第2話 うどん
珍しく親父が「二人で外食しよう」と提案してきて、結果うどんを食べている時のことだった。
「啓太がコーチのライセンスを取ろうとしているって聞いたんだが、本当か?」
麺を啜るついでのように、親父はそんなことを訊いてきた。
「高校生が取れるライセンスがあるならね」
「今年十六歳だろ。ならD級は無理……キッズリーダーなら取れるか」
「えっ、D級無理なんだ」
D級ライセンスはJFA(公益財団法人 日本サッカー協会)の認定コーチライセンスだ。
コーチライセンスはJリーグのトップチームの監督まで可能な『S級』を頂点として、ピラミッド型に細分化されている。
しかし。
「キッズリーダーって、なに?」
そういう名称は聞いたことがない。○○コーチライセンスではなく、リーダー?
「十六歳から取れる、子供向けの指導プログラムを教わった人……と言ったところだ。一番取りやすくて更新もいらない。D級も、更新はいらないんだけどな」
親父とは、俺が留学して以来それほど蜜なコミュニケーションを取ってこなかった。
帰ってきてからも、サッカーを続けるかどうか悩んでいることだけを話して、それっきりだ。
留学中に母さんが死んでも、俺は告別式に間に合わせるのが精一杯で、その後もすぐまた飛び立ってしまって…………。結局親父にはほとんど言葉をかけられなかった。
酷く落ち込んでいて、母さんが死んだことと同じぐらい親父の憔悴した姿がショックだったんだ。
思えばこの時から距離が生まれたような気がする。
満足にプレーできず行く道を迷い始めた俺に、気を遣ってもいるのだろう。
加えて、母さんの反対を押し切って留学を認めたのは親父で、結果、俺は母さんの死に目に会えなかった。頭のネジが一本も二本も外れたように常識より信念を優先する親父でも、さすがに責任を感じているのかもしれない。
こうして対面していても、昔のような陽気さや覇気が感じられない。勢いある新興企業の若手経営者が手堅い中小企業の中年社長になったみたいな、そんな違いだ。
端的に言えば真面目になった。固くなった。
歳を取ったからか……?
髭も昔より伸ばしてるが致命的に似合っていない。ハゲてはいないが家に白髪染めがあったから、ついに白髪が目立つようにはなったか。元の顔は鼻筋が通っていて若い頃の写真はイケメンというか古き良き『ハンサム』な感じで、今も年齢よりはずっと若く見える。髭が似合わない顔なのかな。
……もし母さんのことで責任を感じて生き方を変えた。その象徴が似合わない髭なのだとしたら。俺はそんなどうしようもない、誰のせいとも言えない責任、感じてほしくなどない。昔のままでいてほしい。
そうして距離ができていたのに、突然こんな機会を設けたわけだ。
コーチライセンスの取得を考えていることが切っ掛けになったのなら、ちょっと嬉しい気もする。
ただ――。
俺はズルズルとうどん麺を啜り、飲み込んでから言葉を口にした。
「キッズリーダー……ねえ。子供向けの指導を教わってもなあ」
考えていたD級ライセンスの取得ができないと知って、いくらか気落ちした。
ライセンスがあれば、もしサッカーを辞めたとしても親父の手伝いぐらい、できたかもしれないのに。
「人生を迷った時にこれまでと違った視点を持つのは、良いことだ。少なくともマイナスにはならない」
「……まあ、気が向いたら、ね」
しかし気になるのは、どうも親父が余所余所しいというか、なにか他のことを考えているようで落ち着きがない。
ドバドバ七味唐辛子をかけて黄金色のスープを赤く染めたり
割り箸を二膳連続で割り損ねて仕方なく長短に分かれたまま使いにくそうに使ったり
イカ天を食べて「この肉旨いな」とか言い出したり……。
これが単なる外食ではなく、何か別の理由もあってのシチュエーションなのだろうと想像するには十分だ。
頼み事だろうか。
割とケチなほうのくせになんでも好きなもの注文しろとか、うどん屋で好きなもの注文しろと言われても高が知れているわけだけれど、変な気前の良さ、率直に言えば裏のありそうな言動を取っていることも気になる。
でもやっぱり、覇気がない。
何かを企んでいるんだろうけれど、そこに強引さを感じない。
昔なら『巻き込んでやるぜ!』ぐらいの勢いがあったんだけれど、今は『引き受けてくれるかなぁ?』ぐらいの印象だ。ちょっと気味が悪い。乙女か。
「プロになるなら、こういう経験はどこかで役に立つ」
「そう簡単にプロなんて……。もし高校で一度もプレーできなくてアカデミーからも見放されたら――、そんな人間をスポーツ推薦で招き入れる大学があるとも思えないし。諦めるなら今が丁度良いかな、とか考えてる」
靱帯の損傷に加えて俺が患ったもの。
『オーバートレーニング症候群』
平たくいえば過労で競技パフォーマンスが落ちて、精神的にもうつ状態となる病気だ。
今までサッカー汁の古漬け(十五年もの)になるほど、努力に努力を重ねて戦ってきた。それが努力しすぎて練習できなくなったのだから、そりゃ、うつ状態にもなる。
アカデミーチームは俺に対して、最長一年間の加療を日本で受けることを言い渡してきた。
でも、世界中から天才だけが集められた超ハードモード環境に、一年も練習から離れて簡単に戻れるのか?
……俺はサッカーでメシを食う未来を目指して、目下挫折中だ。不安しかない。
ただ、プロを目指すということでは完全に迷っているけれど、どんな形であれサッカーに携わりたいという気持ちだけは今もある。
「もし俺がプロを諦めたら……。その時はスポーツ科のある大学を受験して、指導者の道も考えてるよ。本格的に学んでいつかS級ライセンスまで取れたら、Jクラブの監督だって可能性はあるかもしれない。そうでなくても親父みたいな仕事がある。それだって、サッカーにかかわるプロだよね」
親父を間近で見て育ってきたからか、プロクラブの監督やコーチはもちろんのこと、地域での選手育成といった仕事も全てがサッカーに携わるプロである――と、理解しているつもりだ。
すると親父は嬉しそうに頬を緩めて、こんな提案をしてきた。
「そうか――。なら話は早い。四月からレポロに中学生の女子チームを作ろうって話があるんだ。啓太、そこでコーチをやってみないか?」
「なんで俺が、女子チームのコーチなんて……」
唐突に妙なことを言いだしたな。
何かあるのだろうとは思っていたけれど、女子チームは予想外だった。
大体この辺りに女子チームなんてあったか?
いや、無いから作るのか。昔からそういう希望は多かったしな。そうやって開拓していくところは昔の親父らしくて良いけれど。
「うちはコーチの数が足りていないんだ。他にお願いできる奴もいないし、さっきも言ったとおり、違った視点を持つことは今後に活きるだろう。お前に憧れてサッカーを続けている選手もいる」
「そんな風に言われたら、悪い気はしないけどさ。……俺、もし復帰するなら一年程度しか日本にいない予定だし、ひょっとしたら膝さえ治ればすぐに呼ばれることもあるかもしれないよ? ――勉強だってある。そんなに暇ってわけじゃ……」
困ったことに学業の面で、サッカー漬けの毎日を送った分の取り返しができていない。
時間は全ての人に平等で、他の人が遊びや勉強に費やす時間を俺はサッカーに全振りして費やしただけの話だ。
けれども留学先では、勉強も求められて面食らった。
知性もプレイヤーに必要な要素だと考えられている――。それは日本の感覚でも理解出来たけれど、その頭の良さはプレーに関する事であって学校の勉強ではないと思っていたからだ。
せめて簡単な英語だけでも勉強しておけば良かったって、本気で後悔したよ。
もしも昔に戻れるのなら、「サッカーしに行くだけだから」なんて言っていた自分に、「そんな上手い話はねえよ」と現実を突き付けてやりたい。
更にチームのオーナーは、
『選手を預かる以上は、知識や教養を身に付けさせることもアカデミーチームに課せられた責任だ』
――とも、語っていた。
「大体、コーチは大人……例えば十八歳以上限定にする、とか、そういうのはちゃんとしたほうが良いんじゃないの。ライセンスを取れない年齢に任せて良いのかよ」
オーナーが言っていたように、選手を預かることには責任が生じる。
留学生じゃないから、礼節は教えても知識や教養まで面倒を見ることはないだろう。そこは学校がやってくれる。
だが、サッカーはコンタクトスポーツであり、事故や怪我がある。そういうものの責任を高校生に負わせるのは、重すぎるだろう。
親御さん――保護者――の信頼を損ねることにもなりかねない。
「当然、正規の監督やコーチが見守る中でやってもらうことになる。……いや、いっそコーチの育成をはじめてみても良いかもしれないな。やる気があるなら中学生でも受け入れてみる――というのもあり、か」
あ、この人、根は変わってないわ。中高生にコーチやらせるとか普通じゃない。頭おかしい。よかった。
問題はどこまで本気か、だが……。
「……あのさ、事情は解ったんだけど、その提案を俺が受け入れたとして、トレーニングとか勉強の邪魔にはならないの?」
「できる限りの配慮はする。それでも邪魔になるようだったら、いつでもやめていい」
FCレポロが指導者不足に喘いでいることはよく知っている。昔からそうなんだ。
俺はまたズルズルと、緩んでコシの消えかけたうどん麺を啜って、最後に出汁の利いた黄金スープをゴクリと飲み干す。
ちょっと揚げ物を載せすぎて油っぽくなってしまったけれど、このスープは旨い。
というか、日本のうどんうめええええっ! フィッシュ&チップスの国から日本に帰ってきてまずコンビニのおにぎりで泣きそうなぐらい感動したけれど、こういう、スープの匂いが壁に染みこんだような味のある店はまた格別に旨い。
舌に、喉に、胃に、染み渡る――ッ。って感じだ。あとで店主を拝もう。
軽くなった器を温もりのある木製テーブルへ置くと、コト――っと上品で小さな音が鳴った。器もテーブルも、良いものなのだろう。
忙しそうに働く店員さんを一瞥してから、俺は小さく「ごちそうさま」と呟いて口の前で手を合わせる。本当に美味しかった。
……このまま高校に通い始めても、通信制課程。
登校は週に一度で十分だそうだ。これは治療と再留学を視野に入れての選択である。
そんな環境にサッカー部があるのかなんて知らないし、あったとして休養を命じられた俺が入部するわけにもいかない。
というか色々な規約に引っかかりそうな気もする。
サッカーは小学生でもチームを変えると『移籍』と呼ばれて、その年度とかそこから一年とか、決して短くない期間、公式戦に出られなくなったりする世界だ。面倒くさっ。
このままでは、リハビリはできてもサッカーに触れる機会が乏しいのも確かで、それじゃ落ち着かないような気もしている。
本当に、サッカーばっかりやってきたからなあ……。
「――支障が出たら辞めるけれど、それでもいいのなら、やるよ」
結局俺は、親父の提案を受け入れた。
決して、うどんで買収されたわけじゃない。
プレーから離れている今だからこそ違う視点を持つ必要があるのかもしれないし、プレーを続けるにせよ諦めるにせよ、真剣に向き合いたいんだ。
じゃないと、きっと後悔する。
「そうか、助かるよ」
え、一言だけ……?
ことサッカーに関してはうるさいぐらい熱く語る人だから、引き受けたら即行でコーチの仕事内容とか選手への指導方法とか勝手に喋り出すと思っていたんだけれど。
やっぱり、らしくないな。