八.旅立ちの宣告
「〝その時〟というのは?」
ルートがおそるおそる質問する。
老婆はすぐには答えない。両目をつぶってしばらく沈黙していたものの、やがてゆっくりと語り始める。
「そうさね。これは全てを語るのは難しいことだ。言ってみれば、魔女の秘密に関わる。お前さんたちの母──エスタが魔女だってことは知ってるかい?」
ふたりはうなずいた。
ユリアは、ほう、と感心した。
「なるほど。さすがあのふたりの子供たちなだけはある」
そうひとりごつと、彼女はつづけた。
「では、もう結論から言ってしまうよ。その昔、ラストフとエスタは、この〈叙事詩圏〉の世界が抱えてるある問題を知った。
その問題がなんなのかは、説明することがとても難しいからいったん置いておくけど、それがいつか世界を滅しかねないものだっていうことだけ、分かればいい」
「──ごめんなさい。最初からついていけないよ。お父さんとお母さんが知ってるその問題って、なんなの?」
「簡単に言っちまうと、『この世界に魔物が生まれてくる原因』だあね」
ふたりは目を見開いた。ルートが堪えきれずに尋ねる。
「そんなこと、わかるの!?」
「ああ、そうさ。わたしもあのふたりから聞かされるまで、ついぞ知らなかったよ。しかも聞いたときは半信半疑だったさ。
でも、いまここで〈魔宴〉が起きたことで、ほんとうのことだとわかっちまった。忌々しいね。たしかに世界は着実に悪い方向に向かいつつあるんだよ」
さびしげに呟いてから、
「──〈魔宴〉ってのはね、すごくわかりやすく言うなら、〝裂け目〟なんだよ。喩えるなら、使い古したテーブル掛けが突然破れ、ビリビリ音を立てて裂けてしまうかのように、それは突然開く。
そして、底無しの胃袋の持ち主が、皿の隅まできれいに舐めとるみたいに、ありとあらゆるものをなかったことにしちまうのさ」
「そんな……」とアデリナ。
しかし、ルートは片眉を上げて、疑問を示した。
「おばあちゃん、それじゃあヘンだよ。いまの話を聞く限りだと、村ごとなくなってしまうかのような口ぶりじゃない。
でも、ボクたちや、おばあちゃん、それに村は──建物とかは残ってる。ボクとリナは裏山にいたから、距離があって偶然に助かったと言えばわかるよ。でも、おばあちゃんは?」
「鋭いね、ルゥ。だとすると、もう一個ちゃんと話しておかないといけないことがある」
ユリアは双子の反応をうかがいながら、
「わたしも魔女のひとりなのさ」
「なッ!」
アデリナは呆気にとられた。
老婆はけらけらと笑った。
「意外だったかい? エスタが魔女だとわかった時点で推測できたかと思ったけど、リナはそうじゃなかったみたいだあね」
「……」
「まあ、それはいいとしようか。だからわたしもある程度、魔女の技が使えるのさ」
「ということは、それでこの〈魔宴〉から身を守った、ということなの?」
「その通りだよ、ルゥ。そして、お前さんはさっき『偶然に助かった』と言ったが、それは間違いだ。お前さんたちは、たぶんエスタの術によって守られたんだ。でなければ、こんなひとの跡形も残らないような災害を免れるなど、不可能に近い」
ルートは少し黙ると、急に目が覚めたように、あわてて銀のメダリオンを取り出した。そこには五芒星の印が刻み込まれている。
「この印がボクたちを守ってくれたんだ。魔女の印ってそんな意味があったんだね」
「ん、どういうこと?」
アデリナがけげんな顔をする。
「五芒星は〝結び目〟を意味する。つまり、ボクたちが世界から消えないように、繋ぎ止める役割を果たしていたんだよ」
「へえ、そうなんだ……」
「さすがだ、ルゥ。お前さんは賢いねえ」
だが、ユリアは別のことも思った。
(この子は賢すぎる。〝素質〟もあるかもしれない。さて、これが吉と出るか、凶と出るか……)
「──そっか。父さんと母さんが、守ってくれてたんだな」
ぽつり、とアデリナがつぶやいた。
ルートとユリアの注目が、彼女に向く。
「あ、いや、そんなにたいした話じゃないけどさ。父さんは写本を残して、母さんは印を残して、アタシたちのことを心配してたんだな、て」
「写本? なんだいそりゃ」
「お父さんが、うちの長持ちの下に隠していたんです」
老婆が不思議そうな顔をする。
ルートがそそくさと、頭陀袋から黒い書物を取り出した。
ユリアはその書物を手に取る。しかし開いた途端に眉間にしわが寄った。
「なんだい、何も書かれていないじゃないか」
「えッ?!」
今度はルートが驚く番だった。彼はユリアの側に立ち、本を読み合わせようとする。
しかし、老婆の言う通りだった。彼の目は、罫線と枠だけが入った獣皮紙のページが繰り返されているのを見たのだった。
(そんな、さっきまで書いてあったのに)
ルートの頭のなかには、またしても蜜蠟を引いた書字板が思い浮かんでいる。
そこには本から書き写した茨文字と、その内容がしっかり刻み込まれていた。いまもまだ消えていないことが、確認できる。
だから、想像のなかでなら、いつでも読み返せた。
けれどもどうやって伝えるべきか、ルートは少し考えなくてはならなかった。
「……この本には、さっきまで茨みたいな書体の文章が書き記されていたんだ。そこにはボクとリナが生まれたときのことや、お父さんの書き置きのような内容があって──」
「ルゥ、それから、リナ」
老婆の声は静かだった。しかしその調子には力があった。
ふたりは黙って、ユリアを見た。
「わたしは魔女結社とは縁のなかった、ひとり身のばばあさ。でも、どうして魔女なる存在が教導会に忌み嫌われるのか、それはよーく肌身で理解している。
それはね、〝自分の知らないことを知っている〟っていう、すごく普通の、恐ろしい力を魔女が持っているからなのさ」
「……」
「わたしたち魔女はね、聖典『神聖叙事詩』が書き残しているものとは違うことばで、世界の成り立ちを語りなおすことができる。しかしそれは、聖女も導師もいない、もっと血なまぐさくて、荒っぽい神々が繰り広げる物語なんだよ。
その物語自体が危険なわけじゃない。わたしがたまたまそれを知っているだけで、ほかの魔女は違う物語で、世界を語ることができるだろう。ほんとうに問題なのは、教導会の導師どもの話が、魔女の前ではいくつかある話のひとつになっちまうことなんだ。自分たちが絶対に正しいと信じることばが、彼女たちの前では力を失っちまうんだよ」
老婆はひと息吐いてから、
「魔女狩りが始まってから長いときが経つ。悲惨な事件も多々あった。それでもなお、魔女結社〈イドラの魔女〉は活動をやめないだろうね。それは、太古の昔から語り継がれてきた物語を──わたしたちの知らない世界の成り立ちについての記憶を、失くさないためなんだと、わたしは思う。
だからわかるのさ。これは、とても危険な代物だ。茨の文字はひとに記憶を与えもすれば、奪いもする。だから、むやみに思い出そうとするのはおよし。大切な記憶は自分のなかだけに仕舞ってくれれば良いからね」
双子は黙って聞いていた。しかし、ふたりの反応は異なっていた。
ルートは深くうなずき、理解を示した。しかしアデリナは首を縦に振ったものの、頭のなかではグラグラと落ち着かなかった。
(まるで、導師さまと同じような、難しいことを言ってるな)
さながら、真っ赤に焼けた鉄を、金づちで交互に打ち付けているようだった。
自分のなかにある理解の粗い部分が次々と剥がれてゆく一方で、かたちは不安定だ。ひたすら打ち付けられながら、何かになろうとしている。けれども、それが結局なんなのか、自分でもわからない。
そのとき、ユリアが双子に問いかけた。
「お前さんたちは、これからどうする?」
「──旅に出ます」
即答だった。ルートも驚いて、アデリナを見ていた。
「アタシには、小難しい話はわかんない。けど、父さんと母さんがなんかやばいことにぶつかっていて、それが魔女狩りをしている聖女王国のこれからの話に関係してるのはなんとなくわかった。
だとしたら、聞いた話じゃなくて、アタシが自分の目で見て確かめたい。でないと、アタシの性に合わないよ」
つかの間、沈黙が訪れた。
しかし、突然ユリアはからからと笑った。
「全く、らしいね。リナの言う通りだ。年寄りの長い話はもうよそう。自分の目で見て、信じたことをやりなさい。
けれども、最後の老婆心だ、これだけは聞いておくれ。この先をお前さんたちだけで旅するのは、危険だ。だからもう少しだけ待っておくれ。迎えが来るはずだからね」
「迎え?」
と言ったときだった。
「──遅くなってすみません」
双子の背後で急に気配が生まれた。
とっさに振り返り、ふたりは目を見開く。
「あなたは──」
その人物は、ガーランドだったのだ。