第1話 気遣いと不安
包帯で巻いてあったチサの右膝が予想以上に腫れていると気付いたのは、表彰式を終えたあとだった。
多湖コーチはバスの運転があるからチームを離れられず、タクシーか救急車か、というところで倉並家のお母さんが「病院に連れて行くんだろ? 後ろに乗りな!」と言ってくれて車を出してくれた。
病院にはあとで監督が来て、その足で帰る予定となり、倉並家――七海と美波――の両親には深々と頭を下げて礼を伝える。
スタジアムDJの件と言い、二日間、とんでもなくお世話になった。
近くに大規模な病院があったのは、幸いだったと言えるだろう。
通常診療は午前中のみの受付だったけれど、そこは多湖コーチが事前に連絡済み。救急患者として受け付けてもらう。
「寺本千智さんの、付き添いのかた――」
それから三十分ほど待つと女性看護師に呼ばれて、俺とソフィ、結衣の三人で診察室へ入った。
家族が近くにいないという事情も、救急の連絡と併せて電話で伝えてある。
入ると診察用の細長いベッドにチサが横たわって、傍らに長髪の女医らしき姿があった。
チサは右手の甲に点滴を繋げていて、痛々しく見える。
「……ん? 君は……」
不機嫌そうな女医の顔を見て「げっ――」と思わず声が漏れる。
「ほう。主治医に会って『げっ』か。ほう……」
「あっ。いやその――――。ましろ先生が何故ここに?」
常に不機嫌そうな顔。
きっと電子タバコ中毒で電子タバコを使わせてもらえないから、余計に機嫌が悪いのだろう。紛れもなく俺の主治医である。
自分の診療所はどうしたのだろうか。
「バイトだ」
「医者がバイトですか?」
そういえば日曜は午前だけの診療で、午後はリハビリ施設しか使えなかったな。普通に休みだと思っていたんだけど。
「便宜的にそう呼んでいるだけだ。こうして大病院に協力すると、大きな見返りがある」
「はぁ……。――って、それよりチサの状態は!?」
「敬語」
「……状態はどうなんですか?」
面倒くさい人だ。俺が悪いんだけれど。さっきも多湖コーチと似たようなやり取りをしたしなぁ……。
「心配ない。俗に言う『ネズミ』が右膝にあるだけだ。しかし場所が悪い」
「ネズミですか……」
ネズミというのは、骨や軟骨が本来の場所から剥離してしまい、その欠片が関節内で移動してしまう症状だ。
それほど珍しいことではなく、サッカーを含めスポーツをしていれば、しばしば聞く俗称だと思える。
ただ、症状の重さは様々。
無症状で全く気付かない場合もあれば、関節が動かせないほど痛む場合もある。チサの場合は後者ということだろう。
ましろ先生はデスクの上から膝関節の標本を取り出して、説明を加えてくれる。
「軟骨の一部分が剥離して、こういう形で間接の内側に入り込むわけだ。そうなれば関節はロックされて、動かない。骨と骨が直接ぶつかるのだから、激痛も伴う。――だが然るべき治療をすれば――、まあ、全治三週間から四週間と言ったところだろう」
全治までの期間を聞いて、俺はホッとしていいのかわからずに、ただ押し黙った。
決して軽い怪我ではない。
それでも何ヶ月も時間がかかる怪我が沢山ある中では、治療期間は短いほうだとも感じられる。
「今日中に手術を行う。そのまま三日の入院。しばらくは松葉杖だ」
「手術ですか!?」
「なぜ驚く? 普通、手術というものは予定が空くまで何日も待つものだ。むしろ早くできることを喜べ」
「いや、でも、今からって……。チサ――千智の両親は、すぐに駆けつけられないんです。不安とか、その――」
「優先順位を付けろ。手術まで続く痛み、動けない間に落ちる筋力、復帰までの期間、手術の恐怖。――今日手術をすれば、三週間後に歩ける。競技パフォーマンスへの影響を最小限に留めるなら、今日がベストだ。無論、私が執刀する」
「……そんなに酷いんですか」
「君は、その歳でもう物覚えが悪くなっているのか? 心配ないと始めに言っただろう。酷くはない。完全に治すこともできる。復帰までの時間も比較的短い。問題になっているのは『手術というものへの抵抗感』。ただそれだけだ」
……確かに、俺が言っているのは、専門医の判断するベストの選択肢に対して、単なる感情論で抵抗しているだけなのだろう。
手術を受けるのが俺だったらそれは、許されるのかもしれない。でも、痛い思いをしているのはチサ――。
「私なら大丈夫です。……そんなに不安そうな顔、しなくても、大丈夫ですから」
気付いた頃には、俺の手はチサの小さな手を握っていた。
「命に関わるような話じゃないですし、手術と言っても小さな穴を開けるだけだそうです。それに今からまだ検査をしないといけないみたいで……。お父さんだって、急いでここへ向かってくれているそうですから」
多湖コーチが電話連絡をしていた中にはきっと、チサのお父さんも含まれているのだろう。
「痛み……ないか?」
「今は大丈夫です。点滴に痛み止めが入っているそうなので」
「……怖く、ないか?」
問う俺のほうが怖々としていて、これではチサを不安がらせるだけだ。
それに気付いたのか、チサは困ったように笑う。
「怖いですよ。――でも、啓太さんがそんな顔をしていたら、怖がれないじゃないですか。私は大丈夫ですから――」
この子は本当に強い……。
自分が一番不安なはずなのに、俺のことを気遣って何度も大丈夫、大丈夫、と繰り返してくれている。
後ろからソフィが、チサの手を握る俺の手を、更に上から包み込むように、そっと握ってきた。
「チサト、みんな一緒だよ」
更にその上から、結衣が両手を重ねる。
こいつら……。
こういう時には女の人のほうがメンタルが強いってのは、よく聞く話だけれど。……本当に、そうなのかもな。俺ばかりが狼狽えてしまっていたようだ。
「チサ――。これは昔、多湖コーチから聞いた話なのだけれど」
結衣は先輩らしく、優しく微笑んだ。
きっと不安を和らげることのできる話を、持っているのだろう。
「ちょーっと足の肉を開いて折れた骨を肉の中で動かして、時と場合によっては針金やボルトでガッチリ骨やら靱帯やらが固定されるし骨に穴開けて血がピューピュー噴き出ることもあるけれど、全然怖くない――だって」
いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!! 肉開いて骨動かすとか血がピューピューとか、完全にスプラッタ映画のワンシーンじゃねぇか!!
チサの手がプルプルと震える。
「わたっ、わた、私しししっ死んじゃうんですか!?」
ほら! 実験用のモルモットみたいになったじゃん!! 今から解剖される顔してるよこの子!!
だが結衣は女神のように優しく微笑むと、意外な言葉を紡ぎ出した。
「――ようやく、普段の顔に戻ったわね」
過去に聞いたことのない温和な声のトーン。
それは先輩どころか、まるで母親のようで、結衣の高飛車な印象からかけ離れて――。俺は正直、胸を打たれた。
「チサ。手術なんて誰でも怖いと思うわ。だからそうやって怖がっているほうが正しいのよ。年上に気を遣うより、精一杯、自分のことだけを考えて怖がりなさい。あとのことは全部、任せてくれていいから」
考えてみればチサと一番付き合いが長いのは、結衣だ。
元々は姉妹のような関係性で、体の小ささを理由にサッカーをやめようとしたチサを思いとどまらせたのは、いつも結衣だったと聞いている。
言葉を聞き終えると、プルプルと震えていたチサの手がゆっくりと治まり、表情も徐々に和らいでいった。
最後に、デスクに向かって背中を向けたまま、ましろ先生が言葉を付け加える。
「骨、靱帯、血――。腕が鳴る――ッ!!」
俺はこんなに短い言葉で人を不安にさせる人を、他に知らない。この人、ただ手術が好きなだけなんじゃないか……?




