二十一.唐突な目覚め
事の発端は数ヶ月前、ひとりのおんながタリム橋上の市街地の門を叩いたところから始まる。
銀色の髪をたなびかせていた彼女は、騎士学校の落第生であることを伝えたうえで街の自警団に入団を希望したのだ。
まだ魔物騒動が東部辺境を覆う以前のことだった。
しかしいくら辺境につながる交易都市とはいえ、商会の関係者が身元の調査を怠っていたわけではない。教導会の所有する魔術の道具を用いて、おんなの身の上話に偽りがないかを調べる程度はしていたのだった。
結果、虚偽はないと判断された。
実際におんなは嘘はついていなかった。少なくとも身の上を語るうえでは。
──ただし、ほんとうのことも話してはいなかったのだ。
「むかしの話だよ、そんなことは」
おんなは騎士学校のできごとを好んで語ろうとはしなかった。まるで思い返すたびに苦味が弾けるかのように、眉をひそめるのだ。
もちろん、落第したのだから良い思い出などないのだろう。それはタリムの街に身を寄せる傭兵たちが、おのおの抱えている事情にも同じことが言えた。だから深入りするのは禁じられていた。暗黙の了解だったのだ。
「誰しも自分の古傷をつつかれて気持ちの良いものでもないだろう?」
おとこ勝りに話すおんなのことばは、聞くものをたやすく納得させた。
それから最近に至るまで、おんなは口数は少なかったものの、任務の遂行も素早い頼りがいのある存在になっていたのである。
フェール辺境伯に依る不審な都市封鎖令と魔女の捜索、街の治安維持にもおんなの果たした役割は少なくない。
特に不安を紛らすために、根も葉もないうわさ話をするやからを酒場で監視する役目や、街角に勝手に張り出された刷物を見つけ、印刷工房を付き止めることも淡々と実行したものだった。
エヴァンズ商会の傭兵をまとめているカレシンは、おんなの働きぶりをそれなりに評価していた。だから、ガーランドが彼女のことをそれとなく尋ねたとき、けげんな顔をしたものだった。
「ええ。彼女ならたしかに自警団所属です」
「会わせてくれないか」
「はて、今日は厩屋街のほうを見回っているはずですが」
夜だった。
カレシンとガーランドは、ふたりで連れ立って街の最下層に降りていった。
昇降機から見える街の景色──夜でもなお惜しげもなく焚かれた火明かりのなかで、ガーランドはぽつりと、問わず語りを始める。
「──むかし、私は騎士学校にいました。第七期生です。当時は魔物を斃すためのありとあらゆる方法が手さぐりでした。そのため魔法技術の可能性を探究する目的で、現在では否定された方法に基づく訓練もあったのです。特に、私がいた頃は、酷いものでした」
カレシンは無言で、ガーランドのほうを見やる。
「私はその訓練に耐えきれずに、違う道を選びました。しかし当時の落第生のなかに途方もない実力を抱えながらも、魔道に堕ちてしまったものもいたのです。彼女は──銀色の髪に、紫水晶のひとみが特徴的だった」
カレシンの眉が動いた。
「騎士学校では、魔物と戦うために意識的に情動を抑える訓練をするものなのです。しかしそれがわかったのはつい十数年前までのこと。それまではあまりおおっぴらに言えない特殊な訓練や実験が多かった。
……彼女は、その〝特殊な訓練〟とやらの志願者だったのです」
沈黙。滑車の音だけが彼らを下へ下へと送り出している。
「私はその訓練がどんなものかは知りません。が、その記録は抹消されました。被験者としての彼女は公式は存在しなかったことになっているはずです。だから、もしあなた方が彼女の身の上を調べようとしても、当たり障りのない経歴しか見つからないでしょう」
ここでようやく、おとこはからだの向きを変えた。
「──失礼ですが、なぜ何から何までお話しになるのですか?」
「あなたが他人だからです」
「ほう」
「おそらくこの件が終われば、あなたとは二度と逢わない。だから話せると思いました。どうぞ胸の奥に仕舞っておいてください。しょせん私のことばは戯言ですから」
ガコン、と昇降機が着地する。扉が開くとともに、ガーランドは我先に歩き出した。
目的の人物は、いとも容易く見つかった。厩舎の一角を歩いていたのである。彼女はさながら来るのがわかっていたかのように、堂々とおとこふたりの訪問に受け応えしてみせた。
少しだけ、ありきたりな会話をする。あなたに客人だ。なんでもあなたに面識があるとのことだったが。いいえ、知りません。前にも言ったと思いますけど、人違いではありませんか……
「──しらを切るのもほどほどにしてくれないか、イシュメル・クロイスター」
ガーランドがおんなの名前を口にした。その名前は、カレシンをはじめ、街の人間は誰ひとりとして聞いたことのない名前だった。
おんなは微動だにしなかった。冷静を通り越した感情が、ゆっくりと周囲の気温を下げていく。その場に居合わせた人間はみな悪寒にも似た寒気を覚えたことだろう。
だがそれは錯覚ではなかった。
ぱちっと爆ぜた松明が、音を発しなくなったかと思うと、途端に全身に鳥肌が立った。風が吹く。その流れの変化を全身で察知したかと思うと、わざわざ間違いのないように目の前で白いものを交えて吹き荒れた。
──雪は、天空に流れる時間を閉ざす結晶にほかならない。
「懐かしいな」とイシュメルは言った。
銀色の髪が流される。紫水晶のまなざしが細く鋭く尖っていく。あわせて抜いた得物の剣尖が、ガーランドの喉元に向かって焦点を絞った。
「その名前がある限り、やはりこの憎しみは溶けてはくれないようだね、サイラスの〝卑怯者〟よ」
「〝卑怯者〟ね……」
「当たり前だ。それがお前が一生背負うべき二つ名だろう?」
ガーランドは苦笑した。もはや笑うしか仕様のない気持ちだったのだ。
それを察したのか、イシュメルは意地悪く微笑んだ。
「しょせん、われわれは過去に囚われたもの同士、というわけだ」
「なるほどな」
「さて──」
と、言いかけて、イシュメルは自分を見下ろす何者かの視線に気が付いた。しかも強力な魔力を伴うまなざしに。
とっさに顔をあげて、自分を見る目を剥がそうとした。しかしそれが仇になった。ガーランドが素早く間合いを詰めて、得物を持った手首を蹴り上げたのである。
「魔女だ、魔女が現れたぞ!」
イシュメルは逃げるしかなかった。しかし決して不利ではない。なぜならここはすでに彼女が数ヶ月掛けてつくり替えた〈結界〉のなかなのだから──
†
事件が発生したとき、アデリナは自室のベッドでごろごろしていた。
ここのところあんまり眠れていないのだ。寝ても覚めても魔法技術の訓練で、見るもの聞くものすべてが真新しい。そういうのは嫌いではないのだが、気疲れが激しい。
そして、アデリナはその手の疲れにはめっぽう弱かった。
からだを酷使するほうの疲れなら、比較的慣れている。が、こればかりは慣れない。ルートとはまったく逆だった。あいつはいつも読み物や考えることが手っ取り早い。おまけに楽しそうだ。ちょっとムカつく。
もちろんだからと言って、アデリナがルートを嫌っているわけではない。ただ、彼には自分が持ち得なかったすべてがあるような気がして、物足りないのだった。
(せめて剣を振るえたらなあ)
独りごちるように、盛大にため息を吐く。この頃思っていることとやっていることにずれが生じている気がした。それはそのまま、心とからだの遊離につながっていることをまだ彼女は知らない。
アデリナの目線は、部屋の片隅に立て掛けられた金製の柄の剣に向けられた。
この剣、ルートを媒介にして顕現させたものではあるのだが、見覚えのない形状だった。仮に魔法技術の産物であったとしても、アデリナの記憶にはこのような武器を見たことも、ましてやその素材や作り方も存在しないはずなのである。
にもかかわらず、あのとき彼女はためらいもなく剣を引き抜いた。それがわからない。どうしてあのときはできて、いまはダメなのか? その差は? 努力の量? 才能? それともあのときはまぐれだったとでも?
もし魔術の才覚にかたちがあるとするならば、きっと土の中に砂金を求めるようなものだった。どこにあるかはわからない。しかし掘らねば当たらない。かと言って、適切な箇所をねらわねば、いつまで経っても無駄な努力をする羽目になる。
彼女にとっての砂金はひょっとすると、もう底を尽きてしまったかもしれないのだ。
──りいん、りいん、りいん。
軽い耳鳴りだろうか。考えすぎている。アデリナは目を瞬かせて、ぼんやりと霞がかった視界をもう一回復活させた。
それにしても……とアデリナは思う。どうしてガーランドさんはアタシたちに魔法技術なんて妙なものを教えようとしたんだろう? ルゥはともかく、アタシには才能なんて無いのかもしんないのに……
モヤモヤが、部屋の片隅にわだかまる。空気が少し澱んだかと思うと、アデリナはふと違和感を覚えた。
考えれば考えるほど息苦しい。気持ちの澱みが具現化している。
ふと目を部屋に向けると、一瞬だけ影がよぎったような気がした。
つかの間、勘違いかと結論づける。
しかしすぐに取り消した。隣りの部屋から大きな尻もちを付く音が響いてきたかと思ったら、あとから「魔女だ!」と叫ぶ声を聞いたのである。
アデリナは立ち上がった。そして剣を片手に取る。
隣りはルートの部屋だった。入った途端、彼女は思わぬ光景を目の当たりにする。
「寒っ!」
吹き荒れる銀景色。窓の戸が鳥のようにけたたましく羽ばたく場で、ルートが風に揉まれながらも外に向かって進もうとしているのだった。
「ルートッ!」
アデリナは駆け出した。もちろん激しい向かい風が立ちはだかるものの、とっさに持ってきた剣を振りはらうと、途端に身が軽くなるのを感じた。
まるで目に見えない薄い幕が途切れたかのようだった。アデリナはルートの傍らに寄り添うと、その手を取る。
瞬間、彼女は弟の身を包む透き通った布を見いだした。細長い薄物のごときそれは、ルートのからだを足元から頭頂部にかけて螺旋を描くようにぐるぐるに巻いている。
(これがルゥのからだの動きを縛ってるんだ)
アデリナは剣先をそっと突き立てた。悲鳴のような音を上げて、雪化粧を帯びた布を掻っ捌くと、糸の切れた人形のように頽れるルートのからだを抱きかかえた。
「おい、起きろ!」
そっと頬を叩く。すると、慄える手が差し伸べられた。
「ダメだよ……リナ……むやみに傷付けていたら、相手の思う壺だ……」
アデリナは混乱する。何言ってんだ、こいつ? こんな状況で身を守ろうと思ったら武器を使うしかないじゃないか!
「リナ……ちがうよ……ここはもう出来上がった〈結界〉のなかなんだ……考えたことが現実になっちゃうから……余計なことを考えないで……できるだけ話すんだよ」
「えっ、ウソだろ?」
「耳鳴りしなかった?」
「……した」
「なら、そういうことだよ。さっき厩屋街のほうからこっちに魔女が見てきたんだ。ここにいたらまずい。早く出なくちゃ」
アデリナはうなずいた。
それからふたりは連れ立って商館の外に出ようとした。館内は魔女の出現に反応して大わらわと言った様子で、警備の兵士から丁稚働きの少年までが廊下を行き来していた。
一階の広間で、シャラ・エヴァンズの怒鳴り声が聞こえてくる。彼女はさっそく魔女の捜索に人手を回しているようだった。ふたりはその間隙をすり抜けて、街中に出ることに成功した。
客人街では、すでに多くの兵士や傭兵が立ち並んでいた。かがり火や松明が盛んに焚かれ、ふたりはその陰影の深い場所を手探りで進む羽目になる。
「ルゥ、これからどうすりゃ良いんだ? これじゃどこに行ってもしょうがないぞ」
「いや。ここが奴らの〈結界〉なら、その『境界』と『中心』があるはずだよ。そのどっちかを破壊すれば少なくとも魔女は魔術を使えなくなる。いまやるなら、そっちのほうが良いと思う」
「でも、それはどこにあるんだよ?」
「考えてもみてよ。いま、ボクたちがいる場所だっておそらく〈結界〉のなかなんだ。ひょっとすると街全体がそうなっててもおかしくない。でも、これだけの空間を支える『中心』って、よほど強力なものでないと保たないはずだ──」
双子が魔術の訓練に用いていた水晶玉は、単なる玻璃の球である。しかしそれは占いにも用いることができる代物だった。
ヒトはなんらかの事物や道具に特別なものを感じることがある。それは特殊な思い入れかもしれないし、文化的に根付いた信仰心から来るものかもしれない。とにかく強い印象を残すものが魔術の道具として尊ばれているのだ。
ルートが指摘しているのはまさにこのことだった。彼はこれほどまでに大きな〈結界〉を作るためには、相応のものが『中心』になっていないと理屈に合わないと考えていたのである。
「だけどさ、そんなに強い〝力〟のあるものが堂々と街中にあるとは限らないだろ」
「そうじゃないかもしれないよ。むしろいつも見えてるのに気づかないもののような気がするんだ。ボクたちはいつも見てるフリしていろんなことを見落としてる。そしていつも何気なく繰り返してて、その意味を考えたことのないものに、魔術の本質があるんじゃないかなと思ってるんだ」
「あーッ! めんどくさいし小難しい! 持って回った言い方すんなよ、なんだって言うんだ!」
「……あれだよ」
ルートが指差したのは、橋上都市の中枢を占める巨大な四角柱──教導会の寺院だった。




