六.運命の記述
獣皮紙の奥にかすんだ文字を追いかけるのは、まるで濁った激流に身を浸すような大変さだった。
書き記された、整備された道としての文章を離れると、途端に本は牙を剥く。
ルゥは、先ほど見かけた不穏なことばを手がかりに、短刀で削り切れてない隠された文章を掘り起こしていく。
その傍らで、リナは、ページの各所に散りばめられた図像から、ささやき声を聴き取ろうとしていた。
(……父さん。父さんは、この手写本に何を書こうとしていたんだ?)
書物は決して答えない。
代わりに文字が、図像が、双子の記憶に呼びかける。
文章のとおりに、挿し絵のままに、目で見て読むことを強要している。
けれども、ふたりは自分たちの手で答えを探り出そうとした。
「リナ、やっぱりおかしい。お父さんは意図的に大切な記述を、削り落としている」
「じゃあ、それが本当のことかもしれない」
リナは、周囲の絵柄が示す、お行儀の良い意味に、そろそろ飽きてきたころだった。
「ここに書いてあることは、みんなきれいごとだらけだ。ウソじゃないのはわかる。でも大事なことが書かれてない気がする」
ふたりが小さいころから聞かされた、妖精や怪物の出てくる物語たち……
そのなかでは、犬は賢く忠実で、ウサギは臆病な予言者だった。
鳥は自由な魂を連想させ、鹿は優雅な森の貴婦人として、狩りの目当てになっていた。
みんな憶えている。だからいつのまにかそうした意味が絡みついて離れない。
なにより茨は不気味さと気持ち悪さを表現し、ひとを捉えて離さない、鎖のような役割をも果たしていた。
それゆえか、茨の枠組みじたいが、さながら読者をひとつの記憶のなかに閉じ込める、檻のように見えたのだった。
「わかった! リナ、これを見て!」
と、指差しながら、
「この文章の裏側に影になっているところ、削った跡に上書きしてるけど、全くちがう文章になっている」
「ん、あ、ほんとだ」
「ちょっと読みにくいけど……『ワタシ達ハ、コノ世界ノ秘密ヲ知ッテイル。ダカラドウシテ魔女ガ狩ラレル運命ナノカ、嫌デモ知ラザルヲ得ナカッタ。
母親ガ魔女デアル、ワタシ達ノ子供ニモ、魔女ノ力ハ引キ継ガレテイル。ダカラ恐ロシカッタ。魔女ノ能力ガ開花スルノハ時間ノ問題ダッタ。ソノタメ、コノママデハ世界ガ子供達ヲ殺シテシマウダロウ』」
双子は息を呑んだ。
互いに顔を見合う。しかし、リナが早く先を読めとうながした。
「……『コノ逃レラレナイ運命ヲ、イヨイヨ避ケラレナイトワカッタトキ、ワタシ達ハ計画ヲ考エタ。トコロガ〝星室庁ノ男〟ガ、ソノ邪魔ヲシタノダ。計画ハ直チニ変更サレ、ワタシハ、子供達ニ嘘ヲ吐カネバナラナカッタ』……」
そのときリナの脳裏に、再び火打ち石を強く当てたときのような閃きが、ほとばしる。
イメージの火花は、ルゥの唱えたことばに燃え移り、次第に大きな炎になって、記憶の映像を作り出そうとしていた。
(あれは、作業場で仕事をしている父さんに、いきなり話しかけて聞いたんだっけ)
そのときラストフは、金づちを振るって、農具の手入れをしていた。
リナはまだ幼い少女だった。短髪で、少年めいた見かけをしている。
「母さんがいないってほんとなのか?」
小さなリナは問い掛ける。
ラストフは眉ひとつ動かさなかった。
「どうして、そんなことを聞く」
「ティークが、アタシたちに教えてくれた。ふつう、家族ってのは父親と母親がいるんだって。それで、アタシたちの母さんは、とうの昔にいなくなったって。でも、わかんないんだ。そんな気がしないから」
ラストフは作業の手を止めて、道具一式を片付けた。
それからリナの近くに歩み寄り、ひざを折った。目線を同じにする。
「すまない」
と、首を振ってから、
「母さんは流行り病で死んでしまったんだ。もういないんだよ」
「いつ?」
「リナとルゥが、うんと小さいときの話だ」
「どうしてアタシたちに教えてくれなかったの?」
「リナもルゥも、とても寂しそうにしていたからだよ。そして、父さんにとっても、とても悲しいことだったからだよ」
そう言った父親の顔は、心の底から悲しそうだった。
だから、リナもそれ以上問うことをしなかった。
(あのとき、父さんはウソ吐いてたんだ)
リナは、しかし却って不思議に感じた。
(でもあの喋り方が、ウソのようには思えないんだけどな……)
かつん、かつん、とまた火打ち石の音がする。
それが次第に、金属音にすり替わっていた。
父親の持っていた金づちの音。振り下ろすたびに打ち付けられる、鉄製の道具たち。
まだ何かが足りていない。リナの想いは、かまどのなかでふいごを待ちわびている、小さな炎のようにくすぶっていた。
そのなかで、しこりのように、気持ちの塊が残っている。
いっぽうルゥは、ようやく手に取った記憶の書物を紐解いておきながら、表紙に期待したものが得られない不満を感じていた。
(この本は、まだ未完成なのかもしれない)
失くした記憶を、獣皮紙のページとして一枚一枚、綴じてゆけば、ひとつの書物となると思い込んでいた。
けれども、完成したと思っても、なお謎だけが残った。肝心のことばが見つからないまま、文章だけが先を歩いている。
(お父さんとお母さんはなにを見て、知ったのだろう。書いて残さなかったとしたら、それがどうしてなのかが、知りたい)
ルゥの頭のなかで、蠟引きの書字板が思い浮かんだ。
それは、思い付きを書き残すために、ルゥが村の寺院でよく使っている道具だった。
いま、ここで読んだことばを、茨の形状をした文字をつぶさに観察する。
そして、それらを丁寧に、書字板のなかに書き写していった。
(忘れない。ボクたちがどこから生まれて、どこへ向かうべきなのか。魔女のこと、世界のこと……)
わからないことだらけだった。だからこそ、今度同じものを見つけたら、見逃さないようにしなければいけないと思ったのだ。
そう、なによりも──
「〈星室庁〉……これって、教導会が異端審問のために作った組織じゃないか」
「そこのヤツが、父さんと母さんに何かしたってことなのか?」
「そうだと思う。何があったのかは、わからないけど……」
と、言い掛けて、
「いや、でも母さんが魔女結社のひとだっていうから、もしかして──」
「でも生きてるって」
「──じゃあ、『二度と逢えないほど遠い場所』って何? ボクはそれが冥府の喩えでなきゃ、なんなのかわかんないよ」
リナは口をつぐんだ。
(父さんのことばは、結局どちらを信じれば良いんだ……?)
リナとしては、あのとき父からにじみ出ていた悲しみのほうを信じたかった。
それは希望があるのに信じ続けるのが難しい、という、れっきとした悲しみだった。
けれども、ルゥはその悲しみを知らない。
ルゥが記憶していたのは、ラストフがどんな見た目で、不器用で、父親としてどうだったか、ということぐらいだ。
「とにかく、お父さんの身が危ない。どこか遠くにいるっていうけど、どうすれば見つけられるか、考えなくちゃ」
と、そのときだった。
りいん、と鈴の鳴るような音がした。
リナはとっさに振り向くものの、そこには何もない。ただ時が止まったかのように、ありのままの自然の景色が広がっている。
しかし、鈴の音は止む気配がない。りいん、りいん、りぃーんと繰り返し、次第に間延びした音を奏でている。
「ルゥ、何かヘンだ」
「え?」
きょとんとする弟を見て、リナは眉をしかめた。
「さっきから、変な音がする。鈴の鳴るような──」
「そんな音、聞こえるの?」
ぞわり、と背筋が凍る。
鈴の音は止まらない。すでに〈時の鐘〉が鳴り響いてるかのように、深遠な振動を身体に刻み込んでいる。
全身が痺れるような違和感に苛まれながらも、リナはこめかみに意識を集中する。
そして、不協和音にも似た感触のなか、彼女の直感は、ひとつの脱出口を見いだした。
「ルゥ! それ!」
「え、このメダリオン?」
「そう、それ!」
「そんな大声で言わなくてもわかるって!」
銀製の五芒星を、素早く手に取る。とたんに全身が聴き取っていた異常な音が、ゆっくりと、潮が引くように遠のいてゆく。
静かさが、リナの心の器に満たされていった。
「……リナ?」
「まずいぞ、何か来てる」
ルゥが首をかしげたそのときだった。
ブナ林のほうから、いっせいに鳥の群れが飛び立った。
空を半分覆うほどの、黒い群れ。
悲鳴を上げるかのような鳥の声が、名残惜しく虚空に響く。
ルゥも、唖然とした。
「なんなの?」
「わからない。けど、間違いなくやばいことが起ころうとしてる。父さんは、きっとこれに気がついていたんだ」
言ってから、自分がなぜそこまで思い至ったのか、リナにはわからなかった。
(何か、悪い予感がする)
と、思ったとき、さらに事態が動いた。
突風が、ごうを吹いた。それはふたりの手から本を引き剥がそうと、強く強く、全身に叩きつけるがごとき勢いで襲いかかった。
ふたりは、思わず目をつぶる。
しかし、それは不思議な風だった。顔に叩きつけるほどの強烈な息吹であったにもかかわらず、意識を泥沼の底に沈めるような気だるさがまとわりついていた。
薄れゆく意識のなかで、しかしリナはどこかで聞いたことばを、唐突に思い出した。
(けれども、どうかこれだけは忘れないでほしい。《鍵》はあなたのなかにある……)
リナはとっさに手を伸ばした。その指先は光に包まれ、懐かしい温かさを実感する。
つかんだ光があふれ出す。そして、リナだけではなく、ルゥも一緒に包み込んだ。
〈記憶の花〉の匂いが、そこはかとなく鼻の奥をくすぐっていた。




