悪役令嬢に心を奪われた悪魔と、復讐を果たした令嬢の話
永遠に続く、絵画のような青空に、ふわふわ白い雲のカーペット。純白の羽がバサリと音を立てた。
「ルーカス!」
「……」
林檎の木に腰掛け、気怠げに空の彼方を眺めていた青年、ルーカスは手にしていた本を閉じた。青い色が隠され消える。
「早く降りて来いよ! 大天使様に呼ばれたのに、すっぽかしたんだろ?」
「やめろ。引っ張るな」
「何か不満でもあるのか? 天使らしい、綺麗な羽を持ってるのにさ」
「天使ね……」
「わっ!」
陽光の髪を靡かせ、ルーカスはまっすぐ木から降りた。まるで、呼びに来た青年を踏み潰すかのように。
「最近、悪魔がよく僕達を誑かしに来てるらしいから、ルーカスも気をつけるんだぞー!」
「はいはい」
「はいはいって――」
何か話す声が聞こえてくるも、無視して神殿へと歩いていく。
ここは、ある世界に存在する天界。ただただ平和で、狭い鳥籠の中で、ルーカスは退屈していた。
ルーカスもみんなも、生まれた瞬間から天使らしい。天使が何なのかも、何のためにいるのかも、天界が何なのかも、何もかもが分からなかった。しかし、誰も疑問を抱かず、受け入れている。そのことがルーカスは不思議だった。しかし、誰に聞いても「そんなこと、考えたことなかったよ」「天使は天使だろ」「それより大天使様に会いに行こうよ」と返されるだけ。そのことがまた、ルーカスを退屈させた。
仕事らしいことはあった。大天使から特定の場所に行くよう指示を受け、行き、よく分からない言葉を人間にかけられ、天界に戻る。それだけ。
(俺は何をしているんだ)
永遠にも近い時間の中で、同じことを繰り返す。それに何の意味があるのだろうか。
ルーカスはため息を吐き、神殿の中へ足を踏み入れた。
「またその本を読んでいたのかい?」
「!」
書庫から出てきたのは、大天使ミエルだった。ルーカスは形式的な礼をする。
「そんなに海が気になる?」
「あっ」
ミエルは本を奪った。しおりの挟まれたページが開かれる。
描かれていたのは、人間界にあるという海。この絵を見た時、ルーカスの胸は初めて高鳴った。
それ以来、毎日海のことを考えている。しかし、海を見に行きたいという願いは、聞き入れてもらったことがなかった。仕事以外で天界の外に出ることは、許されないらしい。誰に許されないのか。それも教えてもらえなかった。
「返してください」
そう威嚇するように低い声で言うも、ミエルは慈悲深い(らしい)表情で微笑むだけ。
「いつまで経っても尖ったままだね。見た目も能力も、大天使に匹敵するほどなのに。勿体ない」
またそれか。ルーカスは下を向き、眉間に皺を寄せた。
天使らしい。その言葉は嫌いだ。ルーカスのことを、天使としてしか見ていない気がするからだ。
「よほど頼まれない限り、仕事をしようともしないし。他の子は、自ら仕事を求めにくるのにさ」
「不満ですか?」
「またそうやって反抗的な目を……」
やれやれと頭を振るミエルに、ルーカスは苛立った。どこか他人事のように振る舞い、ヘラヘラして肝心なことは言わずにかわす。そんな彼を皆は大天使様と崇めるが、ルーカスは不信でならなかった。
光に透ける絹のような金髪に、地平線の空のように淡い水色の瞳。純白の翼はパールより艶やか。自身と似た見た目をしていることも気に食わない。相手からすれば、自身がミエルに似ているのだろうが。
「それより、最近仕事が増えたと聞きました。こんなところで俺に時間を費やす暇があるんですか?」
「いや? 忙しいよ」
「では何故ここに?」
「海が気になって仕方がない君に、提案をしに来たんだ」
「提案?」
「まぁそう睨まないでよ」
ミエルは本をルーカスに返した。海のページは開いたままで。
「天使として名を上げたら、海を見に行くのを考えてあげる」
「本当か?! あっ……本当ですか?」
そう聞けば、ミエルはポンとルーカスの頭に手を置いた。
「君も、そうやって無邪気に笑っていればかわいいのに」
「……」
「まぁ今はいいや。頑張ってみてね」
そうヒラヒラと手を振り、ミエルは神殿から去って行った。
「やっと海が見れる……!」
希望と喜びに、ルーカスの胸は久方ぶりにドクドクと脈打っていた。
だから気付かなかったのだ。
――ミエルが「海に連れて行ってあげる」なんて、言っていなかったことに。
あれから、ルーカスは毎日仕事に励んだ。ほとんど休まずに、天使としての経験を積んでいった。海のことを考えたら、まったく苦ではなかった。
その結果、もともと能力の高かったルーカスは、時期大天使として名を馳せるようになった。それも、たった一ヶ月のうちに。
天使が扱える「魔法」というものも、完璧にマスターした。むしろ応用を効かせ、新たなものを生み出すくらいだ。
天使達の中には、大天使様以上だと褒めそやす者も現れ始めた。故に、ルーカスはそろそろ海に行くことができると思っていた。
そして、ルーカスはついに神殿に呼び出された。
「失礼します」
羽を綺麗に折り畳み、鏡で自身の姿を確認する。晴れの日になるだろうから、相応しい身なりで迎えたいのだ。
ふぅ、と息を吐き、扉を開ける。
「ッツ?!」
刹那、魔法陣が床に浮かび上がった。
体にズシリと重みがのし掛かり、ルーカスは片膝をついた。
力が抜けていく。頭が危険だと警鐘を鳴らしている。
「よく来たね、ルーカス」
誰かの爪先が見え、顔を上げる。そこに立っていたのは、神殿で見せた時と変わらぬ、胡散臭い笑顔のミエル。いや、憐んでいるのだろうか。
「何を……っ!」
顔を上げて気付いた。上空には、大天使達が全員揃っていた。ルーカスを見下ろしている。その瞳から感じられるのは、同胞に向ける慈愛でも、ミエルのような憐憫でもない。
悪魔に向けるような、敵意だ。
「正直、ここまで成長するとは思わなかったよ」
「俺を……騙したのか?」
「騙したなんて人聞きが悪いなぁ。天使はね、嘘をつけないんだよ」
「じゃあ何故」
「私達と同じように仕事をすれば、時が経てば、海のことも忘れて、中身も私達と同じようになれると思ったんだ。天界のために働く、理想の天使そのものにね」
「……」
「でも、君は強くなり過ぎた」
「……」
「だから、君を消すしかないんだよ。許してくれるよね?」
そう言って慈悲深く涙を流すミエルの姿は、ルーカスには悪魔のように見えた。
「……ははっ」
神殿に、ルーカスの乾いた笑い声が響く。
「ルーカス? どうして笑――」
「そうか……そういうことだったんだな」
「ルーカスいけない!」
己の足に力を込めた。内に秘めた魔力を爆発させるように放出する。
バリンッと硝子が割れ散る音がした。その瞬間には、ルーカスは空中に立っていた。
その魔力は目視できるほどに濃く、痛々しいほどに強く輝いた。
「私達天使は決まりに逆らえないんだ! だからルーカス、どうか、!」
ルーカスを見て、ミエルははっと息を呑んだ。自身がどのような表情をしているのか、ルーカスには分からなかった。
「俺の、僅かで、純粋で、希望のような幼心を、利用したんだな」
硝子の瞳から零れ落ちた一粒の涙が、神殿の床にじわりと滲んだ。
天界から去った後、ルーカスは何日もの間、空を飛んでいた。海へ行こうにも場所が分からなかったのだ。
(地図の一つや二つ、持ってくればよかったな)
神殿を消してしまったので、仮に戻っても入手不可能だが。
「はぁ」
ため息をつくと、雲の中から黒い影が飛び出した。ルーカスは警戒しながら前進を止める。
「よう!」
「……またお前か」
現れたのは、闇のように黒い髪と、血のように赤い瞳が特徴的な、悪魔の青年だった。名をグリムという。
「ッカァ〜! ほんっとつれねぇなぁ。マジで天使かよ?」
「……」
ルーカスは無言でグリムを睨んだ。
「ごめんごめん! その御立派な羽を見たらわかるさ」
グリムはルーカスの翼を指差し、ズイッと近付いた。
欲を貪る様な目で、グリムが三日月型に口角を釣り上げる。
「翼を交換すれば、地獄に入ることができるぜ」
「……」
「海を見せてやるよ」
「……わかった」
ルーカスは力付くで翼をもぎ取った。抜け落ちた羽が、足を越えて数枚落ちていく。
「フゥ〜。容赦ねぇなぁ」
「さっさとお前も出せ」
茶化すように口笛を吹くグリムを一睨みする。
海を見に行けないのなら、天使の羽を持っていたって意味がない。海は人間界にある。天使の姿で現れ、騒がれては邪魔だ。どのみち羽を切り捨てねばならない。それが今日になるだけだ。
「はいはい。悪魔はこうするんだよ」
グリムは血塗れの翼の上に、手を翳した。禍々しい赤黒の光が青空を刺す。
バキバキと背中が焼けるように痛み、ルーカスは顔を顰めた。
「ほらよ。これで今日からお前は悪魔、オレは天使だ」
「すごいな。羽の感覚がある」
後ろを見ると、悪魔の翼が音を立てた。赤く艶めく黒い翼だ。
対するグリムからは白い翼が生え、天使の輪が頭上で光っていた。
「しばらくはお互い苦しむことになるだろうが、まぁ楽しもうぜ」
「苦しむ? それはど、グッ」
突然、心臓がドクリと大きく動いた。背中から全身へ、まるで血液がマグマと化したように熱くなっていく。羽を動かそうとも、力が抜けていく。
体が傾き、背中から落ちていく。悪魔へと堕ちた天使のことを堕天使と言うらしいが、まさか物理的に落ちるとは。
「もう、あんな場所にいるのは嫌なんだ」
熱さに意識が朦朧とする中、一粒の滴が頬に触れた。
結局、地獄にあったのは血の海だった。罪人が流す、ただの血。磯の香りは鉄の香り。青色は赤色、冷たさはなく、熱く煮えたぎっていた。さざ波は断末魔の叫び声。
悪魔業を続け、五十年ほど経った頃、ルーカスは遂に痺れを切らした。そして、思い立ったように職務放棄をし、海を見に行った。
しかし、海は思っていたよりも普通だった。底が見えるほど澄んでいなく、色とりどりの魚もいない。青色ではなく濁った緑色をした海に、茶色い砂浜。
こんなものか。それが、海を見て第一に思ったことだった。
(だが、もういい)
人間界へ降りて幾星霜。ルーカスは、何よりも美しい海を見つけたのだから。
暇だからと立ち寄ったある世界で見つけた、誰よりも美しい瞳を持つ女性を。
「ルーカス」
春の木漏れ日のような声に振り向けば、絵本で見た海のように蒼く、澄んでいて、それでいて深い瞳が、陽光を反射して煌めいた。
とある公爵家の娘ソフィア。当て馬として産み落とされた、悲しき定めを持つ悪役令嬢。自身を傷付けた全てを、戦火で焼き尽くした復讐者。執事として、悪魔として、自身を何度も雑に使役してきた契約者。
そして、自身が初めて心を欲した唯一無二の存在。
「あら。髪に木の葉が付いているわよ」
「どこだ?」
「ふふ、ここよ」
彼女の白い指先が、ルーカスの黒髪に触れる。
悪魔へ順応したことで、ルーカスの髪は黒に、瞳は赤に変わってしまった。自身の髪と目が元々好きではなかったルーカスは、この変化を喜んだ。彼女の青い瞳と相対しているようで、むしろ嬉しさを感じている。
彼女が微笑む、彼女が喜ぶ。彼女と話す、彼女と出かける。それだけで心が満たされるとは、なんて悪魔らしくないのだろう。
今日だって、行き先も知らされず馬車に乗らされ、着いたら荷物を持って歩かされているのに、まったく嫌という気持ちが出てこないのだ。
「今日はどこに行くんだ?」
「ん〜、内緒よ。見たらきっと驚くわ」
ソフィアは太陽にも負けない笑顔を見せた。あまりにも眩しくて、ルーカスは目を細める。
復讐を終えた彼女は、もう一度やり直したいと言った。最後はただただ幸せに過ごしたいと。そして、魂を捧げてもいいから、執事としてでいいから、側にいて欲しいと。
ルーカスは願いを聞き入れ、今は最後のループを送っている。彼女はようやく、心から幸せそうに笑うようになった気がする。
「今、貴女は幸せか?」
「ええ幸せよ。だって、貴方がいるんですもの」
前を向いて話すソフィアの声は切なげで、ルーカスの胸はギュッと締め付けられた。
「そんなこと――」
「しゃがんで、ルーカス」
「なんだ?」
ソフィアは白い布を取り出した。ルーカスの視界に白いモヤがかかる。
「そのままこっちへ歩いてちょうだい」
手を引かれるまま、ゆっくりと歩いて行く。
クシャクシャと木の葉を踏む音が、サクサクと柔らかいものを踏む音に変わった。
鼻をくすぐるのは、覚えのないツンとした匂い。
「もういいわよ」
シュルリと音を立て、白いレースが波打った。
「っ……!」
ルーカスは息を呑んだ。
目の前には、サファイアのような海が広がっていた。絵本で見た通りの海が。
一歩足を踏み出せば、金を混ぜたのかと思うほどキラキラした、スポンジ生地のような色をした砂が音を立てる。
「貴方のことだから、海なんて何度も見たことがあるでしょうけど、一緒に見に来たかったの。有名な港町で、そこに……ルーカス?」
「なんだ?」
ソフィアの顔がぐにゃぐにゃと歪んでいる。
「どうして泣いているの?」
熱い目元に手をやれば、確かに濡れていた。
思えば、ルーカスは生まれてこの方、泣くという行為をしたことがなかった。涙を見たことは何度もあったのに。
もしかしたら、遠い昔に泣いたことがあったかもしれない。しかし、それが涙だとは、誰も教えてくれなかった気がする。
(そうか。これが、泣くということなんだな)
人間は悲しい時に泣くと聞く。だが、これは悲しみの涙ではない。それだけではない何かを、ルーカスは感じている。
しかし、この苦しくて、懐かしくて、愛しくて、込み上げるような感情が何なのか、分からなかった。
「ルーカス?」
ソフィアの不安げな瞳がルーカスを見つめた。
その姿がまた愛おしくて、ルーカスは彼女へと手を伸ばした。しかし、既の所で拳を握る。
今、ルーカスはソフィアの執事だ。勝手に触れることは許されない。
「どうしたの? 貴方、なんか変だわ」
「……俺の感情を引き出せるのは、貴女だけだ」
「今なんて言ったの? 波音に消されて上手く聞こえなかったわ」
「いや、いい。知らなくていい」
「そう……あ! あれは何かしら?」
ツン、と唇を尖らせたかと思うと、ソフィアは木々の間に入ってしまった。慌ててルーカスも後を追う。
木々の下を潜ると、ソフィアは何かを見つめていた。
「何があったんだ?」
どこか悲しげな空気を纏う、ソフィアの横に並ぶ。見ていたのは、海の方向を向いて立っている、小さな石板だった。
初めて見る文字だったが、教養があるソフィアは文字にかかる砂を払い、刻まれている文字を読み上げた。
「海を見ることのできなかった、私達の、光のような笑顔の子。どうか安らかに。って、書いてあるわ。……名前の部分は消えていて読めないわね」
「かなり劣化しているな」
「書かれている言語も、この地域の古典語よ。訛りも少しあるわね」
「昔はこの年まで生きる子供は少なかったからな」
チラリとソフィアを見て言うと、彼女と目が合った。不満そうである。
「私はもう子供じゃないわ」
「そうやって頬を膨らます姿のどこが大人なんだ?」
「同い年の子よりは精神的に大人よ!」
大して威力のないパンチを背中にぶつけてくるソフィア。
「次はマッサージ師にでもなるつもりか?」
「ならないわよ。今回で終わりだもの」
「……そうか。本当にやり残したことはないんだな?」
「ええ」
即答するソフィアに、ルーカスの胸はま痛んだ。
石板に目をやった後、ルーカスは木々の隙間から元来た道へと戻った。
「あら、もう戻るの?」
「ああ」
「楽しくなかった?」
「いや」
ルーカスはソフィアへと手を差し出した。
「ありがとう。執事姿も六回目を迎えて、ようやく板についてきたんじゃない?」
「……余計なお世話だ」
こんなことでしか、彼女に触れることが許されないなんて。人間の作ったマナーや規則を、悪魔である自身が破れないのは、人間らしくなったからなのか。
それとも、拒否されるのが怖いだけなのか。
「また来よう」
「ふふ。気に入ってくれたようで、よかったわ」
「……ああ。そうだな、気に入ったよ」
細められたソフィアの瞳は、やはりどの海よりも美しかった。
◇◇◇
ヒロインとヒーローの恋を盛り上げる、当て馬。いわゆる悪役令嬢。ソフィアが自身の運命を悟ったのは、婚約破棄され、牢屋に入れられた直後だった。
自身がゲームのキャラクターなのだと、謎の人物が頭の中で囁いたのだ。俄かに信じがたい話だったが、それは確かなようで。一度自身がキャラクターなのだと認識すれば、今までの記憶が洪水のように流れてきた。何度も期待し、捧げ、断罪されてきた記憶が。
「何なのよ……何なのよ、悪役令嬢って!」
虚空に叫ぶも、謎の人物の声は聞こえない。
「うっ……くっ」
手をつく地面は氷のように冷たく、擦れた膝に砂利が擦り込む。
けれど、何よりも胸が苦しくて、痛くて堪らなかった。自身がしてきた努力は全て彼らのためのもので、操り人形のように踊らされていたのだ。
自身の愚かさが悔しくて、ソフィアは唇を噛んだ。流れ出た血が涙と混ざり、水溜りを赤く染めていく。
そんな時、バサリと翼のはためく音がした。何者かに遮られた月光が、天使の矢のように降り注ぐ。
「助けてやろう、小娘」
「え?」
月に照らされ、自身に手を差し伸べる悪魔の姿は、ソフィアには天使のように見えた。
翼も髪も、黒いはずなのに。
ソフィアが自身の運命に気付いたのは、彼女にとって最大の幸福であり、裏切った彼らにとって最大の不幸であろう。
それが、教えた者による慈悲なのか、単なる気晴らしなのかは分からないが、どうでもいい。
これから始まるのが、本当のソフィアの物語だ。
そのために、先ずは過去の全てを清算する。何よりも黒く、熱く、激しい怒りの炎で。
(もう誰にも、私の心を、全てを奪わせない)
こうして、ソフィアはルーカスと契約を結んだ。
(あれから、彼はよく尽くしてくれたわね)
悪魔ルーカス。彼は慣れないながらも執事の仕事を頑張ってくれた。人間に支持されるなんて、とブツブツ言いながらも、自分から仕事を聞きに行ったりしていた。
対象との恋愛をわざと失敗に終わらせても、気付かず真摯にアドバイスをしてくれた。
(あんなにも私のために動いてくれたのは、彼が初めてだわ)
ソフィアは薄々気付いていた。彼が途中から、悪魔としてではなく、ルーカスとして自身に働きかけ始めたことに。
それが嬉しかった。彼になら魂を捧げてもいいと思うほどに。彼と幸せに過ごしたいと願うほどに。
しかし、ソフィアとルーカスは所詮、人間と悪魔。ただの契約関係。彼の心を望むなど、身の程知らずもいいところだ。
だから、彼を執事として側におき、最後のループを穏やかに終わらせることにしたのだ。
(その時はもうすぐね……)
ソフィアは今、床に伏している。両親が他界して十年以上経ったのだ。無理もない。
隣で自身を見下ろすルーカスに、ソフィアは皺の寄った手を伸ばした。
「なんだ?」
ソフィアが話すと思ったのか、ルーカスは口元に耳を寄せた。こんな醜い姿になっても、彼は嫌な顔一つせず、ソフィアに付き添ってくれた。
初めて出会った日と変わらず美しい黒髪と、復讐を果たした日に見た血より深く、鮮明な赤い瞳。過去の姿になることはできても、未来の姿にはなることは出来ないらしい。
――彼になら、魂を奪われて、利用されるのも悪くない
死に際でさえ、そんなことを思ってしまうとは、とことんヒロインに向いていないらしい。誰もに心を捧げられ、支えられ、愛してもらえるヒロインに。
「もう……いいわよ」
重い口を動かし、息絶え絶えに言葉を紡ぐ。
「私の魂を……持って行って」
ルーカスの記憶がある内に、彼を認識できる内に。
最後の力を振り絞り、ソフィアはルーカスの手に触れた。
しかし、その手を振り払うようにルーカスは立ち上がった。
(ルーカス? どうして、手を――)
「魂などいらない」
ああ、困った。
自身が唯一相手にできること、魂を捧げることも、できないなんて。
ソフィアが目を覚ますと、綺麗になった天井が見えた。
鏡に映る皺一つない玉肌に触れ、ソフィアはベッドに寝転んだ。
(死んだと思ったのに……私と過ごした時間さえも、いらないということかしら)
そんなにも、自身との時間は苦痛だったのか。
グッと拳を握ると、誰かが扉をノックした。
「おはよう、ソフィア」
「おはようございます、お父様」
「今日はお前に会ってほしい人がいるんだ。身支度をしたら出てきなさい」
「会ってほしい人……」
自身が第一王子と出会った日と、同じ会話だ。しかし、彼と会うのはもう少し先だったような。
ベッドから起き上がると、待ってましたとばかりにメイド達が雪崩れ込んできた。念入りに身支度をされる。相手はかなりの重要人物らしい。
身支度を終えたソフィアは、レースとリボンがふんだんにあしらわれた水色のドレスを身に纏い、父が待つ庭園へと向かった。
「ああ。来たか」
父の側には金髪の少年が立っていた。ああ、やはり王子との見合いだったか。
心底嫌悪感を露わにし、ソフィアは下を向きながら歩いた。それも無言で。こんな操り人形、嫌われたって構わない。むしろ嫌ってくれと。
「ソフィア様」
(あら?)
頭上から聞こえてきた声は、どこか懐かしくて。
「隣国の、公爵家の御子息だ」
(隣国? 公爵家?)
そんな人物、今までのループでは会わなかった。恐る恐る顔を上げる。
「!」
ソフィアより少し年上の、あどけなさの残る少年がジッとこちらを見詰めていた。
光に透ける金糸の髪に、淡く澄んだ水色の瞳。初めて見るはずなのに、ソフィアの胸は締め付けられた。
どうしてだろう、懐かしくて愛おしい。
「よろしくお願いします、ソフィア様。俺は――」
それは、誰よりも愛しい彼の名前だった。
最後まで読んで下さり、ありがとうございました!
雰囲気で掴む部分が多々ありましたが、それも含めて楽しんでいただけたら幸いです。
お気付きかもしれませんが、石板はルーカスの名前がヒントです。自然となのか、選ばれてしまったからなのか、そこはご想像にお任せします。