第5話 蘇る孤高の狐
『選手の交代をお知らせします。FCレポロ、背番号10、寺本千智に変わりまして、背番号8、多々良春――』
ソフィの淡々とした声が鳴り終えると、数拍の間を置いて後半開始の笛が吹かれた。
彼女はハーフタイムの間、ずっと心配そうにレポロのベンチを見ていた。自分も駆けつけたいけれど、どちらか片方のチームに肩入れするわけにはいかない。
だから心配そうに視線を送りながらも、ジッと耐えていた。
自分で言い出したことをやっているんだ。それでいい――。
「――いいのか、作戦無しで送り出しちまって」
多湖コーチはどこか他人事のように、でもやはり、『教え子』を心配するような調子で言った。
だが今の俺は、心配を晴らすことができない。
「俺に正解なんて、わかるわけないじゃないですか。戦術家でもないですし」
「そうだな。西の天才は監督の言うことを聞かないって、有名だった。勝手にドリブルしてゴールを奪ってくる」
「……その呼び名、やめてください。俺は天才じゃないんで」
本気で嫌なんだ。
小学生の頃、まだ全国大会に出場する前に、西日本全域から強豪チームを集めた大会に出たことがある。
大抵、『西の』なんて付くと、関西圏の選手が指定されるわけだ。
実際にその頃の俺は西の天才なんて呼ばれていなくて、『四国に凄い選手がいる』とか『広島に物凄いストライカーがいる』とか『いやいや九州のあいつが一番凄い』だとか。
とにかく右も左も天才と名高い選手だらけ。
俺はそれを「へえ」と受け流して、ただ自分のプレーができるように集中。それだけで十分だと信じて疑っていなかった。
――――結果、その大会で圧倒的な優勝を遂げ、大会MVPにも選ばれた。
丁度その頃からだ。関西人でもないのに『西の天才』なんて呼び名が付いてしまったのは。
多湖コーチは少しの間、時間の空白を作って、「――――少しだけ、啓太の知らない話をしてやろう」と前置きをする。
続けてゆっくりと、言葉を紡ぎはじめた。
「俺は小学生チームを見る機会が多くてな。西の天才、久瑠沢啓太。紺碧の狐、瀬崎結衣。灼髪の雪姫、寺本千智。…………妙な名前で呼ばれることになった全員を、この目で見てきた。確かに三人とも才能のある選手だ。……あと、なんつうか、小学生にして二つ名持ちなんて、『こいつらなんて羨ましいんだ!』――と思ったよ。普通はプロになってもそんな名前付かないからな? プロになれなかった俺にそんな名前が付いたこと、あるわけない。ほんと、マジで羨ましい。俺、生まれ変わったら、お前らになりたいわ」
……それでも、俺には重荷なだけだった。
日本ではその一言で努力を否定されたような気になったし、期待に応えなければとプレッシャーを感じた。でも日本を出てしまえば、『西の』なんて、どれだけ小さな世界で持て囃されていたかを痛感させられてしまう結果になった。
勝手に持ち上げて勝手に叩き落としてくる。
人の心を弄ぶような、悪魔みたいな言葉だと思っている。
「結局、なにが言いたいんですか?」
「お前――さ。あいつら二人がなんで変な二つ名を付けられたか、わかるか?」
「わかるわけないじゃないですか」
随分と複雑な呼ばれ方をしているという程度にしか、思っていない。
「単純だ。『西の天才』を超えられなかったからだよ。お前の二つ名を継承するには、全く足りなかったんだ。あの二人」
……そんなバカな話があるだろうか。
俺は呆れ果てて、肺の奥底から空気を押し出した。
「あっ、信じてねえな!」
「当たり前じゃないですか。あの二人は俺より才能がある。どう見たって」
「周りはそういう風に見てねえ、ってことだよ」
「……じゃあ結衣は――。結衣のことも、小学生の頃から見ていますよね? あいつは…………瀬崎結衣という選手は、下手になったんですか?」
「ああ。なってるね。どんどんスケールダウンしてる。……まるで、お前の後を追うかのようにな」
その言葉を聞いて、俺の中で何かがキレた。
横に立つ多湖コーチに向かって詰め寄る。
「気付いてたなら、なんで教えてくれなかったんだ!?」
「敬語」
「今――、今はそんなこと言ってる場合じゃないだろ!!」
「敬語なんてのは、こういう時に冷静でいるためにあるようなもんだ。……あと、俺も監督も、結衣には何度も伝えてるぞ。病院で検査を受けるべきだ、練習を控えろ、次練習に来たら追い返すぞ、これが最後だからな、――って。ちなみに最後だと伝えたのは昨日だ。月曜の混合チーム練習からはあいつ、マジで追い返すから」
「知ってて……。わかってて俺にだけ黙ってたってことですか!?」
腹が立つなんて言葉ではとても形容できない。
裏切られた――。
信頼して慕っていた指導者に、いや、親父にまで裏切られた。
なにも話してくれないんじゃない。ただ隠されていただけの話だった。
「医療的判断を誰が下すか――。最終的には医者に他ならないが、その医者に辿り着く切っ掛けの言葉を、誰が、どうやって選手に突きつけるのか――。下手になったなんて言ったら、瀬崎の性格じゃ絶対に反発して余計に悪化する。――ほら、見てみろよ」
フィールドの中心、やや後方のディフェンダーに近い位置で結衣がボールを持った。濡烏の蒼い髪は汗で光沢を帯び、紺碧の所以がよくわかる色を発している。
そこからドリブルを開始。
一人抜いて、俺は正直、チサの真似をしたドリブル突破を謀るのだと思った。
――しかし結衣は、一人目をかわした後、自分に向かってきた相手を抜くことなく、その横をすり抜けるコースへ、ちょん、と軽くカーブをかけたパスを出す。
向かってきた相手は本来マンツーマンで守るべきレポロの選手――今は美波――から離れたわけで。一時的ではあるが、美波はマークが外れて、フリーになれた。
パスを受けた美波は少し慌てた様子だったが、走り出した結衣の姿をすぐに見つけることができたのか、ワンタッチでパスを返して『ワン・ツー』の形を作った。
これで向かってきた一人を置き去りにして、更に前へ運ぶ。するとまた相手選手が止めに来る。そうすると誰かがフリーになっているわけで、結衣は上手くその選手を利用し始めた。
「大人だねぇ」
多湖コーチが感心している間にもボールと結衣は、どんどん前に進む。
前へ運ぶスピードはチサの単独ドリブルに及ばないものの、するすると安全圏だけでサッカーをしているような、周りの使い方だ。
まるで誰のマークが外れていくかを、事前に予測しているような――。
「……安全で、効果的な選択です。リスクを冒していない」
ついにフォワードの定位置まで辿り着いて、果林が前へ抜け出そうとしたところへパス――と見せかけて足を止める。突然縦に速いドリブルを開始して、想像と現実の違いに相手選手が尻餅をついた。
プレー中に尻餅をつくというのは、相手のプレーに対して完全に屈服したようなものだ。
一気に加速した結衣は、慌てて戻ったオルフェスのゴールキーパーと一対一になる。
スッと左手を挙げてシュートを打つ――かと思えば、また止める。
シュートを打つと見せかけた方向へキーパーが動きかけたのを見て、軽くボールを浮かせるようなシュートモーションを取り、キーパーは罠に引っかかりながらも精一杯上へ手を伸ばそうとした。
……だが、そのシュートモーションも急停止。ゴールキーパーを嘲笑うかのように横へドリブルして角度を作り、そのままゴールへ向かってコロコロと緩く転がるのシュートを蹴り、静かにゴールネットを揺らした。
「…………あれで、下手になってるんですか?」
「…………多分」
二回もシュートモーションを止めて、最後にコロコロシュートって。ああいうのは、守る人がいなくても思いっきり蹴ってくれたほうが、やられたほうは精神的にすっきりする。
コロコロと、そこに人がいれば誰でも止められるような緩いシュートを蹴ったのは、相手に最大限の屈辱を与えるためだ。
……どんだけ人のこと見下してるんだ、あいつ。
普通、少しでも『止められるかも』と思えば余裕を失って、すぐに打つか、強く打つか、どちらかになる。俺なら強く打ったと思う。
しかし結衣はどちらにもならず、むしろ真逆の選択をした。
「狐――か」
確かにあれじゃ、対戦した相手は化かされている気分になる。
右と思えば左、左と思えば右。
来ると思えば来ない、来ないと思えば来る。
そこから試合は、ただただ瀬崎結衣が瀬崎結衣であることを証明するための展開に変わった。
高いリスクを冒す強引さもなく、周りを活かして自分が更に活きるプレーを適切に選択。頭の回転が鬼速いとでも言えばいいのか、未来視にも近い予測力で味方を動かし相手を翻弄。
いつの間にかオルフェスが5-4-1で逃げ切り体勢に変わっていたが、いつ変わったのかもわからない。結衣が相手を翻弄しすぎて、オルフェスの選手は自分たちの決めたフォーメーションを守ることすら危うくなっていた。
あっという間に二点目が入って、その数分後には三点目で逆転。
四点目は自分で蹴ると見せかけて不敵に笑うと、ドフリーの果林へパスを出し、果林が久しぶりの得点。
……いや、あれは不敵に笑ったんじゃないな。
純粋に嘲笑っているだけだ。
――――オルフェスのベンチで、『ゴンッ!!』と鈍い音が鳴った。
「狐ぇぇぇぇッ!!」
梨原深冬がベンチに拳を振り落として、とんでもなく悔しそうにしている。
…………これには同情を禁じ得ない。
練りに練った戦術を、たった一人の選手に打ち砕かれたんだ。
俺としても、これでは監督として勝った気分にはなれない。
結衣が選手の力を引き出しているんだ。俺では……、俺だけの力では、チームを勝たせることはきっと、できなかった。




