第37話 黒い竜と小さな空色の竜 2
黒い竜が、私のことを、呆れたように見つめている。
すでに、疲労困憊になってしまった私には、とくにそれに対して、意見することもできずに、地面にうつぶせにペチャリと崩れ落ちた。
『どうしてそんなに擦り傷だらけなんだ』
『近道をしようと思ったら、転んでしまいました』
その結果、残念なことに、お水は汲み直すことになってしまったのだけれど……。
それでも、今、アルベルト様に違いない黒い竜の目の前には、なみなみと葉っぱに盛られたお水が、たくさん置いてある。
『……こちらに来なさい』
なぜか、大きなため息をついたアルベルト様。
さっきから、ずいぶんとしゃべり方が違うけれど、私のことを覚えていない事や、竜の姿になってしまったことに関係しているのかしら?
私は、何とか起き上がると、よろよろしながらも、アルベルト様に近づいていく。
ふと見上げた、その美しい漆黒の瞳からは、今はもう警戒感が消えている。
そのことに、本当にほっとして、私は思わず、アルベルト様の大きな体に、鼻を擦り付けた。
新緑みたいな、ハーブみたいな爽やかで、それでいて蜂蜜のように私を誘ってしまう甘い香り。
この香りは、確かにアルベルト様のものなのに……。
『警戒感のない……。子どもとは、こんなものなのか?』
『私、子どもではないです。もう、成人したんですから』
『冗談を……。いや、まだ儀式を済ましていないだけなのか。番は……』
『――――アルベルト様。それよりも、お水呑んでください。ずっと、飲まず食わずだったように見えます』
じっと、私の目を見つめていたアルベルト様は、少し首を傾けた後、水を飲み始めた。
はじめのうちは、ゆるゆると飲んでいたのに、徐々に勢いよく飲み始める。
――――よほど、喉が渇いていたのね。それにしても、人と争ってケガをしたなんて、どうして……。
『……ところで、君はどうして俺のことをアルベルトと呼ぶ?』
『私のことを、覚えていないのですね』
『覚えているも何も、初対面のはずだ』
その言葉に、私の口から「キュィイイ……」と悲し気な鳴き声が零れ落ちる。
でも、もしもこのまま、この森の中で傷を癒したなら、アルベルト様が王国のために囚われ続ける必要もないのだ。
それなら、もしかすると、このまま記憶が戻らないほうがいいのだろうか。
うなだれてしまった私は、そんな考えにたどり着く。
でも、今はここまで傷ついてしまっているアルベルト様を、放っておくなんて絶対にできない。
『――――のどの渇き、癒えましたか?』
『ああ、十分だ。傷が癒えた時には、この恩を返そう。……それにしても』
唐突に、アルベルト様が、私の小さな体に鼻先を擦り付けてきた。
竜にとって、最高の親愛を表す行動だ。
『――――いい香りがする。どこかで嗅いだことがあるような』
『……アルベルト様。今度は、食べ物を手に入れてきます。たぶん、果物くらいなら何とか』
『この森は、本当に深い。それに、いたずら好きな風がいる。俺は放っておいても、直に回復するから』
その言葉には、従うわけにはいかない。
だって、私はアルベルト様に、返しきれない恩がある。
それに……、大好きな人が傷ついているのに、何もしないなんて……できるはずないじゃないですか。
この森の中は、以前確かに暮らしていたみたいに、道が分かる。
確かに、遠い遠い昔、暮らしていたことがあるように思える。
それは、私の記憶なのか。
……それでも、ガサリと深い茂みをかき分けると、赤くてほんの少しハートみたいな実をつける大きな樹の下にたどり着く。
私は知っている。この果実は甘くておいしい。
木の下にたどり着いたものの、どうやって収穫しようか頭を悩ませる。
空を飛ぼうか。でも、たぶん魔力をたくさん使ってしまったら、動けなくなって果実をアルベルト様に届けることが、できなくなりそうだ。
その時、小さなつむじ風が巻き起こる。
ザワザワと、大きな木が揺れれば、大量の果物が落ちてきた。
残念なことに、いくつかが私の頭に落ちてきたけれど、これを持っていけばいい。
今度は、大きくて平らな葉っぱの上に、果物をのせて、口で引きずりながら、アルベルト様の元に向かう。
『アルベルト様……待っていてください』
私は、ようやく気が付き始めていた。
あの竜は、今のアルベルト様ではないのかもしれないと。
もしかすると、私は今、おとぎ話で語られる、夜の竜王と風に愛された姫の世界にいるのではないかと。
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