二十.おやすみを言う前に
薄暗い光が、部屋のなかを覆っている。ルートはその片隅で、壁に向かうようにして、じいっと目を凝らしていた。
幽かな灯りに照らされた、その目線の先には黒い書物がある。かつてメリッサの村で、アデリナとともに読んだものである。
いま、この本の中身は空だった。
獣皮紙で作られたページをめくってみる。何度も、何度も。しかしそこになんらの文字も確認できなくなっている。
しかしルートの目には、ありありとその内容を思い浮かべることができたのだった。
(──わたし達は、この世界の秘密を知っている。だからどうして魔女が狩られる運命なのか、嫌でも知らざるを得なかった。
母親が魔女である、わたし達の子供にも、魔女の力は引き継がれている。だから恐ろしかった。魔女の能力が開花するのは時間の問題だった。そのため、このままでは世界が子供達を殺してしまうだろう──)
あらためて、心のうちにある文章を思い出してみる。原文がないから、記憶が間違えてるのかどうかもわからない。それだけが不安だった。
しかし素材はこれしかないのだ。ならば連想はここから出発しなければならなかった。
(ユリアおばあちゃんの話に拠れば、〈この世界の秘密〉とは、魔物が世界に現れる真の原因だと言ってた……それがなんなのかはわからないままだったけど……ただ、その知識こそ魔女がこの世界の敵と見なされる理由であり、そのためにボクたちもいずれは危ない目に遭うことは間違いないと思う)
だとすれば──ルートの思考は加速する。
(世界が子供達──ボクたちを〝殺す〟という表現は、いったいなんなんだ? お父さんが書き綴ったことばの綾なのかもしれないけど、何かが引っかかる……)
ここ数日間、立て続けに魔法技術の訓練を受けているうちに、ルートはある規則性に気がつくようになった。
それは、世界はありのままに見ることができない、ということだった。
ロウソクの火やよそ風の音、机の表面に浮き彫りになった木目、街の雑踏の臭い、パンのサトムギ粉がもたらす稠密な食感などは、見て、聞いて、触って、嗅いで味わったとしても、それだけなのだ。
魔法技術でそうした感覚をもう一度取り出そうとしても、まずうまくいかない。自分の感じたことを表現するためには、必ず何か別の実体を捉える必要があったのだ。
例えば──燃えるロウソクは氷柱が溶けていくかのような形状を、よそ風の音は誰かのこそばゆいささやき声であるかのように考える。すると、より実感を持ってその実物を捉えることができるようになる。
いつしかルートは自分のからだを、ひとつの〈器〉に見立てていた。
それはいろんなものを触って、嗅いで、見聞きして、味わうことで、自分という容れ物のなかにそれっぽい何かを蓄えていく、という実体の捉え方だった。
何かをべつの何かで捉えなおすことじたいは、そんなに難しいことではない。
比喩と呼ばれることばの使い方がまさにそうであるように、ヒトは、未知のできごとを自分にとって馴染みのある表現に置き換えることで初めて世界を了解するのだ。
ところが、そうしたやり方をわかっていくうちに、ルートはふと、何か思い違いをしていないかと不安にもなった。
(世界が子供達を〝殺す〟──この文章の主語が特定の誰かじゃなくて、世界そのものだというのが、やっぱりわからない。てっきりこれは比喩だとばかり思ってたんだけど、ほんとうに〈世界〉そのものが、なんらかの意志を持ってるとでも言うのかな……?)
だしぬけに窓から冷たい風が、吹き込んだ。蝶つがいを軋ませながら、けたたましくがなり立てるその様子は、何か悪いことを指弾するかのようだった。
手元のロウソク灯りの火が揺れる。それに合わせて、ルートの影もすがたかたちを自在に歪めていくのだった。
ルート自身は一歩たりとも動いていない。
しかし窓からささやく強風が髪を掻き乱している。流れるような黒髪は、彼の意志に反して風に弄ばれたままだった。
「……〈風の星霊〉、そこにいるのかい?」
言ったそばから、ルートは自身の言動をふしぎに感じた。
(なぜボクはこんなことを知っているのだろう?)
彼の戸惑いなど知る由もなく、風は弱く親しげに踊り始める。
ロウソクの火は次第に穏やかになった。影の揺らぎも落ち着いてきた。
ルートは我知らず微笑む。
「ダメじゃないか、そんなところで悪戯をしてちゃあさ」
考えるよりも先に、ことばが口をついて出る。何かがおかしかった。ルートがもう少し冷静だったら、自分が機械仕掛けの操り人形になっていく実感を覚えたに違いないのだ。
ところが彼はいましがた口にしたことばに触発されて、全く思いがけない記憶を蘇らせていた。
(そういえば、お母さんはよくこうして見えないものに話しかけていたな──)
寝物語を聞かせてくれる母親の、歌うような口ぶりは、ときおり全く子供の知らない世界に向けて、声を発する。
それは旧知の間柄に向けて語らうかのように親しげでありながらも、子供にとっては未知の横顔に他ならなかった。
恐る恐る、尋ねたことを憶えている。
すると彼女はこう応えてくれた。
「〈世界〉は応えてくれるのよ、ルート。あなたが語りかけようとさえすればね」
「よくわかんないよ」
「でしょうね。でもいずれはわかる。目に見えているものがすべてじゃない。理屈で説明できることだけが世の中じゃない。だから、わたしは見えないものと話す〝力〟がいつの世にも大切なことだと思うの」
でもね、とおんなは但し書きをつける。
「見えるものがすべてでないように、見えないものがすべてでもない。ふたつは複雑に絡み合っていて、お互いに支え合ってもいる。だから何かがどちらかに偏ったとき、きっと大きな揺り戻しが起こるわ」
「それは、例えばどんな?」
「かんたんなことよ。これはちょっとした取り替えっこなの。話しかければ応えてくれるように、見えないものから何かを得ようと思ったら、それなりのものを差し出さないといけないのよ。それを忘れたとき……」
一瞬言いよどんでから、
「〈世界〉の側から取り立てが発生するわ。失われたものを取り戻すために」
ルートの記憶はここで途切れる。さながら続きを示したまま白紙に戻った書物のように。
風がふたたび吹き始めた。黒い書物のページを煽って、次へ次へと急かしていく。
(失われたものを取り戻す……〈世界〉の側から何かが失われている?)
失われたものとはいったいなんなのか? 学童として寺院勤めが長かったルートには、まもなくひとつの結論に到達した。
〈白紙の契約〉、およびそれを記した心の書物。世界の原理を記した神々の法が、おのずからひとびとの心のうちに彫り込まれたものだとするもの。
そのほんらいのかたちは石板だ、と『神聖叙事詩』は物語っている。
だが肝心の原文は残されていない。さながらいま開いている黒の書物に書かれていた茨の文字同様に。
(まさか……)
ルートはある仮説にたどり着く。しかしそれは口にするのもはばかれるようなものだった。
(どうしよう。もしこれがヒトの源罪の正体だとすれば、ボクたちに何ができるんだ?──お父さんとお母さんが逃げ隠れるしかなかったのも仕方がないじゃないか!)
ルートは立ち上がった。途端に風が驚いたかのように、急に窓から走り出す。そのなかに白いものが混じっているのを目の端で捉えたとき、少年の記憶の索引が、特定の場所に向かって参照の手を伸ばした。
とっさに黒い書物を開くと、何か得体の知れない影が動き出していた。顔に足の生えた小人──グリロスだった。
グリロスは気まずそうにルートを見上げると、ロウソクに向かって持っていたものを投げつける。小さな槍のように見えたそれは、火の根元を見事に断ち切ってみせた。
暗がりが喉を鳴らして、部屋を呑み込んだ。
ここで彼はようやく何かまずいことが起ころうとしているのを察知して、窓に走った。
窓から下を見る。
橋の最上層──客人街の上階から見下ろす眺めは、街の灯りが点在する谷に向かって進む明るい闇の世界だった。
光のひとつひとつが夏の夜に飛ぶ光虫のように、小刻みに動いている。それらの火が崖の表面を舐めるように照らしていると、ふと白いものがゆっくりと降りていくのを視ることができた。
(街のひとが最下層に向かってる……?)
けげんに思うのもつかの間、街の最下層から巨大な五芒星が輝き出した。
ルートの片目も、同時に六芒星の刻印を光らせていた。彼はまだ、魔術の産物を見るときに、自身のひとみがこのような刻印を輝かせることに気付いていなかった。
だからなのか、彼は闇のなかから自分を見つめ返す存在に気がついたとき、なぜ察知されたのかを理解できなかった。
(見られた──!)
背筋が凍る思いがして、とっさに身を剥がした。窓から離れ、床に尻をつく。あわてて立ち上がろうとして、手のひらを床につけた瞬間、激痛がほとばしった。
見れば、手に霜焼けが出来上がっていた。皮膚も一部が剥がれている。
しまった! と思う。すでにここは相手の〈結界〉の内側なのだ。もはや何を思い、感じるかも相手の思うがままなのだ。
ルートは自身の魔眼が捉えた相手の顔を、ハッキリと刻印したかのように記憶していた。そのおんなは銀色の髪に、紫水晶の鋭いまなざしでこちらを見返していたのだ。
「魔女……ッ!」
そして、彼のつぶやきに呼応するかのように、街のなかからも糾弾する叫び声が上がったのである。
魔女だ、魔女が現れたぞッ、と。




