三.茨文字の写本
「開いたぞ」とリナは言った。
ルゥが見たのは、見るも無残な光景だ。
彩色が施された木材の破片。
鎖が未練がましく付いた箱の残骸。
重たそうな麻布の袋。
そして、黒い表紙の本が一冊。
散らかっているのはともかく、双子の姉が、いちおう中身が傷つかないよう工夫していたのはわかった。
「でもさ、これは『開いた』ではないよね」
「いいんだよ、終わり良ければ全て良し!」
「暴論なんですけど」
「気にしすぎ、気にしすぎ!」
彼女はナタを片付ける。とは言っても、壁に立てかけただけだった。
ルゥはその間に、本を手に取った。
本の表紙は黒い革でできており、表紙には白い十字の印が刻み込まれていた。見慣れない紋様だ。女王家の持つ〈聖なる印〉にも見えなくなかったものの、このように刻まれた書物を、ルゥは知らなかった。
「なんだ、この本」とリナ。
「わからない。けど、すごく不気味だ」
「不気味どころじゃねえぞ」
ごくり、とルゥは喉を鳴らす。
恐る恐る、本に手を掛ける。漆黒の戸を連想するその表紙は、底知れぬ異界への入り口にも見えた。
もともとルゥはよく本を読む子供だ。
だからこそよくわかる。書物は知識が詰め込まれた宝箱のようなものなのだ、と。
教導会が広める『神聖叙事詩』の内容を記載した聖典をはじめ、世界の多くの知識が、本のかたちに閉じ込められている。
書物を紐解くことは、その閉ざされた世界の知識を開くことだった。ゆえにルゥはまだ見ぬ世界を思い、あこがれとよろこびを胸に抱え、読書に励んできた。
ところが、今回はそうではなかった。
(この本は開かないほうがいいかもしれない)
そう、直感が叫んでいる。多くの読書体験を経たからこそ、無意識的にその本を読むことを拒絶している自分に、気がついた。
じわりと手に汗が浮かぶ。
まるで本の表紙が重い鉄門扉になったかのように、ぴくとも動かない。
違う。動かないのではなく、開きたくないのだ。
(この本には、まちがいなくお父さんとお母さんの秘密が書かれている。けど、それをボクたちが知ることに、なんの意味があるんだろう?)
鎖で錠前を施し、長持ちの底に隠しまでしたその秘密は、決して子供たちに知られたくない内容ではなかったか。
どうやったのかは別として、父が子供たちから記憶を奪った張本人だとしよう。その場合、彼はこのことを我が子に伝える為に何かを書き残そうとしたのだろうか。
いろんな謎がルゥの頭を巡りはじめた。
それを察したのか、リナが不機嫌そうに手を出した。ルゥの視界をさえぎるように、ひらひらと注意を外に向けさせる。
「おーい。もしかして父さんや母さんが魔女結社の関係者、だなんて思ってないよな?」
「ウッ」
「……図星か」
「そ、ソンナコトナイヨ」
「誤魔化したってムダだぞ。ルゥの考えてることは、わかりやすいから」
ルゥはうなだれる。リナはそっと、本の表紙に手を伸ばした。
「大丈夫だって。変なこと書いてたって、アタシたちの父さん母さんが知らない人になるってわけじゃない、と思う」
「最後ぼかさなければカッコ良かったよ」
「う、うるさい! さっさと読もう!」
乱暴に留め金を外し、本を開いた。
しかし彼女の期待は裏切られることになる。
なぜなら開いた最初の一ページ目──扉絵の部分から、未知の文字が書き込まれていたからだった。
扉絵じたいは、『神聖叙事詩』の版本とそっくりだった。翼の生えた聖女アストラフィーネの似絵と、その周囲をぐるりと囲む七柱の御使いたちの構図である。
ところがその周囲を取り囲む枠組みが、赤黒い茨で描かれているのだ。
通常の版本であれば、絡まり合った蔦模様、ないしは天堂の石の門を模した枠組みで構成されているはずだった。
だが、一ページずつめくると、ふたりはさらに不可解なものを発見していく。
「なんか、思ってたよりも手書き感がすごいな」
リナが言うなり、ルゥの違和感が明確に言語化された。
一面に埋め尽くしているのは、茨の棘のような文字だった。それが横書きに約三十行、罫線に沿って下っている。
これらの文章をぐるりと囲むのは、同じく茨のような枠組みだ。
複雑に絡まり合った棘の螺旋。そのひとつひとつをつぶさに追いかけると、枝葉を欄外に伸ばし、さえずる小鳥の図像すら描き込まれていた。どれも版本では見られない、ブレや細かい書き込みが目立つ。
「そうだ。この本、もしかすると手書きの写本なのかもしれない。だとすると、ちょっと危険かもしれない」
「どゆこと?」とリナ。
「ことばはそれ自体が強い力を持つ。だから大昔は教導会のなかでも資格のあるひとたちだけが、本を作ることを許されてたんだ。
その名残りはいまでもあって、特にいまのご時世だと、魔女結社が不吉な本を刷っているってうわさでもちきりなんだ。それで教導会は印刷職人や写本師の工房を、厳しく調べてるって」
「と、なるとこれって……」
ルゥはうなずいた。
「見るひとが見たら、燃やさなきゃいけない話が載ってるかもしれない」
そのときルゥは、たまたま欄外に奇妙な落書きを見つけた。
その絵は、彫りの深い顔から直に脚の生えている、化け物の画像だった。鉄鍋をかぶとのようにかぶったそれは、槍を片手に、同じく欄外に描かれた図像の鹿を追っていた。
何かの錯覚だと思って、目を瞬かせる。
ところが再度欄外に目を向けたとき、その落書きは消えていた。角の大きな鹿だけが、茨の茂みに脚を絡めとられていたのだった。
(見間違いだろうか……?)
ルゥは首をかしげる。その目は、ほかにも不思議なものがないかと探し回っていた。
写本の導入部分の文章からは、特に意味はうかがえない。
しかし冒頭の頭文字が、大きくくり抜かれた窓のように枠を作っていた。その内側には湖の景色が描き込まれている。
さざなみが立つ湖畔には、木が一本生えているように見えた。
その木は全貌が見えない。頭文字の窓枠からでは、せいぜい根っこのほうから見上げる幹の一部分しか描かれていないのだ。
ところが、ルゥはこの景色を知っている気がした。
(なんだろう、どこかで見たことがあるような……)
ルゥはふと、書物整理の手伝いとして、獣皮紙の束を引っ張り出してきたときの情景を思い起こした。
整列してない、順序が錯誤した文章のまとまり──そのひとつひとつを丁寧に読み解き、正しい筋立てに並び替える。すると水車小屋の歯車仕掛けのように、カチリときれいに意味が噛み合うのだ。
だが、いまの彼の頭は、空回りする水車そのものだった。
何かの奔流が常に知性を動かしている。しかし、どこに向かってエネルギーを放出すれば良いのか、それがわからない。
(何か、ヒントはないのか。読解に使える絵やフレーズが欲しい)
こうして、写本に取り組んでいる間のことだった。
リナは、ルゥとはまったく異なる観点で、異変に直面していた。
「……ルゥ?」
彼女が見ているのは、双子の弟の目から、次第に光が失われている光景だった。
そのラピスラズリのようなひとみが、だんだんと色あせている。
おまけにルゥのくちびるから、ぼそぼそと知らないことばが漏れている。まるで小声で音読しているようでもあったが、リナにはそれがどこのことばなのか、わからない。
とにかく直感で理解したのは、このままではまずい、ということだった。
「ルゥ!!」
大きな声でその名を呼ぶ。しかし、反応はない。
あわてて肩を揺さぶる。それでも意識が戻る様子はなかった。
ただ、ひたすら書物を握り、書物を読んでいる。まるて自動で書物をめくる機械人形のように、彼の読書は止まることを知らないのだった。
(ダメだ、このままじゃルゥが持って行かれる!)
そう直感したリナは、最後の手段に出た。
とっさに手を振り上げ、ルゥの頬をはたく。乾いた音が、張り詰めた空気を破裂させたかのように響いた。
「……あれ?」とルゥ。
赤く腫れた頬に、手を当てる。
その目はロウソク灯りを受け、輝きを取り戻していた。
「しっかりしろよ。まるで本に魂を吸い取られてるみたいだったぞ」
ルゥはしばらく惚けた顔だったものの、やがて状況を理解した。
しかし、頬をさすって、眉をひそめる。
「痛いよ。リナ」
「仕方ねえだろ、こうでもしなきゃ、戻ってこなかったんだから」
「まあ、そこはありがとう」
だが文句は言い足りないらしい。ルゥはしばらくぶつくさと口ごもっていた。
と、そのとき。
村の寺院から〈時の鐘〉が鳴った。
ひとつ、ふたつ、みっつ……
音がすべて鐘の音に吸い込まれた。
よっつ、いつつ、むっつ……
ふたりは黙って虚空を見つめていた。
ななつ、やっつ、ここのつ……
鐘の残響が、引いた潮のように静けさを運び込んだ。
「もう夜なのか」とリナ。
「なのに全然進展なし」
「誰かさんが本に熱中してたからな」
「それは、だってさ……」
ルゥは名残惜しそうに、黒い装丁の写本を見やった。それはまだ床の上でページを開きっぱなしになっていた。
しかし、リナがとっさにそれを閉じた。
「ダメだ」
「でも」
「ダメって言ったらダメ」
「……はい」
しょんぼり落ち込む。その横顔から、黒くて長い髪が、こぼれるように垂れ下がった。
リナは頭をくしゃくしゃと掻いた。
「とにかく! こういう本をよく知らないまま、アタシたちで扱うのは危険だと思う。せめて導師さまか、ガーランドさんに渡して考えたほうが絶対に良いって」
「そりゃ、そうだけど」
「手掛かりが欲しいなら、こっちの袋を調べてみれば──」
そう言って、袋を手に取った途端、袋の口から小金貨が五枚、こぼれ落ちた。
これは、都市部で半年は暮らせるほどの大金である。そのためふたりは一瞬、何が起きたのか理解できなかった。
「やっぱりへそくり?」とリナ。
「……みたいだね」
と言いつつも、ルゥは最後に落ちた紙片を拾い上げた。
先ほどのこともあったため、少し警戒はしたものの、好奇心は抑えきれない。
紙片を開くと、期待に反し、ごく普通の王国文字で、次のように書かれていた。
「来るべき日に備えて。
運命に打ち克つために。
そして子供たちの未来のために。
追伸:母さんの墓参りを頼む」
「どゆこと?」とリナがのぞき込む。
「さあ」
ルゥは首をかしげた。
そのとき、リナの脳裏に、あることがはたと閃いた。
火打ち石を打ち付けたときのような、束の間の光がほとばしる。しかしそれは燃える対象を見つけられず、ただ虚しく目の端によぎった幻のように残像だけを映している。
わしゃわしゃと頭を掻きむしる。
「よし、寝よう」
「へ?」
「考えるの、疲れた」
「そんなめちゃくちゃな」
ぼやくルゥを尻目に、彼女は上段のベッドに登った。
「書き置きがあるんだったら、その通りに母さんの墓参りに行けば良いんじゃないか? その方が手っ取り早そうだし、何より万が一のことのために、アタシたちは休んだほうがいい」
「リナ……」
「なに?」
「リナって、たまに本質を突くよね」
「バカにしてんのか?」
「イイエ、全然。むしろハッとさせられた」
「お節介かもしれないけどさ、なんか負けず嫌いな感じが出てるぞー」
「ははっ、そうかも」
ルゥは苦笑した。散らかった木片やら、小物の整理やら、〈記憶の花〉の手入れやらを行なってから、遅れて下段ベッドに入る。
上段で寝息を立てているリナのことを考えながら、そういえば導師様やガーランドさんはついに戻ってこなかったな、といまさらのようにルゥは思った。
しかしそれは思い過ごしだろう。そう解釈して、そのまま眠りに落ちていった。
──その夜、ルゥは悪夢を見たのだった。




