第4話 才能なんて、生きかた一つでいくらでも変わる
ましろ先生が去ってしばらくすると、手術を終えたチサがベッドに乗せられて、病室まで運ばれていく。
俺たちは親父――監督から、前もってこう伝えられていた。
『見るんじゃないぞ。全身麻酔の手術後というのは、意識が朦朧としていてな。覚えてはいるし、そのときは恥ずかしいとかそういうことを考えられる状態じゃないんだが、少なくとも人に見られて気持ちのいいものではない。女の子となれば、殊更だろう』
病室へ向かうベッドを遠目に見送るだけにして、チサと会うのは明日以降ということに決めた。
今日はお父さんが泊まっていくそうだし、親子の時間を邪魔するわけにもいかない。
これ以上やれることがないのなら、帰るしかない――。
夜の閑散とした待合室に座りながらそう思っていたところで、「そろそろ帰るか」と切り出して、誰も反対することなく車へ乗り込んだ。
それから三日間、月曜、火曜、水曜と続けて、俺とソフィはチサの病室を訪れた。なぜか俺たちが来るとお父さんがホッとした表情をするから、ひょっとして喧嘩でもしたのかと勘繰ってしまう。
その原因がもしも『退院後自宅に帰るかどうか』で意見が割れているとかだったら、どうしよう――と心配して、その意味をチサに問う。
すると困り顔で、簡潔に解説をしてくれた。
「お父さん、しばらく離れていた娘とどう接したらいいのか、わからないみたいです」
単に年頃の娘を持つ親の苦悩だった。倉並家のヒロシと言い、娘を持つ父親は大変だ。一応、うちの親父もか。
俺にもいつか、そういう日が来るのかね……。
病院の時間はゆっくりと流れて、チサは本当に術後翌日からリハビリを開始。もちろん極軽い負荷というか、どちらかというと松葉杖の使い方を覚える――という感じだ。
自慢じゃないけれど、靱帯損傷の経験から、松葉杖に関しては一家言がある。
杖の高さとか、下ろす位置とか――。我ながら悲しい一家言だ。でもチサの役に立てるなら、苦労した甲斐もある。
あっという間に退院を迎えたチサは、本当の家族がいる遠方の自宅ではなく、うちへと帰ってきた。
「お父さんが珍しく厳しいんですよ。いつも過保護なぐらいなのに」
それもあって娘とどう接したらいいのか、わからなかったのだろう。厳しくすることは優しくするより、ずっと難しい。
やっぱり、俺も娘を持ったらこんな思いをするのかなぁ……。娘に嫌われるのは、辛いだろうなぁ……。
「チサは、お父さんのこと、好きか?」
「え?」
チサはビックリした顔でこっちを向いて、しかしすぐに表情を笑顔に変えた。
「当たり前じゃないですか」
俺、娘ほしい。超ほしい。娘ヤバい。絶対可愛い。
――さて。こうして大会が終わりチサが帰ってきて、少し違う形ではあるけれど日常が戻ってきた。
これにて一件落着。
一ヶ月後の選手権大会に向けてチームを鍛えていく日々の始まりだ。――――と、思っていたのだが。
俺は結衣に呼ばれて、ある場所で待ち合わせをすることになっていた。
「女の子を待たせるって、どうなの?」
なんて、五分前に到着したのに怒られてしまう。
こいつは諸事情を抱えていることもあってスマホを持っていない。ただ、施設の中に共用のパソコンがあるらしく、メッセージアプリはとりあえず使えるそうで、確かにまあ連絡は取れた。
……けどあれって、スマホにアプリを入れて持ち歩いているから便利なわけであって、固定されていたらメールやFAXと同じようなものだからな……。
「何分前に着いたんだよ」
「…………さっき着いたばかりよ」
その台詞、最初に言ってくれないかなぁ。『ごめん。待たせたな』『ううん、今来たところよ』って。普通は男女逆か?
ちなみにこの待ち合わせは、チサに内緒だ。正確を期すれば、内緒にしてくれと結衣から頼まれた。
だからといって、これをデートの誘いだなんて思っちゃいない。
サッカー野郎とラブコメ展開なんて、確実に相容れないものだ。デートの時間があるならサッカーをする。これが正しいヘディング脳である。
要するにアホなのだ。
なのにこの誘いに付き合ったのは、どうせチサの誕生日プレゼントを一緒に買いに行こうって話だろう、という展開が見えていたからに他ならない。
「行きましょ」
「折角だ。でっかいショッピングモールまで行くか? この辺は品揃えの悪い店しかないぞ」
炭酸対応の水筒だって、結局アマゾンのお世話になりそうだし。
でも折角一緒に選ぶなら、品揃えの良い店で実物を見ながら決めるのも、今の時代には乙なものだろう。
だが結衣は眉根を寄せて「はぁ?」と言ってきた。
「デートじゃな――あっ、いや別に、デートでもいいんですけれどね!?」
なにその伝統的ツンデレ芸。めっちゃ似合ってるんですけど。
「……予約取ったんだから、早く行くわよ」
「なんの予約だよ」
「…………」
しばらく黙った後、結衣は口を少し尖らせて小さく「病院」と口にした。
看護師に「受付番号四十四番のかたー」と呼ばれる。ましろスポーツクリニックは俺が来るたびに四十番台を当ててきている気がするのだが、気のせいだろうか。
「……なんだ…………君の知り合い…………か」
「看護師さーん! ましろ先生がまた電子タバコ吸ってまーす!」
「こら!!」
即行でやってきた女性看護師に電子タバコを取り上げられ、ましろ先生は「待て。私物の強制没収はパワハラとかセクハラとかナニハラとか何かに該当するぞ。時代はなんでもハラスメントだ」なんて抵抗した。しかし「仕事の邪魔です」とピシャリと言い切られて、本当に残念そうに肩を落とす。
あんたこのクリニックで一番パワーあるし、電子タバコとセクハラは関係ないだろ。
「……君はろくな大人になれないな。伊藤に負荷三倍のメニューをオーダーしておくから、覚悟しておけよ」
「どう考えても、先生のほうがろくな大人じゃないですよ」
リハビリトレーニングを担当する筋肉魔神こと伊藤さん。肥大化を極めた筋肉に反してそのメニューは『細かい筋肉まで徹底的にいじめ抜くこと』に特化している。
なんでも、大きい筋肉は大らかな子で家でも鍛えられるけれど、細かい筋肉は繊細な心を持っているからしっかり指導者が付いて丁寧かつ丹念に追い込まないといけないそうだ。筋肉の心って何?
「で、そっちのお嬢さんは――、前に会ったな。どうした?」
訊ねた先生に一歩近寄って、結衣は突然、九十度に腰を折った。
「私がオーバートレーニング症候群でないか、検査をしてください。お願いします」
俺は唖然とした。
そうするしかなかった。
疑いは決勝戦のプレーで晴れていたからだ。オーバートレーニングの状態で最高のパフォーマンスを意図的に引き出すなんて、できやしない。できるなら問題なんて無い。
だから逆説的に言って、ベストのタイミングでベストの力を出せるのならオーバートレーニングの状態では、ない。
だが結衣は自らここの予約を取って、わざわざ俺を一緒に連れて、この言葉を口にした。
先生は一つも表情を変えずに、問う。
「誰かに指摘されたのか?」
結衣が頭を下げたまま、答える。
「――――親友が初めて私に啖呵を切って、指摘してきました。後輩は私を庇うために無理をして、手術までしてしまいました。憧れていた先輩にも、疑われています」
「自覚症状は?」
「…………下手に、なりました。体が思うように動きません。足も遅くなって、体力も落ちました。…………………………もう………………………………もう、誰かに迷惑かけたくないっ。下手になる練習なんてもうしたくない! もう……………………これ以上は、無理です………………」
白い床にポタポタと涙が落ちて、静かに弾けた。
瀬崎結衣と寺本千智。二人のプレーは紙一重で結衣が勝っている。それが俺の最初の評価だ。
五月になって評価は逆転し、チサの自由奔放で変幻自在なプレーを前にしては、結衣の才能は堅実で、天才と呼ぶよりは秀才――。そういう評価へと変わった。
だが決勝戦の後半、結衣は間違いなく天才だった。
濡烏の髪は汗で碧く艶めき、相手の予測を尽く裏切って驚かせる。正に孤高の存在。
紺碧の狐と呼ばれる所以を、確かに見た。
「――――自分からオーバートレーニングの診断をしてくれと申し出る患者は、珍しい。だが、もしもここに至るまで誰にも相談していないのだとしたら、君は少々……、孤独すぎる」
ましろ先生は静かな診察室の中で薄く響いた言葉の音が鳴り終えるのを待ってから、「いいだろう。調べてみよう」と、了承してくれた。




