五.失われた日々を求めて
まず最初に覚えたのは、読める、という違和感だった。
昨夜はあれほど読者を拒んだとしか思えない茨の扉絵が、やけに懐かしく、優しく受け容れてくれるようにさえ感じられたのだ。
さながら隣家の垣根をくぐるような悪戯心で、本のページをめくる。
そこには頭文字の窓枠が異世界への入り口を示しながら、無数の文字を引き連れる。
ふたりの意識はその窓をいったん通り過ぎて、文字列が指し示す長い道のりを歩き出していた。
文字は、組み合わさり、道を示す。
階段を駆け下りるように、ふたりは一気に読み進める。
すると、ルゥはいつしか、同じかたちの単語が、何度か文中に現れることに気付いた。
「リナ、この単語、何度も出て来てる」
「だからどうした?」
「この単語の意味がわかれば、ボクたちの知ってる王国文字との読み替えができるかもしれない」
「へー、じゃあやっといてよ」
「そんなムチャな」
言いながら、ページは進んでゆく。
ときおり欄外から不思議な動植物が顔をのぞかせた。
犬とウサギの混ざり合った絵柄。
茨が渦巻く枠組みと罫線。
その間を飛び交う鳥や鹿たち。
色とりどりの図像が、さながら森のなかで暮らしているかのように、豊かな世界を作り上げている。
ルゥが必死に文字のかたちを追いかけているあいだ、リナは図像を眺めていた。
そのうち、いまのいままで見えてなかったものが、心の内側からささやきかけるように感じられた。
(犬のように賢くあれ。ウサギのように危険を察知せよ。
茨のようにものごとを捉えよ。決して手放してはならない。
鳥のように自由な魂を抱き、鹿のように優雅に進め)
絵柄はひとつひとつ、隠された意味を口ずさんだ。
それは、ことばの森から生み出された、寓意の果実にほかならなかった。
「リナ、わかった」
ルゥが声を掛けた。
「何が?」
「さっきのことばの意味。ほかにもいくつもわかったんだ。あれ、ボクたちの名前だよ」
「名前? なんて?」
「リナはアデリナ、ボクはルートって言うんだよ。さっきの文章は、ボクたちが産まれてくるときの、父さんのことばだったんだ」
リナは改めて、文字が生み出す空間を見つめた。
すると、さながら星と星とを線で結び、星座だと察知するように、文章を読めることに気が付いた。
「拝啓。子供たち。
忘れているかもしれないが、私の名はラストフという。君たち、アデリナとルート、ふたりの父親だ。君たちはよく、自分たちのことをリナ、ルゥと縮めた愛称で呼んでいたね。ほんとうは母さんがつけた愛称だったけど、まあそれはあとにしておこう。
もし誰かに『ラストフがいない』と言われたら、私は急用で遠くに行ってしまったんだと告げておいてくれ。私は急がなければならなかったから、君たちにほんとうのことを伝えるまえにここを出た。
そのことは申し訳ないと思っている。できれば君たちが十五の齢になるまで黙っていようと考えていたのだが、なにぶん時間がなかった。だから、私はあえてここに書ける限りのことを書き残していこう」
ページをめくる。
「さて、回りくどかったかもしれないが、これを読んでいるなら、母さんが魔女結社の一員だってことはもうわかってると思う。だから、とりあえず母さんについてきちんと書いておこう。
君たちの母さんの名前は、エスタルーレ。エスタ、と私は呼んでいた。
これが過去形なのは、すでに亡き人であったからではない。もう逢えないからだ。ちょっとわかりにくいかと思うが、ほんとうのことだからよくよく読んで考えてくれ。
母さんは、生きている。ただ逢えないのだ。もう二度と逢えないほど、遠くに行ってしまったからなのだ。だからもう亡くなったものとして、形見の品を、子供たちに思い出を伝えるために〝墓〟と名付けたほこらのなかに仕舞っておいた。それは、これから起こる世界の運命と、お前たちの安全を考えてのことだった……」
ページはここで途切れていた。ちょうど白紙が間に挟まり、次から違う話題が始まっていた。
「おい、ここから先はないのかよ」
「ないみたい」
「これって、だめじゃん」
「そんなこと言われてもさ」
ルゥはしぶしぶ、ページを進める。
ことばの森を歩くふたりは、文字と文字の隙間にうごめく影を見る。
それは獣皮紙を削った跡だった。間違って書いてしまった文章を、紙の再利用のために短刀で削って、なかったことにするのである。
ルゥはその影に、父ラストフが勢いよく書いた後悔の名残を見ようとした。
しかし、彼は慎重な人間だったのだろう。どうあがいても単なる誤記以上のものが見つからない。
(そもそも誤記だから削ってるわけだし、当然といえば当然か)
やがて、ふたりはある章の頭文字が作り出す窓枠に戻ってきた。
「そういえば、この辺はちゃんと読んでないんじゃないか?」
「たしかに。いまなら読めるかもしれない」
ふたりは窓のかたちをした頭文字から、文章の内容をすっかり読み込んでいった。
文章から察するに、お産の場面らしい。
黒い長い髪をした母エスタルーレが、お産椅子にぐったりと腰掛けているところから、それは始まる。
傍らには産婆がいた。腰が曲がっているものの、彼女は元気そうな立ち姿で小さな子供をふたり分、布で包んで抱えている。
「この『ユリアさん』って名前、離れのユリアさんのことじゃないか?」
「そうかも」
「へえ、アタシたち、ユリアさんに面倒看てもらってたんだ」
どうやらこれは、父ラストフから見た子供たちの記録でもあったらしい。
その後のページをよく読むと、双子のやんちゃと闘病などと、いろんな育児の思い出がつづられている。
騎士に憧れた幼いリナは、木剣を持ち、父と模擬戦をしたり、棒馬にまたがって、ティークやほかの村の子供と遊んだりしている。
いっぽう生まれついてからだの弱かったルゥは、最初のうちは母エスタルーレと一緒に部屋にこもっていた。
母の口は物語の種に事欠かない。狡猾なオオカミとキツネの化かし合いから、遠い国の救世主伝説まで、さまざまな話を朗らかに語り聞かせていた。
ときおり、母の物語には、リナもひざを合わせて参加した。
リナが好きだったのは、騎士道物語で、特に遠国に旅立ち、怪物と戦う冒険譚を好んでいた。
しかしルゥは、妖精と人間のあいだの悲しい恋物語をよくねだったものだった。
「お互い、好きなものが偏ってたよな」
「そうだねえ」
周りはときおりバカにしたが、ふたりはそれで納得していた。
よくケンカはしたものの、仲は悪くなかった。ルゥもからだが次第に安定してくると、村の寺院でお勤めを果たすようになり、村での評判も良くなっていったのだ。
そんな彼らの日常が変化したのは、魔女狩りの話題が村でも盛んになった頃だった。
しかし、魔女狩り以前から、魔女結社の話はすでに口にされていたらしい。
彼女たちが聖女王国に暗躍し始めたのは、実に三十年近く前、伝説的な魔物の出現と時期を同じくすると言われている。
それが、十四年前、双子の生まれるほんのちょっと前から激化していったらしい。
「魔女結社の歴史ってけっこう古いんだな。アタシはもっと最近のことかと思ってた」
「そうだね。だとすると、お母さんがいた頃の結社といまの結社は、ひょっとすると別物なのかもしれない」
「母さんが悪人じゃないって思いたいのか」
「そりゃ、そうでしょ」
「まあ、そうだけどな」
果たして、ルゥの思った通り、母エスタルーレは変わりゆく世を憂いていた。
魔女結社の考えを批判し、聖女王国、ひいては〈叙事詩圏〉世界の行く末すらも案じていた。少なくとも、書物のなかではそう書かれていた。
特に、彼女が問題視したのは、リナの言ったことばだった。
──アタシね、騎士になって〝悪い魔女〟をこの手でやっつけてやるんだ、と。
父が将来の夢を尋ねたとき、リナは嬉々としてこう言ったらしい。
「え、アタシそんなこと言ったんだ」
「リナ……」
「知らなかったんだよ」
「でも、お母さんは知ってたんだ。だから、すごく心配したんだと思う」
「ぐうの音も出ない」
うなだれるリナだった。
ところが、ルゥはその文面の肝心な部分に、短刀で削り切れていない、異様なことばを見いだしたのだった。
「だから、わたしを、殺して……?」
ふたりの意識は、さらに隠された文章のほうへと注目していった。




