悪役令嬢、子守りをする 後編
んん、何だか眩しい。
はっ! と目を開けると外はすっかり明るくなっていた。
ああ、昨日は疲れていたから寝落ちしちゃったのか。
起きようと体勢を変えた途端、うぐっ!? か、身体が痛い!
あちゃ~、やっぱり昨日の労働で全身筋肉痛になっているみたい。
でも、今日も仕事をしなきゃいけないし、ヨガでもやって身体を解しておこう。
ノロノロとベッドから降り地べたに座り込み、試しに前屈をしてみる。
ぐぐぐ、イザベルの身体は硬いわね。
そのままゆっくり呼吸をしながら、前世で習っていたヨガのポーズをしているとコンコンッとノック音が聞こえた。
「イザベルさん、失礼します」
「え!? あっ、はい!」
私はちょうど天秤のポーズをしていたため、すぐに扉を開けられずにいるとガチャッと勢いよく扉が開いてしまった。
「…………」
「…………」
私は夜着のまま部屋の真ん中でヨガをしていたのだが、扉を開けたルーシーさんに真っ正面から天秤のポーズをする様子を見られてしまった。
ルーシーさんは見てはいけない物を見てしまったと思ったのか、そのまま無言でパタンと扉を閉めて、外から私に向かって話しかけた。
「イザベルさん、昼食の時間になりましたので呼びに来ました。替えの修道服は扉の外に置いておきますので、身支度が済んだら広間まで来てください」
私は気まずい思いのまま「はい」と返事をして、身支度を始めることにした。
* * *
身支度を済ませ広間にいたルーシーさんに声をかけた。
「ルーシーさん、おはようございます」
「イザベルさん、おはようございます。昨夜はよく眠れたみたいですね。朝食の時間帯はノックをしても反応がなかったので声掛けしませんでしたが、お腹空いているでしょう? 大食堂に行けば食事を提供してもらえますので、三人で行きましょう」
「はい」
ん、三人?
「ルーシーさん、三人、ということはもう一名来るんですか?」
「ああ、言い忘れていましたね。今日の夜勤は私と貴女とクロエさんが担当する事になりましたから、昼食の声掛けをしてきたんです」
ああ、昨日話したあの方か。
昨日の事を思い出しているとクロエ様が広間に顔を出した。
「おはようございます、ルーシー様、イザベル様」
「おはようございます」
「では揃いましたので大食堂に行きましょうか」
大食堂に行き食事を受け取ると、三人で空いている席へ座った。
私は朝食を取っていなくて空腹だったこともあり、黙々と食事を口に運んでいたが、ふっと昨日考えていた『愛着障害』の事を思い出した。
食事時なら話しやすいし、今ならちょうどいいタイミングだわ。
「あの、ルーシーさんちょっといいですか」
「はい、何でしょう」
「昨日ここの子達を見ていて思ったんですが、愛着障害の症状が出ている子が何人かいるみたいなんですけど」
「アイチャクショウガイ? それは一体何ですか?」
あ、しまった! この世界では前世ほどの育児の知識がないんだった!
そりゃ、愛着障害なんて知らないわよね。
聞き慣れない言葉にクロエ様も不思議に思った様で、首を傾げている。
「私もアイチャクショイガイという言葉は初めて聞きましたわ。どういった意味なのでしょう」
「ええーと、書物で拝見した事があるのですが、幼い時に養育する者がすぐに入れ替わったり愛情に触れる機会が少ないと、他人との距離が上手く掴めず、大人になった時も対人関係にトラブルが出たり精神的な病に侵されたりする事があるそうなんです。社会に出た時に子ども達が困らないよう、乳児期から二歳児くらいまではなるべくお世話をする人間を固定した方がいいんじゃないかと思いまして」
ルーシーさんは聞き慣れない知識に興味を示したようで、前のめりになりながら真剣に話を聞いている。
しかし、世話をする人間を固定する、というワードが出た途端、表情が曇った。
「その話が本当ならそうしてあげるのが子供達にとってもいいでしょう。しかし、ここの孤児院は万年人手不足で子供達一人一人に修道女をつける事は出来ませんわ」
「それは、私も理解しています。現在ここは乳児以外は年齢に関係なくまとめて子供達の面倒を見ていますよね? それを大まかな年齢に分けてクラス制にして、担当を置くのはどうでしょう。それと併せて修道女に数名の担当児を作って、親代わりに愛情を注ぐ相手役を担ってもらう……というのは如何でしょう」
「なるほど。面白い試みですね」
「年齢が近い子供達が集まればそれだけお世話も纏めてしやすくなりますし、担当児と言っても、その子だけにかかりきりになるわけではなく、全体の調和を見つつ優先的に面倒をみる、といった位置付けにすれば、仕事の手を止める事なく出来ると思うのです」
ルーシーさんはしばらく考え込むと、徐に口を開いた。
「クラス制という案は確かに理にかなっていますね。それに、孤児達の事を考えたら、アイチャクショイガイという症状も放置してはいけない事がよく分かりましたから、担当児を付けるという案も取り入れてみたいです。院長に話を通してみて、許可が降りれば現在の体制を少し見直してみましょう」
ルーシーのその言葉にほっと胸を撫で下ろした。
良かった、これで少しでも子供達の環境が改善されれば嬉しいわ。
「お話を聞いて下さりありがとうございます」
「いえ、こちらも年齢がバラバラな子を纏めて相手にするのは大変でしたし、体制の見直しについてはいつも考えていましたから。……さぁ、皆様の食事も済んだことですし、そろそろ行きましょうか」
その後、孤児院へ戻った私達は、夕方の勤務まで一旦部屋で待機することになった。
私は部屋で親に向けて手紙を書いていたが、あっという間に勤務の時間がやってきた。
「イザベルさん、この後は夜勤の時間になりますから私について来て下さい」
「はい」
私はルーシーの後について行くと、いつもの広間を抜け、さらに奥の部屋へと案内された。
すると、先に来ていたクロエ様が既に乳児達のお世話をしていた。
「ここは新生児から一歳になるまでの乳児が過ごす部屋になります。私は一旦二階の寝室にいる修道女と引き継ぎをしてきますので、クロエさん、その間だけイザベルさんの指導を任せてもいいかしら?」
「はい」
「じゃあ、よろしく頼みましたよ」
ルーシーはそう言い残し、足早に二階の寝室へと向かった。
クロエ様はお世話の手を一旦止めると、私に向かって話しかけた。
「イザベルさんは乳児のお世話は初めてですよね?」
「え、ええ(現世では)初めてですわ」
「では私がまず手本を見せますね」
クロエ様はそう言うと、一旦止めていたお世話を再開した。
ん、オムツ交換の仕方があれだとやりにくいのでは?
「あの、クロエ様」
「はい、何でしょうか?」
「オムツ交換の仕方なんですが、新しいオムツを先に下に敷いておかないと衣類に汚物が付いてしまいませんか?」
「え?」
「新しいオムツをこうして……それから汚れたオムツを替えてあげた方がやり易いと思いますよ」
「なるほど。確かにその方が赤ちゃんが急に動いても周りを汚さずに済みますね。それも書物から得た知識ですか?」
「えっ!? そ、そうですわ」
「まぁ、イザベル様は本当に博学でいらっしゃいますね。素敵ですわ!」
「あ、ありがとうございます」
クロエ様、ごめんなさい。
たぶんこの世界にそんな書物は存在しないと思う。
私の嘘を信じ込むクロエ様に罪悪感を抱いていると二人の乳児が同時に泣き出した。
クロエ様は慌てて様子を見に行くも、二人同時に面倒は見れないため一人の乳児を泣かせっぱなしにしている。
このままではこの子が可哀想だ。
私は泣いている乳児をそっと抱き抱えた。
ふむ、オムツが汚れているわけでもなく、身体にも異常がない。
ということはきっとお腹が空いているか、上手く寝付けなくて愚図っているかのどちらかね。
お腹が空いているならミルクあげなきゃ泣き止まないよなぁ、と思って辺りを見渡すと前世でも見覚えのある缶が。
おぉ、この世界にもミルク缶があるのね!
じゃあ、試しにミルクを作ってあげてみようかしら。
「クロエ様、この子お腹が空いているんだと思います。ミルクを作ってあげてみてもいいですか?」
「え? いいですけどミルク作れますか?」
「ミルク缶には説明書きがありますよね。それを見て作ってみます」
私はミルク缶のそばにあった説明書きを確認しつつミルクを作ってみた。
「よーしよし、泣かないで。今ミルクが出来ましたよ」
優しく乳児を抱っこしながら、哺乳瓶でミルクを飲ませてみると、やはりお腹が空いていたようで、勢い良くミルクを飲んでいる。
その流れでゲップ出しや寝かし付けをすると、クロエ様がきょとんとした顔をしている。
「イザベル様、先程乳児のお世話の経験はないと仰っていたのに……」
うぎゃー、まずい! 流れでついお世話をしちゃった!
「イザベル様は本当に何でも出来るのですね! 美人で博学で天才肌だなんて、ああ、こんな理想的な方今までお会いしたことありませんわ」
な、なんだかよく分からないけどクロエ様が興奮し始めた?
どう返事をしたらいいのか悩んでいるとクロエ様は感極まった様子で私の両手をガシッと握りしめた。
「イザベル様! 私、貴女様に着いて行きますわ!」
「ク、クロエ様?」
「様など必要ございません! どうか、クロエとお呼び下さい」
「呼び捨てはちょっと。それではさん付けは如何でしょうか? 私のことも様付でなく、気軽にお呼び下さい」
「そんな恐れ多い! あ、それでは是非『お姉様』と呼ばせて下さいまし」
「え、えぇ!? クロエ様は確か私と年齢が一緒ではありませんか」
クロエ様は急に捨てられた子犬のような目をして私を上目遣いで見つめて来た。
「ダメ、でしょうか……?」
うぐっ!
そんな顔されると流石に断りにくい。
「で、では、二人きりの時限定なら」
「はいっ! そう致しますわお姉様!!」
あ、あれ、おかしいな。
何もしていないのに、なんか悪役令嬢っぽく取り巻きが出来ていませんか?
予期せぬ出来事に内心動揺していると、二階からルーシーさんが降りて来た。
「クロエさん、イザベルさんの教育の進み具合はどうですか?」
「はい。イザベルさんは乳児のお世話を完璧にこなしておりましたので、私から教えることは特にありませんでした」
「ええっ、イザベルさんは乳児のお世話も出来るんですか!? アルノー家では育児の教育でもされているのかしら、凄いわね!」
ああっ!
クロエさん、余計な事を!
「貴重な人材が来てくれて本当に助かるわ。これからは研修期間を切り上げてバンバン仕事を任せますからよろしくお願いします」
ええ! 研修期間たったの二日だけ!?
己の無駄に高い育児能力を後悔する間もなく乳児達は再び泣き出した。
その後は一晩中世話に明け暮れ、気付いた時には交代の時間になっていた。
ここから先の話は書籍化に伴い取り下げとなっております。
次話以降は書籍部分に含まれない箇所から始まっておりますのでご注意ください。