もかも置き去りにして飛び越えていくような、あんなホームランを打てるのだろう。
ピッチャーが処刑人のように見えてきて、その構えは今にも腕を振り下ろしそうだった。
もう時間切れだ。いつか見た夢の、期限が来たのだ。もう練習はできない。夏の大会の今日は、さんざ言ってきた『あの日のために』のあの日だった。
でも、それでも、ホームランなんて言わないから、せめて一本、一本でいいから、ヒットを打たせてくれないだろうか。
八回裏、ツーアウト満塁、石田だけじゃなくて、他のランナーも、ベンチの仲間も、みんなおれに向かって、叫んでいた。おれは構える。ピッチャーは振りかぶり、腕を容赦なく振り下ろす。放たれたボールは、おれが出したバットのはるか上を通過する。おれのスイングが汚いのは解ってる。でも、それでも、当たれ、掠れ、打たせてくれ。
もう一度真っ直ぐ向かってくるボールは、今度はおれの膝元を抉る。おれはバットすら出せない。歯を食いしばって、問題ない、そんなん関係ないって。追い込まれたけど、本当の本当に最後だけど、だから、おれの体、二年半、才能なんて知らない、手を伸ばし続けた、憧れ続けたあのスイングを、少しでいい、少しでいいから。
ピッチャーが腕を振る。回転するボールは、白くて。やっぱり、綺麗だった。
何も当たらなかったという感触、弾けるミットの音。それでおれは、やっと気付く。理解する。喉の奥が痛くなって、それが広がって、息を吸ったら体が揺れた。
回が終わって、交代のために全員が走り出す。
濡れてグチャグチャになった顔を、おれは袖で思いっきり拭う。おれのグローブとスポーツドリンクを持って近付いてくるベンチの選手に、気付かれないように。
*
「山田、おい大丈夫か?」
晴斗の声に、おれは「おう」とだけ返事をした。
九回表をしのぎ、だがおれはその記憶を何一つ留めなかった。ボールが飛んで来なかったのは正直、ラッキーだった。ミットの音が耳の奥で何度も何度も響いて、ボールが飛んできていたら、おれは弾いていたかもしれない。
タイミングが良かったのか悪かったのかも分からなかった。ただ漠然と、でも絶対的に、感じた自分のスイングの汚さ。いつ頃からだろう。打てない自分を変えたいと思い始めたのは。きっともう、二年は前のことだ。練習をして着実に積み重なっていく守備の力と、不貞腐れたように打てないままの自分。三年生の夏大が終わってから、チームに必要とされるには、野手は打てなきゃいけないって、打てない自分を変えようとしたんだ。何より、打ちたい。打ちたかった。だから、考えて、精一杯に、頑張ったはずなのに。おれは打てないまま。二年経った最後の夏の大会になっても、何も変わらないまま。
気付くとこっちの一番がファーストベースにいて、もう三番がツーストライクまで追い込まれていた。続くピッチャーの変化球に三番はうまく合わせるが、レフトがふらっと上がったボールをしっかりとキャッチする。ツーアウト。あと一つで、終わり。
でも、次に打席に入るのは石田だった。スタンドにいる観客の声が急に大きくなり、ベンチにいる全員が一段と声を張り上げる。同点のランナーを背負って、四番に回ってきたのだ。でも、普通のバッターだったら、ここまで期待するだろうか。石田だからこそ、今まで打ってきたからこそ、同点、サヨナラ、取れるんじゃないかって、思ってしまうのだ。
そんな身勝手な全員の期待と声援を、石田はマントでも羽織るようにヒラリと背負い、笑って、あの打席にまっすぐ立つ。きっと、石田の心の中に、自信なんて言葉は無い。おれのように、打てるかどうかなんて考えない。ただボールへと、意識を集中させる。スイングなんて、体が勝手にしてくれる。
ピッチャーはさっきよりも硬い顔で、セットに入る。足を上げて、めいっぱいに腕を振る。全力の球。ピッチャーが思わず出した雄叫びをはね返すように、石田は、全力で打つ。
やっぱり、何度見ても、綺麗だ。
おれは全身に震えが走って、思わずベンチの柵を強く握る。全力と全力でぶつかった球は、遠く遠くに飛んでゆく。
あぁ。かっこいいなぁ。
夏の空が滲んで、ボールがフェンスの向こうに消えてゆくのを、おれは見ていた。
*
座席だけが埋まった電車の中で、おれはドアの前に立つ。心の内で感情が逆巻いている。電車は揺れていた。
「つかやっぱ石田様様だったな~」「いやおれも打ったけど?」「覚えてねーよ」「いやおれ九回三失点なんだけど」
エースが言い、笑いが起こる。
「まぁお前はな、三点は頑張ったな」「なんで上からなんだよ崇めろ」「はい、ホントすごかったっす、打ってないのはアレっすけど」「おい、最後のいらないぞ」「大丈夫山田も打ってないから」
おれは窓から目を離し振り返り、四人の輪を見る。
「ぶっ殺すよ?」
おれは思わず、わざとらしく言う。プフゥ、と四人が噴き出す。
「んな怒んなよ!」「まぁいつものことだわな」
「お前はエラーしなきゃそれでいいんだよ」
修は笑いながら言う。
「出れてんだからまだいいだろ」
そう言った晴斗の声は、出し過ぎてガラガラだ。
それがフォローなのか本音なのか分からなかったから、多分どちらもなのだろう、おれも、冗談っぽく言う。
「でもさぁ、一回でいいから、ホームラン打ちたくね?」
「それはそう! けどなぁ」
「アレ? お前ら打ったこと無いの? え?」
修は煽り性能の高い顔をする。
「お前の紅白戦だろうが」「いやいや紅白戦ゆうてもガチやがな、ピッチャーガチ投げやがな!」「誰だよ」「つか打ったの二年だろ、それで自慢すな」
甲子園で一番注目されるプレーは、やっぱりホームランだ。毎年、当たり前のように何本も飛び出る。けど一方で、一本もホームランを打てないまま高校野球を終えるやつは、全国に何人いるのだろう。
きっと、思ったより多くて安心するんだ。そして、後になってから気付く。だとしても、打ったことのあるやつは意外と多いってことに。野球は点を取るゲーム。監督が言っているのも、ネットの記事に書いてあるのも、自分でも、よく聞くし、見るし、感じる。だとしたらおれは、野球の半分しかおれは、できていないんだ。野球を始めたのは小二。十年余りやってきて、おれはどれだけ下手なんだろう。
「まぁ才能だよな」
おれをよそに流れていた話の中で、その言葉だけが、電車の騒音を避け、おれの意識の膜にはっきりと聞こえてくる。
「は?」
思わず口をついて出てきて、自分の棘に自分で驚く。それを聞いた修は、少しムッとして言う。
「あ? いや才能でしょ、石田は。あいつ練習おれらとやってること変わんねーじゃん」
試合が終わってからずっと逆巻いていた感情が、更に波打ち始めた。でも、今は口に突っ込むものが何も無くて、溜め込んでいた感情が肺か胃にでもあったかのように、それは口から飛び出してきた。
「そうやって言い訳すんのかよ」
おれは為す術なく自分から出てくる言葉に怯えながら、でも、耳を澄ましていた。
「そんなら尚更あいつより練習したら上手くなるかもしれないだろ」
これはおれの本音。ずっと自分に言い聞かせてきた言葉。でも今日打てなかったことで、否定された言葉。次の試合まで一週間も無い、もう遅い言葉。
「うるせぇなぁ」
それを百も承知の修の言葉。
おれは黙って、下を向く。電車はおれらが乗り換える駅に止まるために、減速を始めていた。ブレーキがかかった音がして、でもそれが止んだ瞬間に、聞こえてきた。
「お前は守備ができるからそんなこと言えんだよ」
おれは、今日ベンチで声を張り上げ続け、ガラガラになっているその声を、ドアが開くのと同時に聞いた。まだ電車が揺れているような気がした。
「試合に出れなくて応援してるおれらは何なんだよ」
おれは何も言えずに、晴斗を見つめる。
「才能持ってるやつが我儘言ってんじゃねぇよ」
晴斗は下ろしていたリュックを持って、歩き出す。
「それでエラーなんかしたらマジで許さねぇかんな」
その言葉を聞いた瞬間、今日の九回表、自分が守備をしていた記憶を、思い出せないのを思い出す。おれは、真っ白な頭で数秒立ち尽くしていた。他の三人に肩を叩かれてようやく、降りなければならない駅だったことに気付く。
「まぁ、しゃあねぇよ」
三人はドアをくぐり、晴斗を追っていく。おれも後を追って電車から降りるが、人ごみに消えていく四人の背中を見ていたら、いつの間にか、彼らとは違う方向に歩き出していた。
降りた場所から遠い方の階段を上がって、乗り換え先のホームに降りる。疎らな人を避け、階段の裏の、少し暗くなったところにおれは吸い寄せられる。
才能持ってるやつが我儘言ってんじゃねぇよ。
才能という言葉。精も根も出し尽くしたような枯れた声。回を終わらせる度に飲み物とグローブを持って来てくれた仲間。
打ちたいって、思ってはだめなのか。そんなはずはない。でも。才能。おれは我儘だったのか? おれはあいつから見たら石田みたいに才能を持っていて、石田とは違って嫌なやつだったのか? 自分の何かが誰かより優れていたらそれを才能と呼ぶのか?
おれは薄暗いコンクリートの上に蹲って、揺れながら近づいてくる電車を待った。
*
公立高校の安いナイター設備でも、おれのスイングをくっきりと地面に映し出せる。ご丁寧に見やすく斜めにして。
ホームベースの角に置いたティースタンドの上に、糸がほつれたボールを置く。右足の位置、インパクトの位置。頭にスイングの軌道を描く。それすら綺麗かも分からないまま。おれはバットを振りぬく。バットの芯に当たっているのに、バコッという鈍い音がする。不意に晴斗の声が頭に響いて、ごちゃついている感情と理屈に降り注ぐ。それを一旦捨て置くために、またボールを乗せ、打つ。でもやはり、何かを吹き飛ばせるほどの威力は無い。
おれはため息をついて、新しいボールに手を伸ばす。すると、弱々しい光の円に入って来る足が見えた。
「山田」
先生だった。
「もうやめとけ。明日もまだ練習あんだから」「あ、はい、すいません」
おれは息を一つ吐いてバットを置き、ネットに入ったボールを集め始める。打てる気がしないまま今日が終わってしまう。今は何時だろうか。帰ってから素振りをする時間はあるだろうか。
「山田、お前しっかり寝てるか?」
先生の声が後ろからして、でもその声色に、いつもの、鍵を返す時のあの顔を見る。
「あ、はい、えと、六時間くらいですかね」
「やっぱりな。お前バット持って帰るし、家でも振ってんだろうな」
おれは音を立てて、次々にボールをカゴに入れていく。でも、やっぱり聞こえてくる。
「でもな、休みを取るのはお前の仕事だぞ」
仕事という言葉に、はいすいませんと、言いかけてやめる。
「お前はやれることをやればいい」
エラーとかしたら許さねぇからな、と言った晴斗。おれは一昨日、しかも夏大で、一本も打ってない。エラーは無かった。何で、誰も責めない。
「なんですか、その、打たなくてもいいみたいな」
辛うじて笑って言うけど、顔が引き攣っているのは自分でも分かる。頭が白くなっていって、理屈が消えていくのが分かる。
「いやそうは言ってないぞ。でもただ、お前は最悪打てなくても、充分守備で貢献できてるよ」
「おれは打てなくてもいいってことっすか?」
ツーアウト満塁。点を取るスポーツ。気を使ってくれてる、優しくしてくれてる。だとしても、そんな馬鹿なことがあるか。打てなくても仕方がないって、そんなの。
「努力するのは悪くないよ。それはお前の才能だと思うから」
また現れた、才能。努力が才能。
「でも野球はチームスポーツだから、」「おれは、」
振り返って、先生を見る。優しく、諭すような顔。
「打ちたいんですけど」
先生は一瞬詰まってから、繕うように言う。
「いや悪いとは言ってないよ? ただ……いや、うんそうだな。頑張れよ」
先生の口から出た、空っぽな言葉。ただ投げた言葉。それは誰に届くでもなく、ナイターの光の外へと消えていく。
「明日は内野の守備の確認するから、それはしっかりな。鍵早く返せよ」
先生は機嫌が悪くなったのを隠そうともせず、さっさと暗闇に歩き出していく。おれは集め終わったボールのカゴの持ち手を、しゃがんで掴む。おれの手は勝手にそれを強く握りしめて、持ち手が手の柔らかい部分に食い込んだ。でも、おれは、奥歯を噛み締める。
練習して守備が上手くなるのは才能。努力できるのも才能。だとしたら、おれは、才能なんて欲しくない。
いつも野ざらしになっているボールは、汚かった。
おれは自分に無いモノが欲しかったんだ。才能という言葉が欲しかったんじゃない。自分が望んだモノ、憧れたモノこそを、この二年、手に入れようと走ってきたんだ。自分に無いモノこそを、才能と呼ぶんだ。おれが綺麗なスイングを欲していたのは、自分に無いモノだったからだ。
おれは解っていた。もう遅いって。夏大が始まった今、もっと言えば夏大の一週間よりも前から。そんな期間で練習しても綺麗なスイングなんて身につかない、足掻いても無駄。当然だ。自分に無いモノなんだから。
それでエラーなんかしたらマジで許さねぇかんな。
声を出し過ぎてガラガラになった晴斗はきっと、この感覚を、背番号が決められる試合の直前にもう、感じていたのだ。そしてあいつは、次の一歩を踏み出したのだ。ならどうするか、という、いじけたその先へ。おれも、その一歩を、少しでもやれば何か掴めるんじゃないかという、可能性が無いわけじゃないという、武装一つで、踏み出して、練習をしていたはずだった。
でもその実、大会になんかもう間に合わないと悟った日から、おれは練習を、いじけてやっていただけなんだ。少しでもやれば、なんて、詭弁だ。どれだけやれば打てるようになるんだ、とか、おれはこんなやってるのに何で打てないんだ、とか、おれは思っていた。でも、そんなことを思ってやっているのなら、少しでもとか、可能性が無いわけじゃない、だとか、そういう理屈は自分を守れていない。おれはただ、言い訳のように、打てないのを何かのせいにするように、練習をやっていただけなんだ。一歩なんか踏み出していない。手の届かない自分に無いモノを見上げて地団駄を踏んでいただけだ。
そんなんで打てるようになるわけがない。いつだか馬鹿にした調整って行為は、一歩踏み出した後の言葉だったんだ。いじけてやる練習に意味なんて無い。腹の中で感情が蠢いて、吐き気がした。
それでエラーなんかしたらマジで許さねぇかんな。
うんそうだな。頑張れよ。
ガラガラの声。投げやりな声。唐突に思い出す、修が言った、お前はエラーしなきゃそれでいいんだよ、という言葉。それはおれの心に降り注いで、腐らせる。
おれは守備しかできなくて、もう次の試合まで時間が無くて、エラーなんてしてはいけない。おれはそれだけを期待されていて、それだけがおれの仕事で、それだけで試合に出してもらえてる。
初戦はバッティングを引きずって守備を怠ったし、家で素振りをしていて睡眠時間も削られている。おれはレギュラーで、意味の無い練習をずっとやっていて、そんなものやらない方が良くて、よく寝て打つのを諦めれば守備に支障が出るなんてことは無い。
おれはもう、諦めるべきなんだ。誰にも期待されていない、誰にも望まれていない、おれのバッティング。もう身に着けられるはずがない、石田のような綺麗なスイング。もう手に入れられるはずがない、自分に無いモノ。
当てつけのような音と共にボールは、おれを置き去りにして、どこまでも遠くへと飛んでいく。
でも、それでもさぁ。
拗ねていながらもやっていたのは、いじけていながらもやっていたのは、打ちたいって気持ちが、確かに本物だったからだ。
体がまた揺れる。
「打ちたいと思っちゃ、だめなのかよ」
いつの間にかピントが合わないほど近くにあるボールは、汚れた土の臭いで、いっぱいだった。
ボールのカゴを持ち上げたのは何分後だったろう、おれは急いで片付けを始めた。カゴを所定の場所に戻し、穴が開いた地面をとんぼで均し、スパイクを履き替え道具を持って部室へと向かう。バットがいつもより重くて、もう置いていってしまおうかと頭に過る。グラウンドの端に着くと、後ろを振り返る。真っ黒なグラウンドに、すぐ横にある車道の街灯だけが光を落とす。礼をして、背を向けると、聞くだけで気持ちが良くなるようなあの快音が後ろからして、でも、次第に遠くへと、消えていってしまった。
部室に着くとまだ電気が点いていて、誰かが点けっぱなしにしたのだろうと思っておれはドアを開けたから、中に晴斗がいたことに驚き、そしてすぐに目を逸らした。
晴斗も何も言わずに着替えを続ける。おれは晴斗の対角線にある椅子に座り、練習着を脱ぎ始める。沈黙と気まずい空気が流れ、部室の天井にぶら下がる小さな蛍光灯が瞬く。
でも、おれはしっかりと見ていた。それの理解におれの手は止まる。ここでただ時間を潰していたわけではない程の晴斗の汗の量、練習着をいま脱いでいて、その隣に置かれたバット。
おれは盗み見るつもりでまた晴斗を見た。けど、晴斗もチラリとこちらを見て、結局は目が合ってしまう。気まずそうな顔をする晴斗を見たら、おれは思わず笑顔になって、顔を伏せる。さっき離れていったあの快音が、また聞こえてきたような気がした。
「やっぱり、打ちたいよなぁ」
おれは笑顔を隠せずに言う。
「うるせぇな。おれはいいんだよ」
晴斗は、恥ずかしさを隠すように少し怒って言う。
「そっか」
おれは汗でびしょびしょのアンダーシャツを脱いで、サッパリとしたポロシャツを着る。
おれは、打ちたい。今からでもいい、いじけてやっていたのが本当に無駄だったかなんて、まだ分からないはずだ。今度こそ本当に、少しでも練習しよう。今からやっても無駄だなんて、きっとそんなの全部終わってからでいい。おれには打てないと嘆くのは、きっと終わってからでいい。
バッティングの練習をして、守備が下手になるわけじゃない。素振りもして、でもできるだけ早く寝よう。明日の守備練習もしっかりとやる。試合中はバッティングのことを引きずらない。
おれはいつの間にか少し遠くに置いていたバットを、手元に引き寄せた。
*
目の前を通り過ぎるボールが、今までにない速さでストライクを取る。球場のブルペンでしか聞いたことのないような大きい音が、キャッチャーのミットからした。これまで出会ってきたピッチャーとは異次元の球速と変化球のキレ、緩急のつき方。ピッチャーが三球目を投げてくる。高めのストライクを振ったつもりなのに、ボールははるか上を通過していく。またいつものようにおれはベンチに戻り、グローブを受け取って、自分が守る三遊間へと走る。
ウチにエラーは無かった。だが電光掲示板には相手校のtotalの位置に赤く`5`と表示されていた。ウチは一点。フォアボールで出たランナーを三番が進め、石田のヒットで取った一点。その後はランナーを出しても繋がらず、八回裏の今、守備についている。相手は中堅私立なんて呼ばれる高校だけど、百三十五キロを超えるピッチャーと惨いぐらいの三、四、五番がいた。下位がそこまでじゃないのがまだ救いだった。
六番の引っかけた当たりを、おれは逆シングルでさばいてファーストに放る。四点差がつき、終盤になっても、アウト一つでスタンドが沸いてくれる。ちらりとベンチで叫んでいる晴斗に目をやる。ピッチャーに、ナイスボールと声をかけてから、七番用の位置につく。
今日もノーヒットだ。部活が終わるかもしれない今日で、一回戦のあの日から練習を重ねて数日経った今日で、おれの野球人生の先端。打ってない。打ちたい。でも、エラーなんかしねぇよ。相手の七番のライナーに、おれは飛びつく。
相手はピッチャーを変えた。背番号十一番の、長身二年生。九回表の初め、そのアナウンスが入った後、四点差を前に敗色濃厚だった空気を、石田は一言で変えた。
「谷! 何でもいい! 俺まで回せ!」
石田は笑って言う。四点差もあって、あとアウトがたったの三つで終わりなのに、石田は、全員に笑いかける。
「お前ならできるだろ?」
それが冗談にならない石田の力。これも、おれに無いモノ。そんで、めちゃくちゃにかっこいいところ。
「おお!」
谷だけじゃなくて、思わずベンチの全員で返事をして、全員で敵のピッチャーに向かう。石田は才能だと言った修も、全員で。どれだけ練習したのかなんてどうでもいい。今おれらは戦っていて、勝ちたい。それだけ。
ピッチャーが投げる。おれが甘い高さだと認識した時には、音が鳴り響いて谷は走り出し、ボールはワンバンでレフトに捕られていた。
「谷ー‼」「マジかー‼」「無理すんなよ‼ 四点差だぞ‼」「牽制一コもらっとけ‼」
ベンチが騒ぎ、スタンドの歓声がグラウンドを上から包み込む。
「海斗! 甘いの来るぞ!」「全部打て全部!」「笑え! 顔かてぇぞ!」
二番の海斗にボールが二つ続き、ベンチが更に熱くなる。三球目、歓声のなか海斗が打ったボールはショート正面のゴロになる。球場の全員に嫌な想像が一瞬過る。けど、ボールは、きっと誰かの叫んだ声で跳ねた。グローブに弾かれたボールはのろのろと転がりながらレフトに向かっていく。ベンチが一層叫んだ時には、谷はスピードを上げている。レフトが取ってサードに投げ、三塁コーチャーのイワが絶叫しながら全身で腕を上下に振っている元に、谷が滑り込む。砂埃の舞う中で審判が腕を水平に上げて、相手が「セカンド!」と叫ぶ声をおれらは遮って雄叫びを上げ、海斗がセカンドベースに足を着けた。
スタンドが唸って、おれらは祭りのように騒ぐ。
「海斗―!」「ノーアウトな! ライナーバック!」「四点差な!」
相手の二年生長身ピッチャーは傍目にも青ざめていて、その心はきっと誰でも推し量れた。
三年生の夏を俺が終わらせるかもしれない。
彼はロジンパックを持ち上げて、指先が真っ白になるまで粉をつける。深呼吸をしてセットに入るが、その時、石田がネクストバッターズサークルでバットを振った。こんなに騒がしいのに、その風切り音がおれにも聞こえた気がした。ピッチャーは気にも留めない様子で一球目を投げるが、ボールになる。二球目、三球目も枠から外れ、相手の内野がピッチャーに何度も声をかけた。だが騒ぎ出したおれらはピッチャーに呪いをかける。
「フォアボールなんかいらねぇよ!」「ストライク来たら全部振れ!」
肩で息を吸ったピッチャーが、四球目を投げる。それをキャッチャーがミットの先でギリギリ取り、球場が沸いた。三番がバットを置き、それを拾ってバッターボーイに渡した石田が、打席に入った瞬間、気温が五度は上昇して、でもそれに誰も気付かないぐらい全員が石田に集中した。
お前なら、打てんだろ。
おれはつい、そんなことを思ってしまう。石田は構える。大事な場面でお前が打たなかったところなんて見たことない。誰もが緊張してしまう場面でも、お前は笑ってヒットを打つ。石田の表情、重心、力み具合。全てがそう思わせる。
ピッチャーが足を上げ、腕を振る。様子見なんてあるわけない。
石田は一瞬でバットを振りぬき、ボールはファーストのライン側の横を抜けていく。白くなった人工芝にボールが落ちた瞬間、今までの球場全ての声が手抜きだったかと思えるくらいに大きく、声か楽器か叩かれるメガホンか判別もつかないぐらいの音がグラウンドに響いた。おれは身震いして、結局おれも言葉にならない声を上げた。
石田の打球は速過ぎて、最初から後ろで守っていたライトは、すぐに最深部で転がるボールに追いつき中継に投げた。サードに繋げた相手を見て、石田はセカンドベースで止まる。だがランナーは全員帰ってきた。チーム全員で石田に声を上げ、石田は笑って両腕を上げる。ベースに片足を乗せるその全てが、この球場で誰より輝いていた。おれは、石田に憧れている。練習なんてできない野球人生の先端でだけ、素直に石田がかっこいい。おれはまた、声を上げる。
さすがに相手はピッチャーを変えた。背番号十番の、三年生だろうか、一点差でスコアリングポジションにランナーを背負いながらも、堂々と山の上に立っていた。
こちらの五番は粘ってフォアボールにするがそれ以降、六、七番は三振とキャッチャーフライに抑えられる。すると、八番のピッチャーに代打が出された。代わりに打席に入ったのは、修だった。石田は才能だろ、と言った修。
でも、打席に入り監督のサインを見るために振り向くと、その顔は引き攣りながらも、笑っていた。おれはその顔を見た瞬間、「打てるぞ」と、大きな声を思わず出す。
おれはネクストバーズサークルに入る。ツーアウトながら、同点と逆転のランナーがいる。相手側のベンチとスタンドがこちらをねじ伏せにくる。それに負けじと声を出すウチのチームメイトと保護者と、ベンチから外れたやつら。着いている膝に地面の熱が伝ってくる。
打ちたい。
ピッチャーがセットに入る。クイックで投げられたボールは、スイッチでも付いているかのようにカクンと曲がった。修は何とかファウルにするけど、ただのワンストライクノーボールより遥かに分が悪かった。だが二球目、ボールがもう一度曲がってバウンドしたのを、修はしっかりと見送った。おれは息を吐いて力が入っていた手を緩めるが、キャッチャーが体で止めたボールを拾おうとした時、声が鳴り響く。
「走った‼」
すでに塁間の半分以上のところを走っていた石田が、送球よりも先にベースに滑り込む。サードは間髪入れずセカンドに投げるが、そちらもセーフになった。ツーアウト二、三塁。
打ちたい。解ってる。解ってるけど、打ちたいんだ。
「打てるぞ‼」
今度は石田が叫ぶ。修は構える。
ピッチャーはもう迂闊に変化球を投げられないだろう。投げたとして、膝元は捨てていい。ピッチャーも、バッターが真っ直ぐに張っているのは分かっているだろう。全力と全力。お互いバカみたいに練習した二年半を懸けて戦う。このために。この時のために。ピッチャーは真っ白な球を、声援に乗せてミットに投げ込む。だが音は球場の全員に聞こえた。
修の勝ちだった。ボールはまたもライトに向かってゆく。だが今度もライトはボールを捕るのが早くて、返球が綺麗にワンバンでホームに帰ってくる。セカンドランナーはサードで止まった。叫ぶ修。さらに盛り上がる球場。引き攣った相手選手の顔、味方の雄叫び。
おれはゆっくりと立ち上がって、でも、振り返る。
打ちたい。打ちたいけど、おれの打席は、もう、終わっていたんだ。
監督の声がして、晴斗がバットを持って近付いてくる。
解ってる。解ってるけど。おれは、打ちたかった。
「頼むわ」
部室で見た、上気した体、滝のような汗。
エラーなんかしたらマジで許さねぇかんな。
「おう」
ガラガラになって、潰れた声。
おれは走る。ベンチに向かって。代わりに晴斗が打席に向かう。
あいつのグローブを探そう。アクエリの方が好きだったな。あいつが打って、逆転して、裏を守って、勝つんだ。そしたら、また、おれは
「晴斗―‼」「ストライク全部いけ‼」
今までで一番大きい声を、ベンチにいるやつら全員が出す。おれは、ベンチの柵から乗り出す。
「笑え‼」
いつだか言っていた、石田の言葉。笑ったら打てる。おれは願うように、叫ぶ。
ピッチャーがボールを投げて、晴斗が振り出す。全てを晴らしてくれる音が、おれの胸に、響いた。
***
「おまえ髪伸ばさねぇの?」
もうすっかり伸びた髪をワックスでがっちりセットしている晴斗は、一か月とちょっと前まで自分が坊主だったことなんて忘れたように、おれの頭を見て笑う。
「いや伸ばしてはいるわ」
他の三人もフサフサな髪を軽く揺らしながらこちらを見る。
「だとしたら伸びんの遅くね?」「お前の元が長ぇんだよ」
おれの頭はまだちょっと長めの坊主だ。この中途半端が一番ダサい。伸びろと思っているのはおれもだ。
「つか今日も塾だ~」
おれらは夏大が終わってから、今までしてこなかった勉強を、夏休みに信じられないぐらいにやった。遊びもそこそこに、毎日塾に通う日々を過ごした。プロ野球がテレビの番組表にあるのを見つけた時、メジャーの日本人選手が活躍しツイッターでトレンドになった時、目が覚め切った真夜中や、野球部のやつらが馬鹿な画像をグループに送ってきた時に、あの夏大を思い出しながら。
「え? お前塾なんか行ってんの?」「指定校は黙れ」「いや俺は指定校マジですげーと思うよ、勉強してたんだからずっと」「いや、必要ないね、おれは一般でお前より上行くから」「そか、じゃお前落ちたら笑ってあげる」
おれは手のひらサイズのタッパーから、でもやっぱり固くなったお米を取って、口に入れる。
「指定校ってもFランだろ?」
おれはサラリと飲み込んでからそう言い、お茶を飲む。
「お前、俺行こうとしてんの偏差値五十だぞ」「Fランやんけ」
晴斗が言う。
「死ね」「一般で頑張ったら五十五は行けんだろ」「いやいや無理無理」「え、いけねー?」「お前はどうせセンターやらかして帰りの電車みんなと違う電車乗るん」
「それワシやないかい」
おれはツッコんで、あの時のことを思い出して、そしてやっぱり、勝手に最後の夏大が蘇る。
「そんなんあったっけ?」
と言う晴斗のあの最後に打ったボールは、タイムリーになり、おれらは逆転した。だが裏の守備で晴斗の代わりに入った二年生がエラーをして、最後は九回から変わったピッチャーが打たれて負けた。きっとピッチャーに代打を出さなければおれには回ってこなかったし、おれに代打を出さなければ裏の守備は無かったし、ピッチャーが変わっていようが、エラーしていようがいまいが、負けていたと思う。おれは数分で空になってしまうタッパーに蓋をして、立ち上がった。
「誰かトイレいこーぜ」
あーおれいく、と晴斗が立って、椅子をしまう。バッティングの練習なんかやんなくていい、しかもあんなに時間をいっぱい使って無駄だ、そんなことを、終わった今の方がむしろ、思わない。少しでもやったら打てるかもしれない、それが否定された今において、おれはむしろ清々しい。いくらやってもできないことがある、どれだけ頑張っても手の届かないモノがある。それは暗くて後ろ向きな、立ち向かう前に諦めるための言葉なんかじゃなくて、おれには、実感を伴った事実だ。それは手を離したリンゴが落ちるくらいに当たり前のことで、でも、そんなの当たり前じゃん、って重力を理解していない人が言うのはムカつくような、そんな存在。おれが、見つけたモノ。
「そういえば石田って一般?」
才能なんて、自分に無いモノなんて、手に入らない。少なくとも、二年頑張っただけでは。おれはおれにあるモノだけで頑張って生きるしかないし、それは恥ずかしいことじゃなく、当たり前なこと。
あの日踏み出した、いじけた後の第一歩。それがくれた、次の一歩。
そんでこれは、おれだけが言えること。
「あいつ野球で推薦来てるって」
「才能ってうぜー!」
おれは世界の誰より屈託無く、真っ白な言葉の球を、廊下の窓から遠く遠くに投げた。