王太子と赤い竜と、空色の髪の少女
どこかから香ってくる、甘くてスパイシーな香り。
この香りが、大好きかどうかはともかく、なぜかいつまでも嗅いでいたくなる。
その日、なぜか家を囲んでいた結界が、不意に緩んだ。
その事に、小さかった私が気が付くことはなかったけれど、それでも、その香りは私の鼻先をくすぐる。
『――――俺が帰るまで、家の外に出てはいけない』
いつも優し気に細められている金色の瞳。
大好きな父の瞳が、その言葉を告げる時だけは、真剣な色を宿す。
だから、私はずっとその言いつけを守り続けてきた。
そうすれば、いつだって大好きな父は、私を抱きしめて褒めてくれる。
私、ライラ・ヒースティルトには、母がいない。
広いけれど何もない庭。小さいけれど、私の好きなものが集められた家。
時々、家を空けるけれど、優しい父。
そして、赤い体躯に金色の瞳をした、ほむら、という名前の竜。
小さなその世界が、私のすべてだった。
「この香り……」
その香りは、私の鼻先をくすぐって、誘う。
逆らうことなんて出来ない。極上の蜜を宿した花の魅力に、ミツバチが抗うなんてできないのと同じだ。
私は、ふらふらと、家の外に足を踏み出す。
父との約束は、その瞬間、私の世界から消えてしまった。
どうしても、この香りがどこから漂ってくるかを知らなくてはいけない。
それだけが、私の思考を埋め尽くしてしまったから。
✳︎ ✳︎ ✳︎
そして、出会いは訪れる。
その、灰色の狼みたいな少年は、いつの間にか私の目の前にいた。
甘い香木みたいな、それでいてピリリとした香りは、その少年から漂ってきていた。
「――――見つけた」
その少年が、深い紅の瞳を細めるのを、私はぼんやりと見つめる。
『やっと、取り戻した。俺の婚約者。風に愛された姫』
どこかから、低くて、私の心を震わせるような声が聞こえる。
それは、風の向こうに、懐かしい姿として浮かび上がる。
灰色の髪と、ルビーのように怪しく光る瞳。
その少年と、その姿が、ぴったりと重なっていく。
「――――さあ、俺と一緒においで? 今度は、邪魔が入らないうちに、俺のことを選んで」
「あの……」
「さあ」
差し出された手。
その手に抗わなくてはと思うのに、この香りが私を捕らえて離さない。
震える手が、自分の意思と無関係に、その手をつかもうと延ばされる。
『空色の髪の姫。俺の姫。愛してる』
「っ……りゅうおう、さま」
『君のいる世界を、守るから』
私は、この手を取りたくない。
だって、私が手を取り合って、笑いたいのは、あなたのそばだけなの。
でも、今はまだ、あなたは私のそばにはいない。
ボロボロと涙が零れ落ちた瞬間、赤い竜の金色の瞳が、甘い香りにしびれてしまったような、私の脳裏をよぎっていく。
『困ったときには、僕を呼ぶんだよ? どんなに遠くても、助けに行くから』
私の大好きな竜。私の家族。
「っ……ほむら!」
その瞬間、強い風が巻き起こり、甘い香りを空へと吹き飛ばしていく。
白いワンピースが、バタバタと翻って、被っていた帽子が空へと舞い上がる。
(なかなか呼んでくれないから、探し出すのに手間取ったよ。ライラ)
その声。安心するその香り。赤い色は、いつでも私のことを守ってくれていた。
(――――さ。怒られに行こうか)
灰色の狼みたいな少年に、冷たい真冬の月のように鋭く向けた瞳。
その瞳を、どこまでも深い紅の瞳が、決して逸らすことがなく見つめ返したことを私は見ていない。
たぶん、甘い香りに抗ったせいで、何かが体からすっかり抜け落ちてしまっていたから。
「待っていろ。必ず見つける。今度こそ俺は、自分の力で、お前を手に入れて見せる」
その声は、懐かしくて、切ない。嫌いなわけではなかった。
もしかしたら、先に出会っていたら、好きになったかもしれないと思っていたのに。
でも、この声を聴くたびに、心の奥底に響くのは、忘れてしまった優しい音。
あの日、『ごめん』と告げた、大好きな音。
その日起こった出来事の一部は、忘却の彼方に消え去る。
家から抜け出したこと、帰ってきた父が顔を青ざめさせながら、私のことを叱って、そのあと強く、強く抱きしめてきた記憶だけを残して。
七色の砂糖菓子の優しい光とともに、記憶の奥底から聞こえてきた、黒い竜の声をもう一度思い出す日まで。
✳︎ ✳︎ ✳︎
「……灰色の狼って、寝言でつぶやいた?」
目を覚ますと隣にいた、アルベルト様が、漆黒の瞳の闇をなぜか深めていた。
「キュ?(え?)」
「なぜか、ライラから俺のじゃない香りがする」
私の空色の体に、鼻先を擦り付けてきたアルベルト様。そんな訳がないのに。だって、ここには二人しかいない。
それでも、竜は、自分の縄張りに、敵とみなした生き物の香りが漂うことを許さない。
「キュ、キュイッ?!」
抱きしめられた私は、その日一日、離れてくれないアルベルト様と、周囲の生暖かい視線に、そのことを思い知らされるのだった。
番外編、読んでいただきありがとうございました。
下の☆をポチッと押して、評価いただけるとうれしいです。