第18話 灰色の狼みたいな人と忘れられない香り
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なんだか騒がしい。
目を覚ますと、遠くの方でざわめきが聞こえてきた。
起き上がると、部屋の中には私一人しかいなかった。
「アルベルト様?」
私は、慌ててかごの中から服を取り出して身に纏う。
今日も私の服は、メイド服だった。
しかも、前回と違うデザイン……?
どれくらい眠ってしまっていたのか、それすらわからない。
それでも、魔力は完全に元に戻ったみたい。手をぐーぱーしてみれば、キラキラと手のひらの中で綺羅星みたいな魔力が弾ける。
以前は、いくら訓練しても感じることができなかった魔力は、今まで当然毎日存在していたみたいに、当たり前のようにここにある。
そうこうしているうちに、騒めきは、どんどんこちらに近づいてくる。
何かを警戒しているような、困惑と怒りと交えたアルベルト様の声。
アルベルト様がこんな声を出すなんて……。
きっと、戦地でどれだけの敵に囲まれても、たとえどれだけ追い詰められても、アルベルト様は、こんな声を出すことはない気がする。
「何かが起こっているの……?」
ドアの前で、その音が急に止んだ。
そして、勢いよくドアが開く。
開いたドアの前には、まるで灰色の狼みたいな人が立っていた。
獰猛に笑ったその人は、深紅の瞳をしている。
帝国中を探しても、その色合いの人間は一人しかいないと言われている。
だから、いくら何でも、その人のことを私ですら知っている。
でも、その人が私の目の前にいるなんて、絶対にありえないはずなのに。
「――――お前が、べリアの娘か」
その人は、父の名前を口にした。
「陛下! いくら陛下でも、竜騎士団内でこのような狼藉は許されません」
あとから少し遅れて飛び込んできたアルベルト様には、いつもの余裕が感じられない。
「――――ふん、王国のすべてが俺の自由にならないとでも?」
……陛下? うそ、やっぱり本物なの?
私は、慌てて無言のまま膝を折り曲げ、深く頭を下げる。
父が教えてくれた、王族に謁見したときの作法。
相手に求められるまで、決して口を開いてはいけないと教えられた。
優しい父に厳しく教え込まれたその所作。
屋敷の外に行くことがない私に、なぜそんなことを教え込むのか理解できなかったけれど。
……一生使わないと思っていた所作が、なぜか、役に立っています。
私に教えながら、何を考えていたんですか、お父様。
こんな場面が訪れることを、まるで予見していたみたいじゃないですか。
灰色の狼みたいな、陛下と呼ばれた男性からは、香木みたいに甘くて、スパイスみたいにピリピリした香りがする。その香りは、頭の奥深くまで届いて、私の思考を奪っていくようだ。
――――この香りを私は知っている。
その人は、私のそばにズカズカと近づいてくると、屈みこんで私の顔を指先で上に向かせた。
その瞬間、私の瞳と陛下の瞳が真っすぐに交わった。
深紅のルビーみたいな瞳。灰色の髪。真っすぐに私のことを、見つめている。
「あ……」
体が震える。この香りには、逆らうことができない。
この香りは、屋敷から抜け出したあの日、嗅いだ香りだ。
あの時、誰かに攫われそうになった私は、ほむらの名を呼び、そして助け出された。
その後は、ずっと屋敷の中で過ごしていた。
父は、あの日から強い結界を屋敷の周りに張ったから、誰も入って来れないだけではなく、私も外に出ることが出来なくなった。
「やはり、べリアが隠していたか。あの時の……」
怖い、アルベルト様の香りは、あんなに安心できるのに、どうしてこの香りを嗅ぐと、何もかも忘れてついて行ってしまいそうになるの。
「金の瞳、そして空色の……素晴らしいな」
陛下が笑う。
その笑顔を前にすると、オオカミを前にした、無防備なうさぎみたいな気分になる。
その手を振り払うことが出来なくて、その瞳が恐ろしくてガクガクと震えているのに、ルビーみたいな瞳から目を逸らすことができない。
「――――お前の名は、何という?」
「……私、私の名前は」
震える唇で、聞かれるままに名前を告げようとした瞬間、温かい手に引き寄せられる。
私のことを背中から抱きしめる腕の中は、やっぱりどんな場所より安心できて……。
酔ってしまいそうなくらい甘くて、忘れられないくらいスパイシーな香りを、爽やかで優しい甘い香りが上書きしていく。
「……たとえ、国王陛下であろうとも、竜との盟約がある限り、竜騎士団で勝手な行動をすることは出来ないはずです」
先ほどの声に含まれていた困惑は、今はほんの少しも感じられない。
在るのは、明確な敵愾心。
「……アルベルト。その言葉がもたらす結果を理解しているか?」
「――――何があろうとも、俺の答えは変わらないです。……兄上」
何が起こっているのか、全く分からないのに、このままではアルベルト様が大変なことになる。
そのことだけが、はっきりと理解できる。
それなら、陛下と呼ばれたこの人の言う通りにする?
たぶん、私はこの人の傍にいたら、決して逆らうことができない。
美しいルビーの瞳と、この香りは、私の自由を奪ってしまう。
「……今日のところは帰ろう。驚かせすぎて嫌われてしまってはいけないから。俺の名は、ディハルト・デザートリアだ。忘れるな」
恐ろしいほどの威厳を纏って、全ての人間の上に立つ存在であることを嫌でも理解させるような雰囲気の陛下。
それなのに、その人は優雅な所作で、私の前に跪くと、手の甲に口づけを落とす。
記憶から消し去ることなんて到底できない、甘くて辛くてクラクラしてしまうほどの香りが、再び私の周囲に立ち込める。
「竜の姫……必ず手に入れる」
それだけ言うと、嵐そのものみたいな陛下は、マントを翻して去っていく。
私は、アルベルト様の腕の中、消えない香りとその言葉に震えながら、その背中を見つめていた。
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