年始へ向けての健康管理
「お兄ちゃーん! 助けてー!」
その言葉はお風呂場から聞こえてきた。大体予想は付いているのだが聞いておく。
「どしたー?」
ドア越しに問いかけるとリリーの悲痛な叫びが聞こえた。
「体重が増えてるんです!」
「そうか、じゃあお風呂が空いたら教えてくれ」
俺はとにかく気にすることなくそう言ってリビングに戻って椅子に座りあくびをした。
まったく、くだらないことを気にする奴だ。闇市で買ったものをしょっちゅう食べているからそうなるんだ。
とはいえ、配給もされていないので部屋から出ることもない、多少体重が増えるのはしょうがないことだ。
それでも一応健康管理は公共の福祉として行われている。太ってしまうと栄養食を調整されるわけだが、この時代で太るということは褒められたことではない。
多少の体重の増加は生活指導で済むので気にするようなことでもないだろう。少なくとも思想矯正ほど厳しい指導ではなく、食生活の指導をされて終了だ。
「お兄ちゃん、お風呂空きましたよー」
「ああ、じゃあ入るわ」
俺はこの時代に体重の増減に一喜一憂するのを奇妙に思えなくもない。些細な問題だと思うのだが気にする人は気にするのだろう。俺にはとんと興味のない話だ。
「はー……」
風呂で体を洗い流し出て行くと体重計が置かれているのが見えた。俺は乗ろうかなと思ったところで、結果に一喜一憂する気にもなれないのでそっとしまって風呂場を出た。
「おにいいいちゃあああああんん!!」
リリーが抱きついてくる。重くなったと気にしているようだが飛びつかれてもまったく重くないと思う。
「はいはい、お前は重くないんだからそんな気にすることないって」
「でもそれってお兄ちゃんの感想ですよね?」
しょうもない理論家のようなことを言ってくる妹に頭を悩ませられながら言う。
「いいだろ別に、俺以外の誰がお前の体重を気にするんだよ? 大体糖尿病が不治の病でもないというのに気にすることなんて無いだろう?」
昔々の病気の原因だった動脈硬化や糖尿病などという生活習慣でかかるような病気はすっかり治療法が確立されているし、なんならその辺の自販機で治療薬が買えてしまう。
この時代に治療法のない病気の方が珍しい。遺伝病でさえも不治の病では無くなった時代に体重や体脂肪率が多少上下したところで気にする必要など無い。
「お兄ちゃんが私のことを嫌いになるかもしれないじゃないですか!」
「ならない、一キロとか増えても俺はまったく気にしないから!」
「ホントですか?」
「ああ、太ったことよりも太るほど食料を買っているって事の方が気になるよ……」
配給食だけで太るのは不可能だからな、絶対に闇ルートで食料を手に入れないと太れないようになっている。
「そ、その事は良いじゃないですか! お兄ちゃんだって美味しいものが食べたいでしょう?」
「それはそうなんだがな……よっぽど買わないと太るなんて出来ないぞ?」
「だって、闇市で美味しいものがあったんだからしょうがないじゃないですか! パンが売ってたんですよ? パンですよ? この時代に滅多に出回らないものがあったんだから買っちゃうじゃないですか! だから私は何も悪くないです!」
パンかあ……久しく食べていないなあ……児童院でお祝い事がある時に一人一枚配られた記憶が懐かしく思い出されるな。大人になると言うことは食事が不味くなるということなのだろうか?
「いい機会だししばらく闇市から離れたら良いんじゃないか?」
「味気ない日常になっちゃうじゃないですか……」
味気ないというのが比喩なのか文字通り味がないという意味なのかどちらかは分からない。それでもとにかく闇市から離れる気は無いということが分かった。
「じゃあ運動でもしたら? 自重トレーニングくらいなら屋内で出来るだろ」
「えー……楽して痩せたいです……」
「一応食欲を抑える薬も自販機で買えるがな……あんまりお勧めしないぞ」
「ああ、アンフェタミンの安全版でしたっけ? あれも長いこと残ってますよねえ……ものすごく古い薬のはずなのに……」
違法なドラッグだったアンフェタミンから食欲を抑える機能だけを残した成分が薬として売られている。とはいえ、そんなものを使うと運営からマークされるのでリスキーだし、健康診断でも当然指摘される案件だ。
「お兄ちゃん、一緒に運動しませんか?」
「俺を巻き込むなよ……」
食べ物にさえまともなものが無いとはいえ、その食べ物まで奪うようなことはやめて欲しい。ダイエットという贅沢な悩みは是非一人で悩んで欲しいな。
「苦痛だって二人で分け合えば半分になりますって!」
「それは巻き込む側の言う台詞じゃないんだよなあ……」
「いいじゃないですか! もうちょっと私の悩みを受け止めてくださいよ!」
「俺はお前が多少体重が変わろうと気にしない、だから大人しくしていてくれ」
闇市に行かなければ済むだけの話だ。
「しょうがない、お兄ちゃんに美味しい食事を提供しましょうか。砂糖たっぷりの紅茶でも飲みませんか?」
「飲みたいけどお前ただ単に俺も太らせたいだけだろうが……」
「じゃあ私が夕食を抜くのでお兄ちゃんも夕食を抜いてくれませんか?」
「意地でも運動はしないという硬い意志を感じるな」
呆れながらも、俺は寝正月をすると多少体重が増えそうだなと思いその日の夕食を抜いてみたのだった。
結果として驚くほど気にならなかった。どうせ食べても美味しくないと考えると食べなくてもいいやと思えてしまうのは一つの発見だろう。
就寝時にリリーが『お腹空きましたねえ……』と言っていたので、おそらく舌が贅沢を覚えたんだろうなと思う。人は生活レベルを上げると下げづらくなってしまう。リリーも正月までは大人しくしていて欲しいものだなと思う。闇市も閑古鳥が鳴いているらしいのでこれ以上食料を買い込むことはないだろう。
闇市がないので必然的に痩せる。となれば夕食を抜く必要も無いとは思うのだが、アイツにはすこしくらい反省してもらいたいという思いで一食抜いてもらったのだった。




