第36話 黒い竜と小さな空色の竜 1
『アルベルト様っ! 会いたかったです』
小さくて短すぎる腕では、大きな体の竜を抱きしめることもできない。
それでも私は、大木に張り付くセミみたいに、必死になって黒い竜に縋りついた。
アルベルト様が、竜になれるなんて聞いていなかったけれど、この深い森の中でほのかに漂う蜂蜜みたいな、爽やかで甘い香り、間違いない。こんなに素敵な香り、ふたつとあるはずないのだから。
それなのに、のそりと動いた竜は、私にそっと顔を近づけると『……初対面のはずだ』と、不思議そうに首を傾げた。
『アルベルト様、私のこと、忘れてしまったのですか?』
違和感が徐々に広がる。
そういえば、アルベルト様を助けたくて、部屋の中に飛び込んだはずなのに、どうして私は、森の中にいるのだろう。
そして、改めてよく見ると、アルベルト様の香りがする竜は、羽が傷ついていた。
私は、そっとその傷を、見つめる。
『この傷は、どうしたのですか?』
『人間たちと、少々な』
苦々しげにつぶやく、漆黒の竜。竜と人間は、私が物心ついた頃から、共存していたから、争うなんて信じられなかった。
それにしても、ここはどこなのだろう。確かに、ここにいるのは、アルベルト様に違いないのに、私のことを知らないなんて。
『迷子なのか? 送っていってやりたいが、この傷では、まだ動くことも叶わないからな』
『私、迷子じゃないです。傷ついたあなたを、放っておくことなんて出来ませんから……。ここにいさせてください』
黒い竜は、ゆるゆると首を振る。
明らかに小さい子どもを慈しんでいる目だ。
でも、私は体は小さいけれど、子どもではない。だから、私のことを覚えていなくたって、アルベルト様のために、なんでもしてあげたいのだ。
きっと、身動きが取れずにこの場所で傷が癒えるのを待っているのだろう。それなら、私もここにいる。
『行ってきます』
『おい、どこへ行くんだ? 勝手がわからないものにとって、意外とこの森は、深くて危険……』
心配そうなアルベルト様の声が、聞こえてくる。いつもに比べて、少し乱暴な言葉遣い。でも、やっぱりアルベルト様は優しい。
それに、ご心配なく。
この森は、ずっと暮らしていたみたいに見覚えがある。
そう。私は、この森に暮らしていたことがある。
理由の説明ができない確信を証明するみたいに、思った通りの場所に美しい泉が、姿を現した。
その泉に、近づけば、強い風が吹いて、不思議なことに水を掬うのにピッタリの、器みたいな葉っぱが私の目の前に落ちてきた。
この葉っぱは、便利なのだ。
「ありがとうございます」
今なら私は知っている。
この森に吹く風は、とても悪戯好きだけれど、とても親切でもあるのだ。私は、この森の風に愛されている。
私のことを、いつもこの森は、見守っていてくれた。あの日、あの瞬間まで。
思い出しかけた何かに、ズキンと胸が痛む。でも、今はそれよりも、黒い竜に水を運ぶのが先だ。
人間の姿に戻ることができれば、、もっと簡単に運ぶことができそうだけれど、今は元に戻れそうもない。
仕方がないので、葉っぱの器をズルズルと口で咥えて地面を引きずっていく。一度に運べる量は少ないけれど、この水を飲めば、きっとアルベルト様も元気が出るはず。
私は、必死に小さな体で、葉っぱを引きずる。
アルベルト様のそばにいたい、一心で。
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